天文10年(1541)、父氏綱の死去により家督を継承。その混乱に乗じて関東管領上杉憲政、上杉朝定、古河公方足利晴氏は、甲斐の武田氏、駿河の今川氏を加え北条氏包囲網を形成した。しかし、同15年の河越合戦(埼玉県川越市)で氏康は、両上杉・足利の連合軍を敗走させ、武蔵北部まで勢力を伸ばした。同21年には上野の平井城(群馬県藤岡市)の上杉憲政を越後に逐い、関東最大の戦国大名となった。周囲には武田氏、今川氏、上杉氏など強力な大名が割拠していたため、それらと和戦を巧みに使い分けながら領国拡大を行った。税制の大改革や家臣や職人衆を把握するため「所領役帳」の作成など、内政面でも優れた手腕を発揮した。
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