展示

関八州大絵図

開館中に毎月実施していたウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2020年5月の逸品

関八州大絵図(かんはっしゅうおおえず)

関八州大絵図(かんはっしゅうおおえず)

1883㎜×2090㎜
制作年代:江戸時代
(景観年代は承応3年(1654)~寛文3年(1663)頃

一般的に、明治以降の近代的な地図が作られる以前、江戸時代までに作成された土地や空間を描いた図は「絵図」と呼ばれています。

古代より領主は、領地の検地結果を記す「土地台帳」と、土地の様子を描いた「絵図」を提出させ、それを基に領地を支配していました。江戸時代も同様に、江戸幕府によって「国絵図」や「日本総図」が数度作成されていますが、これら絵図を基にしたと思われる絵図が現在でも各地に残されています。

今回ご紹介するこの大きな絵図(図1)は、江戸を中心に関八州(相模(図2)・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野・常陸)に加え、伊豆・駿河(沼津、富士山)・甲斐・信濃(千曲川水系、黒姫山まで)を1枚に描き、各国の河川を中心に、村名・街道・湖沼などを描いていますが、国境に黒線を引き、村名を小判型に記すこと、城・城下町を□で囲う城形の図式などの手法が国絵図とよく似ています。しかし、村々の書込みに精粗があるなど、国絵図のように正確さを目的に作成されたものではなく、河川を太く大きく描いていることから、関東周辺諸国の河川を描くことを目的に作成された「河川絵図」であるといえるでしょう。

描かれた時期や作者は不明ですが、描かれた図像から、絵図の景観年代を考えてみましょう。まず注目点は、現在と同様に利根川が銚子に抜けている(図3)ことです。江戸幕府は江戸の町を水害から守るため、江戸湾へ注いでいた利根川の本流を、幾度かの瀬替えの末に常陸川筋を経て太平洋へと流すという大規模土木工事を行いました。この利根川東遷事業は承応3年(1654)に完成していますので、描かれているのはそれ以降の様子となります。また一方で、寛文10年(1670)に干拓され「干潟八万石」と呼ばれる新田となった、下総国の椿海が描かれていること、寛文3年(1663)に下総国国府台へ移転した下総国関宿の総寧寺が、未だ関宿に描かれているなどにより、寛文3年頃までの間の様子であると見ることができます。これらのことから、描かれている景観の年代は江戸時代初期、承応3年(1654)頃~寛文3年(1663)頃と判断することができます。

この絵図には街道も描かれています。江戸時代の主要街道である五街道(図4)(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)は太い朱線で描かれていますが、五街道ではない水戸街道も五街道同様の太い朱線で描かれているのは見逃せません。大分県臼杵市教育委員会に「関八州大絵図」と構図がとてもよく似た、同じ図を写したと思われる絵図が2枚ありますが、どちらも水戸街道は水戸までつながっておらず、「関八州大絵図」の作者・作成依頼者は水戸藩にゆかりのある人物で、水戸街道をあえて主要街道として書き加えたのではないでしょうか。

江戸時代初期の様子を描いた貴重な河川絵図であるうえ、様々な要素を含む絵図ですので、見る方それぞれの楽しみ方ができると思います。どうぞ存分にお楽しみください。(根本 佐智子・当館非常勤学芸員)

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