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二代広重「諸国名所百景」

開館中に毎月実施していたウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2020年8月の逸品

二代広重「諸国名所百景」

二代広重「諸国名所百景」

二代歌川広重
「諸国名所百景 日光霧降の滝」1859年

今月は二代広重の「諸国名所百景」をご紹介します(展示は9月13日(日)まで)。
「諸国名所百景」は日本全国の名所を描いたシリーズで、二代広重の作品を代表するシリーズの一つです。計85点が出版されたといいますが、現在、画像を確認できるのは81点です。当館では所蔵している作品を昨年から5回に分けて紹介しており、今回が最終回です。

「広重って二代もいたの?」と思われるかもしれませんが、初代の没後、二代、三代の広重が、活躍しました。「東海道の浮世絵」といえばその名が思い起こされる初代歌川広重(1797~1858)は、安政5(1858)年9月に亡くなります。その後、弟子の重宣(しげのぶ)が二代として名を継ぎました。二代広重は、現在、知名度が高いとは言えませんが、師と同様に東海道をはじめとした風景や、師が描くことのできなかった開港後の横浜の街を描いており、当館にとって重要な浮世絵師です。
まず、二代広重について当館所蔵の作品を見ながらご紹介します。文政9(1826)年に生まれた二代広重は初代に弟子入り後、弘化年間(1844-48)頃から「重宣」と署名した一枚ものの作品が確認されます。弘化年間の作と推定されている「江戸名所風景 隅田川」(図1)は御高祖頭巾(おこそずきん)を被った女性が真っ白に雪の積もった隅田川を背景に立っています。この作品は浮世絵の定番サイズである大判の半分の大きさである中判に色数も少なく摺られた簡略なもので、デビュー間もない若手らしい作品と言えます。
重宣時代の作品でご覧いただきたいのは嘉永5(1852)年刊の「大井川かち渡」(図2)です。東海道の道中にある大井川(静岡県)は、橋や船で渡ることはならず、「かちわたり」といって図に見られるように人足を頼んで川を渡っていました。この絵では女性たちが輦台(れんだい)や肩車で川を渡っています。籠が乗っている豪華なものから、腰掛けるだけの簡易なものまで輦台を描き分け、川越えの様子を生き生きと表しています。増水すると渡ることができなくなる大井川は東海道の旅でも有名な場所で、浮世絵にも繰り返し描かれました。未だ東海道の旅をしたことがない人々は、この絵を見て「越すに越されぬ大井川ってこんなところか」と想像に胸を膨らませたことでしょう。

さて、安政5年に師の初代広重は亡くなります。初代広重は晩年の安政3年から5年にかけて「名所江戸百景」シリーズを出版します。名前の100点を超える数が出版されたシリーズには、初代の没後に重宣が「二世 広重画」と署名した「赤坂桐畑雨中夕けい」(1859年、図3)も含まれます。激しい雨に煙る溜池(東京都港区・千代田区)の向こうに木々や人を薄墨の影で表しています。
そして二代広重襲名後は、師と同じように名所絵の絵師として活躍します。なかには、三代歌川豊国(初代国貞、1786-1864)が人物を、二代広重が背景の風景を描いたコラボレーションの作品も複数あります(「合筆源氏庭中の雪、図4)。初代広重も三代豊国とのコラボレーション作品を手がけており、初代広重にとっても先輩格となる三代豊国とのコラボレーションは、まさに二代広重が初代広重の後継者として浮世絵界に位置づけられた証と言えます。
ここで二代の横浜浮世絵を見てみましょう。「横浜厳亀(がんき)楼上」(1860年、図5)は開港初期の代表的な名所、港崎(みよざき)遊廓(横浜市中区)の中でも最も有名であった岩亀(がんき)楼の二階を描いたものです。廊下の天井に吊されたシャンデリア、座敷の壁一面に散らされた扇面は、岩亀楼の名物と伝えられるものです。窓の向こうに広がる海が横浜の光景であることを印象づけます。
しかし、師の娘との婚姻により二代として名前を継いでいた広重は、慶応元(1865)年頃、その家を去って「喜斎立祥(きさいりっしょう)」を名乗り、明治2(1869)年に亡くなっています。


さて、本題の「諸国名所百景」に入りましょう。「諸国名所百景」は竪型に画面を使って、日本全国から名所を選んだシリーズです。全国の名所を取り上げるという趣旨は初代広重の「六十余州名所図会」(1853~56年刊)と同じで、版元(いわば出版社)は「名所江戸百景」と同じ魚屋栄吉です。
まず、その構成から見てみましょう。初代の「六十余州名所図会」は全国の国々から基本的に各国一カ所を選び69点からなります。しかし、「諸国名所百景」は一国1点とは限らずに名所を選んでいます。例えば今回の展示では陸奥は3点、前回に展示した信州は6点が確認されています(当館は5点所蔵)。それでも合計が「百」となる途上で出版が終わったようです。
次に、表現手法を見てみましょう。初代広重の「名所江戸百景」は画面の手前に大きなモノを描いて目を惹き、そのモノ越しに広がる名所を見せる表現の作品が有名です。「亀戸(かめいど)梅屋鋪」(1857年、図6)は咲きほころぶ梅の木を画面一杯に大きく描き、その枝越しに梅見を楽しむ人々が小さく描かれています。今回の展示の中では「東都高輪海岸」(1861年、図7)が、この手法を取り入れています。画面右に、馬に乗った外国人女性が大きく描かれています。馬は「く」の字のように湾曲した東海道を進んでいますが、左手の奥には国旗が翻る外国公館が見えます。高輪(東京都港区)はこれまでも繰り返し名所絵に描かれた場所ですが、外国人や外国公館が見えるのは横浜開港後ならでは光景です。
さらに師との共通点と違いを見てみましょう。初代広重は「六十余州名所図会」で陸奥からは日本三景の一つ松島(宮城県)(「陸奥松島風景富山眺望之略図」1853年、図8)を取り上げています。二代は松島に加え、現代まで伝わった相馬野馬追(そうまのまおい、福島県)(「相馬妙見祭馬追の図」1859年、図9)と外ヶ浜(青森県)(「奥州そとヶ浜」1859年)を取り上げています。定番の松島だけで済ませていません。また、越後からは初代、二代とも佐渡金山(新潟県)を選んでいますが、初代は外観を俯瞰する構図で描いた(「佐渡金やま」1853年、図10)のに対し、二代は坑道で働く人々を描きます(「佐渡金山奥穴の図」1859年、図11)。暗い坑内の様子は金の採掘現場を見てみたいと思う人の気持ちをくすぐります。このように二代は名所の選び方、表現の仕方で初代とは違う色を出そうとしたように見えます。
また、「日光霧降の滝」(1859年、図12)の霧降ノ滝(栃木県)は葛飾北斎(1760-1849)が「諸国瀧廻り」(天保年間刊)に、溪斎英泉(けいさいえいせん 1791-1848)が「日光山名所之内」(天保14~弘化年間刊)に取り上げています。当館はどちらも所蔵しておらず写真を示すことはできませんが、二代広重の満天の星空のような飛沫(しぶき)の表現は独特で、二人とは異なる表現を目指しているように見受けられます。

「諸国名所百景」は師の継承者としての踏襲と師とは異なる色を出すべく挑戦をあわせ持つ、二代広重を継承したばかりの気負いを感じさせるシリーズと言えます。今回は12点(出品リストはHP内のトピック展示のコーナーでご覧いただけます)を展示室でお楽しみください。


近年、浮世絵の展覧会は増えてきました。しかし、有名な絵師の有名な作品ばかりが繰り返し紹介されているように感じられます。それは複数の作品が世に残っている浮世絵版画だからこそできることではあります。しかし、有名な絵師の作品以外にも面白い浮世絵がたくさんあります。絵画作品に惹きつけられる理由は、見る人により異なるはずです。これまであまり紹介されていない作品に強く惹きつけられることがあるかもしれません。三密とは無縁な当館の常設展示室で浮世絵と思う存分向き合い、自分だけのお気に入りを見つけていただければ幸いです。(桑山 童奈・当館主任学芸員)

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