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山中藩陣屋之図(やまなかはんじんやのず)

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2020年10月の逸品

山中藩陣屋之図(やまなかはんじんやのず)

山中藩陣屋之図(やまなかはんじんやのず)

山中藩陣屋之図
昭和41年(1966)頃
菊川京三模写
560mm×730mm

江戸時代、神奈川県内にあった「藩」をご存知でしょうか。
今回ご紹介するのは、現在の厚木市荻野に陣屋を置いていた荻野山中藩です。
陣屋とは小規模領主の地域支配の拠点のことです。城郭のような石垣や櫓はないものの、藪や堀で区切られた内部に、藩政を行う役所・藩主の居住する屋敷のほか藩士役宅などが置かれました。

荻野山中藩は大久保教寛(小田原藩主大久保忠朝二男)を祖とする譜代大名で、所領を駿河国・伊豆国と、相模国高座・愛甲・大住郡内に有していました。もともとは藩政の中心を駿河国駿東郡松永村(現沼津市)に置いていましたが、天明3年(1783)に陣屋を中・下荻野村入会地に移したことで荻野山中藩が成立しました。移転の理由は不明ですが、一説には参勤交代への負担を減らすためとされています。

この荻野山中藩陣屋を幕末の慶応3年(1867)に悲劇が襲いました。12月15日夜、陣屋は薩摩藩邸に拠点を置く浪士隊の襲撃を受けます。
慶応3年10月14日、徳川慶喜は大政を奉還し、12月9日に王政復古の大号令が出されますが、薩摩藩を中心とした一部の倒幕強硬派は倒幕の口実を探していました。荻野山中藩陣屋への襲撃は11月29日に倒幕を掲げる浪士らが挙兵した下野国出流山(いづるさん)(現栃木県栃木市)の事件同様、関東地方の混乱を狙い、徳川幕府を挑発するものでした。
このとき藩主は江戸屋敷に詰めていたため無事でしたが、守りが手薄になっていた小藩は浪士にとって格好の的であったといえます。浪士隊に博徒や人夫が加わり総勢300余名となった襲撃隊は、土蔵から武器・金・米等をうばって火をつけたのです。藩の記録類はこの時にほとんどが焼失してしまいました。
明治維新を迎えると、陣屋は藩役所・県役所となりますが、明治4年(1871)11月、足柄県になると藩知事・県知事を務めた元藩主大久保教義は東京に居を移しました。天明3年の陣屋の完成から80余年、3代にわたって存続した陣屋は終焉を迎えました。

それでは、「山中藩陣屋之図」から、陣屋内のようすを観察してみましょう。

まず、絵図は西を上に描かれています。図1の左上、西から南へ流れる荻野川(図1矢印参照)の土堤と自然の土手を利用して陣屋は築かれました。図中、土堤は茶色で塗られており、その内側にはぐるりと朝鮮籬(ちょうせんがき)図2)と立木がめぐらされていました。
北の端は厚木村と津久井県とを結ぶ甲州道に接しており、陣屋への正式な入口である大手門が置かれました(図3)。大手門をくぐり、左(南西)へ進むと石垣と表門が現れます。表門を入って左手には米蔵と、奉公人部屋(中玄(間)部屋)があり、その左奥には立木に囲まれた稲荷社が見えます。さらにその奥に進むと、藩の役所と藩主の居住する御殿があったことがわかります(図4)。稲荷社は陣屋稲荷とも呼ばれ、天明4年(1784)7月陣屋が完成した折に御殿の鬼門の方角(北東)に置かれたものです。
さて、気になるのはこの絵図が作成された年代です。
実は、展示中の資料は後世に模写されたものです。

絵図の原資料は下荻野村名主家に陣屋図の写しが伝わっており、その名主家陣屋図を日本画家菊川京三が昭和41年(1966)頃に模写したのが本資料です。菊川氏は美術研究史『國華』複製図版制作者であり、細部の情報まで書き込まれ原資料と比しても遜色ない「資料」に仕上がっています。

1点だけ模写と原資料が大きく異なるのが、右側に付された表題です。
この模写には「天明四年構成」と大書されていますが、名主家の原資料では本紙が貼られた台紙部分にこの題が付されており、必ずしも原資料作成時ではなくのちに台紙に貼られた際に記されたものと考えられます。
では、絵図はいつ作成されたのでしょうか。

図中から原資料の作成年代を探ってみることにしましょう。
まず、表門から入って右手側(北西側)は寛政3年(1791)の陣屋絵図(寛政三年辛亥歳秋八月写「相州愛甲郡中荻野村山中御陣屋内幕図復改」、厚木市教育委員会『第十一集 厚木市文化財調査報告書 荻野山中藩』所収)には描かれていません。そのため、天明4年(1784)の陣屋完成時にはなく、後に拡張された区画でと考えられます。また本図に描かれる藩校「興譲館」は明治元年(1868)11月に開校したものです(図5)。

一方、陣屋敷地内のいたるところに描かれている長方形は藩士が家族と居住する長屋を示したものですが、長屋七棟は慶応3年(1867)の浪士隊による焼討事件で焼失したとされています。そのため明治9年(1876)に作成された「旧荻野山中藩建物之絵図」(図6)には長屋は描かれていません。
詳しく調べれば調べるほどちょっと不思議な絵図です。
作成年ははっきりせず、作成目的も判然としません。
しかし、明治初期の配置図に長屋が加えられていることで、焼討事件直前の陣屋内の様子を想像させてくれる絵図といえるかもしれません。

現在、陣屋があった場所の一部は厚木市史跡公園となっています(図7)。陣屋跡地を貫いて国道412号が走っていますが、陣屋の土堤はそのままに、周りに広がる田畑からぽっかり浮かんで見えます。表門から御殿・役所に至るまで、建物は全て失われていますが、陣屋稲荷は当時と同じ場所に祀られています。
ぜひ一度現地を訪れて、ありし日の陣屋に思いをはせてみてはいかがでしょうか。(寺西 明子・当館学芸員)

掲載図出典:
(図1、3、4、5)今月の逸品資料部分
(図2)朝鮮矢来(籬)、秋里籬島著『石組園生八重垣伝 築山山水. 乾』明治34年(1901)刊行、国立国会図書館デジタルコレクション
(図6)明治9年(1876)「旧荻野山中藩建物之絵図」部分、難波家文書、当館借用
(図7)山中陣屋跡史跡公園の範囲は、同公園内案内板「荻野山中藩陣屋跡」を参考に作成

参考文献:
厚木市教育委員会『第十一集 厚木市文化財調査報告書 荻野山中藩』昭和44年(1969)10月
厚木市教育委員会『厚木市史 近世資料編(5)村落3荻野山中藩』平成21年(2009)3月

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