井伊直弼銅像 世田谷区指定文化財
藤田文蔵作 明治40~41年(1907~1908) 東京・豪徳寺
横浜掃部山公園の井伊直弼銅像を制作した藤田文蔵が、掃部山像に先立って作ったと考えられる銅像。束帯姿の直弼の立ち姿です。鼻筋の通った意思の強そうな顔立ちが印象的です。写真は世田谷区立郷土資料館提供。井伊直弼銅像 世田谷区指定文化財
藤田文蔵作 明治40~41年(1907~1908) 東京・豪徳寺
横浜掃部山公園の井伊直弼銅像を制作した藤田文蔵が、掃部山像に先立って作ったと考えられる銅像。束帯姿の直弼の立ち姿です。鼻筋の通った意思の強そうな顔立ちが印象的です。写真は世田谷区立郷土資料館提供。建碑移文
明治14年(1881) 滋賀・東沼波農業組合
直弼を顕彰する記念碑の建設は旧彦根藩士らによって計画されました。直弼没後20年にあたる明治14年に、彦根と東京の旧藩士の呼びかけにより運動が起っています。相馬永胤日記
明治13年(1880)~大正4年(1915) 東京・専修大学(相馬家文書)
横浜掃部山の直弼銅像建立に際して中心的な役割を果たしたのが相馬永胤です。相馬は旧彦根藩士で、専修大学創立者のひとり。横浜正金銀行頭取を務め、その人脈と地の利をいかし銅像建設を進めました。その様子は日記に細かく記されています。横浜正金銀行本店本館(現 神奈川県立歴史博物館) 重要文化財
妻木頼黄設計 明治37年(1904)竣工
掃部山銅像の台座を手がけたのは、横浜正金銀行本店本館(現神奈川県立歴史博物館)を設計した巨匠妻木頼黄。正金銀行の建物も相馬と妻木が組んだ仕事でした。横浜に銅像が建った明治末年から大正時代を経て、直弼は文化人、とりわけ茶人として高く評価されていきます。茶人井伊直弼の姿を伝える書状や茶書、茶道具、直弼に教えを受けた弟子たちの研鑽、そして茶人直弼を広く発信した近代数寄者の動きを追います。
安達女 重要文化財
江戸時代 彦根城博物館(彦根藩井伊家文書)
井伊直弼は幼いころから能楽にしたしみ能や狂言の台本を自ら作ったと言われています。「安達女」は直弼作と伝えられる狂言の台本。奥州安達ケ原の鬼女の伝説に取材した演目で、「鬼ヶ宿」の名で井伊家お抱えの狂言師であった茂山家に伝えられました。茶湯一会集 重要文化財
井伊直弼筆 安政4年(1857)彦根城博物館(彦根藩井伊家文書)
直弼自筆の茶書。茶会を催す亭主と招かれた客の心構えや振る舞い方を細かく説いています。「一期一会」という語はこの書物で初めて四字熟語として記されたと考えられています。月次茶器〈三月〉
8代中村宗哲作 江戸時代 個人蔵
直弼が発注して制作させた12器そろいの茶器。一つ一つの意匠は、鎌倉時代の歌人藤原定家が一年十二カ月各月の花と鳥を詠んだ和歌にちなんでいます。三月は、菫と雲雀の意匠です。楽焼七種香合〈松笠香合〉
井伊直弼作 江戸時代 埋木舎大久保忠直氏蔵
直弼は作陶を学び自ら茶道具を作ることもありました。楽焼七種香合は直弼が制作し、側役で茶の湯の弟子でもあった大久保小膳に与えたもの。茶席で用いる香を入れる器7種が一そろいになっています。井伊大老茶道談
中村勝麻呂編集 大正3年(1914) 神奈川県立図書館
近代の数寄者高橋箒庵が出版を企画し、旧彦根藩士で歴史学者の中村勝麻呂が解説を書いた直弼の茶道を紹介する書物。『茶湯一会集』など著作5書を翻刻しています。高橋箒庵が評価し出版を通して発信したことにより茶人直弼の名が広く知られるようになりました。桜田門外の変のイメージをまとった直弼。近代以降、史実に基づいて直弼を評価し、その人となりに迫ろうとする動きが起ります。事績の顕彰、政治行動や思想の研究、物語の創造など、さまざまな形で語り継がれる「直弼」をたどります。
井伊直弼画像 世田谷区指定文化財
井伊直安筆 明治~大正時代 東京・豪徳寺
井伊直弼の三男で越後与板藩井伊家を継いだ直安が描いた父直弼の肖像画。歴史の教科書などで良く知られている作品です。裃姿で井伊家の家紋のある刀を携えた威厳のある直弼の姿です。写真は世田谷区立郷土資料館提供。日本花図絵 桜田 上巳登城
尾形月耕画 明治25年(1892) 神奈川県立歴史博物館(丹波コレクション)
直弼は安政7年(1860)3月3日、江戸城に登城する途中で襲撃され落命しました。「桜田門外の変」です。この日は上巳、すなわち雛の節句で、季節外れの雪に見舞われた日でした。明治に版行された錦絵にもそうした事件のイメージが描き継がれています。開国始末
島田三郎著 明治21年(1888) 彦根市文化財課
横浜毎日新聞社などを経て神奈川県会議長を務めた島田三郎が著した直弼の評伝。島田は、直弼の側役であった大久保小膳が伝えていた史料に基づいて執筆し、直弼研究の先駆けとなる著作を完成させました。画賛「攻病尽…」
遠城謙道筆 明治時代 彦根城博物館
旧彦根藩士で、直弼没後は出家して世田谷豪徳寺の直弼墓所の墓守をして生涯を終えた、遠城謙道の自画賛。生涯を墓守に捧げた謙道は「忠義の人」として人々に賞賛されました。井伊直弼公敬慕碑〈パネル展示〉 狛江市指定文化財
明治34年(1901) 東京・伊豆美神社
東京都狛江市中和泉の伊豆美神社境内にある直弼敬慕碑。伊豆美神社宮司の小町苠が発案し、三多摩地域や川崎、横浜の人々の出資も集めて建立しました。世田谷や狛江の一部は江戸時代に彦根藩世田谷領が置かれ、伊豆美神社宮司家の親戚からは彦根藩に儒学で仕えた小町雄八も出ています。写真は狛江市教育委員会提供。掃部山の井伊直弼銅像は、大都市横浜のランドマークとして親しまれていました。関東大震災での罹災、戦中の金属回収を経て再興される歴史の中で、直弼銅像が地域の人々の中にどのように息づいてきたのか、さまざまな資料から読み解きます。
大礼記念掃部山バザー記念写真帖
昭和3年(1928) 神奈川県立歴史博物館
昭和天皇の即位を記念して掃部山公園で行われたバザーを記録した写真帖です。バザーにあわせて行われた仮装行列では井伊直弼銅像に扮した参加者が受賞し、銅像が地域の人々に親しまれている様子が見えます。井伊直弼像前での集合写真
昭和14年(1939) 鎌倉市立小坂小学校
北鎌倉駅近くの小坂小学校尋常科4年生が遠足で横浜を訪れた際に掃部山公園の直弼銅像前で撮影された集合写真です。掃部山公園や直弼銅像が遠足の目的地にもなっていたことがわかります。崎陽軒鯛めし掛紙
昭和52年(1977) 神奈川県立金沢文庫(楠山永雄コレクション)
「シウマイ弁当」で有名な崎陽軒は明治41年(1908)創業。かつて売られていた駅弁「鯛めし」の掛紙に掃部山公園の直弼銅像のシルエットがデザインされていいます。直弼銅像は「横浜らしい」モチーフとして受け入れられていたのでしょう。