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第8回 熊野のゆかり
2019.10.29
 第1会場で展示中の「熊野権現影向図」。相模原市緑区名倉の正念寺に伝わる一幅です。山の端に立ち上がる湧雲から姿を現す阿弥陀如来に、山道をゆく旅人も僧尼も合掌して祈りを捧げています。阿弥陀如来が熊野権現の本地仏と解されることから、熊野権現の至現を描いたものと考えられています。熊野は、一遍が熊野権現から神託を受け立教開宗に至る、時宗にとっても重要な地です。
 「熊野権現影向図」は、平安時代末頃には原型が成立しやがて東北地方有数の熊野信仰の地であった奥州名取(宮城県名取市)の在地の縁起や能へと展開した、名取の老女の説話をもとに描かれたと考えられています。それは、奥州名取に住む老女が満願を前に熊野参詣を果たせないことを憂い住まい近くの小社に熊野権現を勧請し拝していたところ山伏が訪ねてきて虫喰いだらけの梛(なぎ)の葉を届けた、虫喰いは「道遠し年もいつしか老いにけり思ひおこせよ我も忘れじ」の文字になっており熊野権現が老女のために詠んだもので松島へ旅する山伏の夢に現れて託したものであった、というものです。
 名取の老女に熊野権現の神詠を伝える役割を果たし、熊野の御神木として今なお尊ばれる梛。その梛と、真教上人が独住しお墓もある相模原市南区当麻の無量光寺境内で出会いました。一遍上人が西国から杖にしてきた梛の木を刺したところ根が生え育ったとの伝承を持ち、市の保存樹木に指定されています。まっすぐに伸びた幹に艶やかな細長い葉を繁らせていました。あらためて時宗と熊野との深い縁を感じます。
 「熊野権現影向図」を伝える正念寺がある名倉は、相模湖の奥に位置し、2007年に相模原市に編入されるまで吉野、日連、牧野、佐野川地区とともに藤野町と呼ばれていました。谷向うに山梨県を望む美しい地域です。今、名倉と隣り合う牧野では台風19号の到来で大規模な土砂災害が発生し、藤野町の東隣の旧津久井町域にも甚大な被害が出て、復旧作業が続けられています。多くの方に支えていただいた特別展もまた善根となりますよう。(k)

第7回 梅雨の合間の佐久
2019.10.17
 7月初旬、展覧会をともに開催する時宗の方々と一緒に、長野県佐久市を訪ねました。
 信州佐久は、《一遍聖絵》には弘安2年(1279)に一遍が別時念仏を修した地として、《遊行上人縁起絵》には初めて踊り念仏が行われた地として語られる地です。今回は、展示予定の資料のご所蔵者と、踊り念仏の公演をお願いする跡部踊り念仏保存会の方々にお目にかかるための訪問です。
 最初に訪れたのは、佐久市野沢の金台寺。商店街に守られるように総門を構えます。金台寺は、弘安2年に一遍が回国の折、当地の領主伴野太郎時信が領民とともに帰依して創建されたと伝わります。今回は遊行5代安国上人の書状を第2会場で展示させていただきました。
 金台寺の裏手には、長野県史跡の伴野城跡があります。金台寺の開基となった伴野氏が鎌倉時代以来拠点とした館跡で、戦国時代に依田氏に攻略破壊されるまで伴野氏の城館として機能しました。本丸であった場所が今は公園となり、かつての姿を留めています。夏草の緑がまぶしい昼下がりでした。
 続いて、市内跡部地区にうかがいました。一遍が始めた踊り念仏を受け継ぐ国指定重要無形民俗文化財「跡部の踊り念仏」は、毎年4月に地区の西方寺本堂で行われています。10月11日に遊行寺の法要にあわせて踊り念仏を奉納、翌12日の県博での公演をお願いし、段取りや準備の内容を打ち合わせました。
 梅雨の合間、つかの間の青空がのぞいていました。目の前に近づいてくる展覧会を思って身を引き締めつつ、ゆかりの地の空気を味わえた一日でした。

 担当も心待ちにしていた踊り念仏公演は、台風19号襲来の影響で中止となりました。お申し込みいただき楽しみにしてくださっていた皆さま、申し訳ありません。今回の台風では長野県でも大きな被害が出ました。早く安心な暮らしが戻ること、そして、いつかどこかで再びのご縁があることを願ってやみません。(k)

第6回 《遊行上人縁起絵》諸本の表情
2019.10.11
特別展「真教と時衆」では《遊行上人縁起絵》と通称される絵巻物を各地の時宗寺院から拝借して展示公開しています。

教科書にも載っている国宝《一遍聖絵》(全12巻)とは別物で、《遊行上人縁起絵》は全10巻の絵巻物です。
別物といっても内容に一部重なる部分があり、一遍上人の事蹟を扱う第1巻から第4巻は言ってみれば《一遍聖絵》のダイジェスト版にあたります。そして、第5巻から第10巻が、特別展「真教と時衆」の主人公、他阿真教の事蹟を描く内容となっております。

国宝《一遍聖絵》に模本が少ないのに対して、《遊行上人縁起絵》に複数の模本が存在する点は興味深いことです。
《遊行上人縁起絵》は、その奥書等によって14世紀初頭に原本が完成したことが判明し、現存作例を見る限り、原本の制作後まもなく、模写本が複数作られたようです。
時衆の教団化に尽力した真教は各地に弟子を派遣し道場と呼ばれる拠点寺院を整備しますが、各道場にとって、一遍と真教の伝記を詞と絵で書き留めた《遊行上人縁起絵》は必須の什物だったのかもしれません。
現在では所蔵寺院や伝来元などの名称をとって、「〇〇本」《遊行上人縁起絵》と呼び分け区別します。

今回の特別展では、
一遍示寂の地でもある真光寺(神戸市)、
真教が正応年中に逗留したと伝わる常称寺(尾道市)、
一遍が逗留し踊り念仏を行った市屋道場金光寺(京都市)、
真教の弟子浄阿が開山となった四条道場金蓮寺(京都市)、
そして時宗総本山清浄光寺(藤沢市)からご所蔵の《遊行上人縁起絵》を拝借し、真教の事蹟を辿ります。

一見稚拙に見えるものの、実は添景描写に富み人物の機微を捉えた入念な心理描写がなされる真光寺本、顔料や染料をほとんど使わず水墨技法主体で描かれる常称寺本など、ストーリーを同じくしながらも各本の描写はさまざまに異なります。

ぜひ展示室で、その違いをお楽しみください。(h)

第5回 二祖さんに会える。第二会場はじまる
2019.10.11
 10月5日、いよいよ第二会場での展示がはじまりました。
 本展の主役は二祖さん(真教上人)です。一遍さんの一番弟子で、実質的に時衆を教団として存続させるきっかけをつくった鎌倉時代後期に活躍した僧です。その二祖さん(の彫像や絵画)にぜひ会ってみてください。
 その眼でずらりと並んだ時宗の祖師像(絵画と彫刻)、阿弥陀如来、時衆に関わる仏具(持蓮華、十二光筥、阿弥衣など)、遊行上人縁起絵をみてほしいです。
 第一会場との共通図録も絶賛発売中(税込2,000円)。第二会場では特別展期間中のみの発売となっているので、是非手に取って、できるならそのまま購入してください。新たに撮影した画像も使用しており、総論1本、論考3本と読み応えもあります。展覧会関係者と学芸員の汗と涙の結晶です。
 スマートフォンを持っている方は、アプリ「ポケット学芸員」を使って、解説をみることができます。会場のキャプション(説明文)では語りつくせない作品と資料の魅力を少し付け加えています。関連画像もついているので、こちらもご利用ください。
 会期は約1か月ありますが、あっという間に時間は経ってしまいます。このブログの原稿がアップされているころには、すでに1か月を切っています。思い立ったときに来てください。会期中には展示替えをおこないます。前期は10月20日(日)までとなっています。絵画や書跡はそのほとんどを入れ替える予定ですので、前期をご覧になった方はぜひ後期にもいらしてください。
 もちろん、第一会場もお忘れないように。本展の主役である真教上人の寿像(神奈川・蓮台寺所蔵)がお出ましになっています。10月11日~15日は藤沢の遊行寺(清浄光寺)で二祖さんの大法要が厳修されるので二祖さんに注目が集まること必定です。(j)

第4回 時宗のお寺を訪ねて
2019.10.04
7月初旬、わたしは京都にいました。
目的地は錦綾山金蓮寺。
什宝の拝借のお願いをするために、ご挨拶に伺ったのです。
紫野大徳寺の境内地を抜けて、佛教大学の学生さんを横目に、鷹峯の坂を上ります。
この日の京都は真夏日。そうそう、夏ってこんな感じだったなと思いながら、先を急ぎます。

約束のお時間の少し前に近くまで到着しました。
あたりを見渡すと境内に石製の柵が立っていて、側面に文字が刻まれています。それはおそらく寄進者のお名前で、多くの人物名の肩には「京極」の文字が添えられています。
四条道場とも呼ばれる金蓮寺は、その名の通り、もともとは四条京極に寺地を構え、七条道場と並んで時衆の京都における活動拠点として栄えました。大正年間、新京極繁華街設立のために寺地を割譲し現在地に移転したとのことです。この石製の柵に、旧地にありし日の金蓮寺の姿に想いを馳せながら金蓮寺様に伺いました。

ご挨拶を終え、金蓮寺をあとにすると、眼下には京都盆地、目線の先には比叡山がそびえています。
上ってきた坂道と京都の街の大きさを感じる光景です。

そして、9月下旬、仙台。
ひんやりとした秋の空気が満ちる杜の都に遊行五代の安国上人の肖像彫刻を拝借に伺いました。
涼しい風に吹かれながら夏の京都を思い出し、そして特別展の開幕が近づいたことを実感しました。

いよいよ明日、第二会場の開幕です。(h)

第3回 二祖さんのお像
2019.09.26
 特別展「真教と時衆」のチラシをご覧いただけたでしょうか。胸の前で合掌した一人の老僧像の写真が使われています。何を隠そう、この像主が本展の主人公である時宗二祖真教上人なのです。インパクトのある写真だけに、ほとんどの方が「この方は誰だろう?」と感じたことでしょう。この彫像は、神奈川・蓮台寺につたわる真教上人像で、存命中に造像された寿像です。現存する時衆に関係する肖像彫刻のなかでも最も古い彫像であることから、時衆史上、日本彫刻史上でも大変貴重な作例です。今回の展示では、真教の彫像や絵画をはじめ、真教の人となりを知っていただく機会になればと思います。
 かくいう私も真教については神奈川県立歴史博物館に勤務するまでほとんど知らず、今回、本展の末席に加えてもらったことで、真教や時衆について勉強する機会を得ることができたのはとても幸運でした(県博と時宗の関係についてはブログの第2回を参照)。
 その真教が亡くなって今年で700年。宗祖である一遍自身は寺院や仏像を積極的に造りませんでしたが、真教は道場や寺院を各地に建て、一遍や自身の祖師像をも造ることをすすめました。真教が自身の肖像を造らせていたことは、「遊行上人縁起絵」や「他阿上人法語集」、前述した文保2年(1318)に造られた蓮台寺の寿像が伝わっていることからもわかります。蓮台寺像は第一会場の遊行寺宝物館、東京・法蓮寺像と山梨・称願寺像は第二会場の当館にお出ましいただきます。法蓮寺像は蓮台寺像とよく似ています。細部にいたるまで模刻したものと思われ、蓮台寺像がひとつの規範になっていたことがうかがわれます。また、称願寺像は、蓮台寺像や法蓮寺像とはやや距離があり、理想化がなされていますが、真教の死後その彫像が造られ続けたことを伝えてくれます。
 真教は時衆教団を統率していくための規律をつくっています。そのなかでも知識帰命(帰命戒)を定め、時衆教団に入る際には遊行上人に身命のすべてを任せること、遊行上人は阿弥陀の代官であることなどを定めました。さらに、真教は彫像や絵画であっても遊行上人本人のように信仰するようにすすめています。つまり、これらの真教像は、真教本人であり、阿弥陀如来でもあるということなのでしょう。
 そのような思想的な背景を考慮しながら、お像をじっくりご覧いただきたいです。二祖さんは700年という時を越えて、その優しいまなざしを我々の前に投げかけてくれるでしょう。(j)

第2回 県博と時宗と展覧会と
2019.09.20
 懐かしい風情の写真が1枚。
 場所は滋賀県長浜市西浅井町菅浦。穏やかに波打つ琵琶湖と、葛籠尾崎の柔らかな稜線、そして竹生島。
 ガードレールの前に佇む2人の男。
 刑事ドラマの1シーンのような写真の主人公は、薄井和男(現神奈川県立歴史博物館館長)と相澤正彦氏(現成城大学教授)。昭和60年(1985)秋の特別展「遊行の美術」の開催準備のため菅浦を訪れた時の1枚です。撮影は、当時も写真技師として勤務していた井上久美子です。
 特別展「遊行の美術」は時宗の文化財の全容を紹介する初の大規模展覧会でした。総本山の所在地である神奈川県の博物館学芸員として譲れない思いで臨んだと、薄井は記しています。就職2年目でこの展覧会の企画に携わった相澤氏にとっても強く記憶に焼き付けられた展覧会であったようです。[参考:PDFファイル『神奈川県立博物館・神奈川県立歴史博物館 50年のあゆみ』]
 この展覧会をはじめとして、神奈川県博は時宗の文化財の調査発信の仕事と深くかかわってきました。平成10年度に始まる時宗文化財調査(時宗文化財専門委員会)にも長年携わり、各地の寺院に伝わる文化財の基礎情報を蓄積してきました。写真の地、菅浦は、中世の村落共同体「惣村」の姿を「菅浦文書」(国宝)と景観で伝える地。集落の中ほどに位置する時宗の古刹阿弥陀寺には、快慶の高弟行快が造った「阿弥陀如来立像」(重要文化財)が伝えられています。時宗ゆかりの地に立つ若き学芸員の姿は、県博と時宗と展覧会の深い縁を象徴するようです。
 時は移ろい、令和元年(2019)。特別展「真教と時衆」の開催のため、無量光寺(相模原市)境内を撮影する3人。薄井、井上、そして彫刻を担当する学芸員、神野祐太です。世代を超えて受け継がれる縁が2本の展覧会を繋いでいます。(k)

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第1回 二祖さんの御遠忌
2019.09.20
 9月初めの午後、残暑の気配の残る青空のもと、藤沢市の時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の境内、遊行寺宝物館で展覧会の開会式が行われました。今年2019年は、時宗の「二祖」と称される真教(しんきょう)上人が没して700年の御遠忌。それを記念する特別展「真教と時衆」第1会場の開会式です。
 時宗というと、「宗祖」一遍上人が有名です。一遍上人の事蹟を描いた国宝『一遍聖絵』を日本史の教科書で習ったという人もおいでになるでしょう。財産や欲望を捨て、ただひたすらに念仏を勧めて諸国を旅した一遍上人。その思想に共感して旅路をともにするようになった僧侶は、昼夜六時(度)の念仏修行を行うことから「時衆(じしゅう)」と呼ばれました。諸国遊行の中で各地には一遍上人に帰依する在俗の人々も現われました。こうして人々の間に浸透していった時宗の信仰ですが、一遍上人その人は僧侶や信徒を組織して教団をつくるというような意図はなかったと言われています。
 一遍が亡くなったあと、残された僧侶や信徒をまとめ教団としての体制を整えたのが、真教上人でした。真教上人が「二祖」と呼ばれて尊崇されているのはそのことによります。真教上人は遊行を続けながら各地に教団の拠点を整備し、僧尼が守るべき規律を定め、後進の育成に努めました。数多の弟子を育てたのち、文保3年(1319)、15年を過ごした相州当麻山無量光寺(相模原市南区)で83年の生涯を終えます。
 特別展では、宗祖・一遍上人や二祖・真教上人の肖像画や彫像、時宗の信仰を表わすさまざまな美術作品などを通して、中世の人々の心を支えた信仰のありようをご紹介したいと思います。第1会場の遊行寺宝物館はすでにスタート、第2会場の神奈川県立歴史博物館は10月5日に始まります。総本山清浄光寺、真教上人ゆかりの無量光寺など古刹の多い神奈川で、時宗の信仰と文化に触れていただければと思います。(k)

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神奈川県立歴史博物館