展示

【テーマ2】中世「都市鎌倉と中世びと」

常設展示 中世「都市鎌倉と中世びと」

※常設展の展示物は随時入れ替えを行っています。下記で紹介している資料が展示されていない期間もありますので、ご了承ください。

畿内や西国の平氏を追討し、東北の奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、1192年には朝廷から征夷大将軍に任命されました。頼朝が鎌倉に開いた幕府では武家が政権を担い、東国を拠点とした政治体制が形作られていきました。政治の中心となった鎌倉は、経済や宗教の拠点としても発展し都市としての機能を高めていきました。武家政権のもとでの社会や、都市鎌倉に生きた人々の生活を見ていきましょう。

展示内容

鎌倉・相模・東国

平安時代中期(10世紀~)の東国には、兵(つわもの)と呼ばれた軍事貴族が、反乱鎮圧を命じられて中央から下向し、あるいは国司の任期終了後も領内に拠点を形成して、勢力を築きました。とくに源頼義・義家の親子は有力で、前九年・後三年合戦を通じて東国武士団の組織化を進め、源氏郎党(ろうとう)も東国に土着していきました。

男衾三郎絵詞

平安時代の中頃から軍記物や古文書に登場する東国武士たち。彼らは地域でどのような役割を担い、そしてどのような生活を送っていたのでしょうか。三浦氏・中村氏・和田氏たち相模の武士の活動を示す「天養記」や東国武士の生活を描いた「男衾三郎絵詞」、武士の館模型から、地域のなかで生活する東国武士の存在を知ることができます。東国武士登場への胎動とその勇躍を感じてみてください。

源頼朝と東国武士団

源氏の流れをくむ源頼朝は、治承・寿永の内乱に勝利して鎌倉幕府を開き、初代将軍となりました。頼朝は武家の棟梁としての地位を確立しつつ、自身に従っていた東国武士団を御家人としました。武家政権の首都鎌倉は、かつて父義朝が居館を構えた地でしたが、頼朝の鎌倉開府以降に整備され始め、13世紀中期に都市として確立しました。都市鎌倉には多くの東国武士団が住むようになり、御家人として幕府の運営を支えました。

源頼朝袖判下文

鎌倉幕府の成立は、御家人として編成された東国武士たちのあり方を大きく変えました。「源頼朝袖判下文」にみるように、地頭に任命する文書が源頼朝名義から、「将軍家政所下文」のように幕府政所名義へと移行しました。また「御成敗式目」の制定は幕府の法秩序が整備されたことを示します。鎌倉幕府の成立期から滅亡までを通史的に追うとともに、御家人となった東国武士たちと幕府との関係の推移に注目してみてください。

戦国大名後北条氏

室町幕府将軍の側近だった伊勢宗瑞(北条早雲)は、幕府の混乱を機に伊豆へ侵攻し、小田原を拠点に北条氏発展の礎を築きました。以後、北条氏は巧みに関東の争乱に介入し、関東戦国大名としての地歩を固めていきました。本拠の小田原では、北条氏によって中央文化が積極的に導入され、独自の文化がかたちづくられていきます。

北条家朱印状

革新性ばかり注目される戦国大名ですが、彼らは旧来の権威を巧みに利用することで自身の領国支配に正当性を与えてもいました。戦国大名後北条氏の場合も同様で、室町時代から続く関東足利氏の権威を利用して領国支配を行いつつ、朱印を利用した独自の文書行政を整備しました。室町時代の延長線上に戦国大名後北条氏が登場し、やがて発展して独自の制度と文化が生まれていく様子をご覧ください。

掘り起こされた鎌倉

都市鎌倉からは大量の文物が出土しています。陶磁器、漆工品、金属製品、木工品、銅銭など種類はさまざまです。それらは鎌倉で生産され消費されたもののほか、瀬戸や常滑の壺など他地域で生産され鎌倉にもたらされたものもあります。中世の鎌倉に暮らした人々がどのような生活を送っていたのか、これらの出土品が雄弁に物語っています。

鶴岡八幡宮出土漆器 複製 原品 鎌倉市教育委員会 鎌倉時代

鎌倉から出土する大量の文物は、当時の鎌倉が政権都市であるとともに、人々と物資が行き交う活気あふれる経済都市であったことを示しています。また、日本各地の中世遺跡から出土する文物との共通性は、鎌倉が中世びとの生活を復元的に考える上で重要な場所であることを物語ります。鎌倉市域の発掘調査は現在も続いており、多くの成果が蓄積されていますが、その一部から中世鎌倉の様子を見ていきましょう。

唐物とその影響

鎌倉幕府は大陸からの文物の摂取に積極的でした。天然の外港として機能した金沢六浦に加え、貞永元年には和賀江島と呼ばれる本格的な港が築かれ、国際的な港湾都市としての機能を備えていきました。当時、中国大陸からもたらされた貴重な文物は唐物(からもの)と呼ばれ尊重されました。特に中国絵画や、青磁の花瓶、堆朱の香合や盆、銅製品などは寺院内でも用いられ、その後の日本文化にも大きな影響を与えました。

青磁管耳花生 中国 南宋時代

中国からもたらされた文物は、日本の絵画や書、陶磁や漆工などに、形態や技法の上でも具体的な影響を及ぼしました。青磁や白磁の瓶や碗の形態に影響を受けた国内窯産の陶磁器、あるいは堆朱や堆黒といった彫漆器の風合いを当時の木彫漆塗の技法で再現しようとした鎌倉彫など、唐物の影響のもとで日本独自の文化が育つこととなりました。

民衆と仏教

鎌倉時代には、奈良や京都を中心に栄えた旧来の仏教勢力に加えて、鎌倉新仏教といわれる諸宗派が誕生しました。浄土宗系(浄土宗、浄土真宗、時衆)、禅宗系(臨済宗、曹洞宗)、日蓮宗がそれです。一方、旧来の仏教側も華厳宗の明恵や戒律復興を掲げた叡尊・忍性らの律宗教団が活躍し、人々の宗教的救済に応じました。

石造五輪塔 鎌倉時代

このコーナーでは模型や複製資料を中心に、都市鎌倉の信仰の様子を展示しています。信仰をリードした祖師たちは、絵画・彫刻にあらわされ崇拝の対象になりました。また、中世の鎌倉を代表する祈りの場としてやぐらがあり、石材を加工した五輪塔や板碑がさかんに造られました。

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