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1章「大正月を迎える」画像

展示室風景画像正月飾り画像年の暮れになると、人々は大正月に来訪するトシガミを迎える準備をします。トシガミの来訪によって人々は年を重ね、家は繁栄するといいます。また地域によっては厄神を家に迎え入れてまつる習俗もありました。そして年が明けると、新年の挨拶として寺院の年始廻りや門付けの芸能者などが家々を訪れました。

正月飾り画像

正月飾り

横浜市保土ケ谷区星川 令和2(2020)年個人蔵

 これは横浜市保土ケ谷区星川のあるお宅の正月飾りです。トシガミを迎えるトシダナ、若水など、清らかな新年を迎えるために様々なものを用意します。
 トシダナとはトシガミをまつる特設の棚で、藁と竹で編み、床の間の中央上部に(しつら)えます。当家のトシガミのご神体は、サンダラボッチ(サンダワラ:米俵の両端のふた)の中央を高く編み、そこに御幣を挿したもので、根元には編んだ藁で雄を、その上には雌を表現しています。手前にはオスワリ(鏡餅)、竹筒に入れた 神酒とオサンゴ(米)を供えます。竹筒は表皮を剥いで白地にした器で、これは正月には白い器を用いるものとされているからだそうです。
 若水とは、古くは立春の早朝に汲んだ水をいい、後に元旦に汲む水を指すようになりました。「若」には、「新」「初」の意があり、この根底には邪気払い、若返りの信仰があります。「若」が頭につくものは水以外にも餅、火、湯があり、いずれも新たに用意された神聖なもので、これらはまずトシガミに供えられます。

だるま市画像

だるま市

小田原市飯泉 令和元(2019)年12月17日撮影

 小田原市の飯泉観音(勝福寺)では、12月17日になると縁起物のだるまを売る店が20軒以上出店しています。また、境内はだるま店以外にも、縁起物の福笹、熊手、植木などを売る店も出ています。
 天保12(1841)年に成立した『新編相模国風土記稿』には「毎年正月六月十二月の十八日には境内に市ありて、時用の物を交易す」とありますが、現在は前日の17日の夜が最も賑わいます。だるまを購入すると店の者は「家内安全、無病息災、商売繁盛 ヨヨヨイ ヨヨヨイ ヨヨヨイ ヨイ」と唱え、手締めに合わせて火打ち石を切ります。勝福寺ではだるまの左目に種字を書き、開眼供養を行います。古くなったダルマは境内でお焚き上げされます。

厄神のトシヤド画像

厄神のトシヤド

三浦市南下浦町金田 昭和30(1955)年頃

 これは厄神と疱瘡(ほうそう)※神を一晩だけまつった棚で、仏壇の裏側にあたる長押(なげし)に吊るしました。割竹を麻縄で編んで棚を作り、藁束に赤と青の幣束を立て、餅、蕎麦、酒、灯明を供えました。12月30日の夕食前に家の主人が裏戸を開けて「厄神の神様、疱瘡神様、一夜の宿をいたします」と小さく唱えて厄神を招き入れると、その家の子どもは疱瘡にならなかったといいます。棚には6日まで供え物をし、7日の朝に正月飾りとともに集落の道祖神の脇に納めてドンド焼きで燃やしました。
※疱瘡とは天然痘ウイルスによるもので、症状には急激な発熱、頭痛、腰痛、発疹があり、致死率の高いものでした。治癒した場合でも顔面に痘痕(あばた)が残って容姿が変わってしまうため「疱瘡は見目定め」ともいわれる恐ろしい病でした。

厚木大神楽 祠、獅子頭画像

厚木大神楽
祠〔画像左〕、獅子頭〔画像右〕

〔祠〕厚木市内ほか 昭和時代中期 あつぎ郷土博物館蔵
〔獅子頭〕厚木市内ほか 江戸時代末期か 個人蔵

 厚木大神楽は、江戸時代から続く伊勢大神楽の一つです。代々、当主は木村幸太夫(こうだゆう)を名乗っていました。元は藤沢に住んでいたことから藤沢大神楽と称していましたが、明治末期に厚木市へ転居してからは厚木大神楽といわれるようになりました。
 2日から2月にかけて、一座は正月祓として、鎌倉・厚木・旧津久井・小田原・箱根・横浜の農村地帯、さらに静岡県伊豆市牧之郷の2,000戸ほどを廻っていました。獅子が伊勢神楽を演じ、初穂として米麦や賽銭を受け取りました。獅子の採物(とりもの)には太刀(たち)二振り、幣束(へいそく)、鈴、ささらがあり、舞に合わせて太鼓、笛、(かね)、三味線などで(はや)します。舞は13種類あり、なかでも太刀を両手に持つ「剣の舞」は四方八方を切り祓う舞で、厚木大神楽を代表する舞です。獅子頭は「ご隠居さま」「枕返し獅子」とよばれ、雨乞い、火伏、魔除けなどの霊験(れいげん)が伝わっています。祠には獅子頭や初穂を入れ、屋根の下に太鼓を架けました。また祠の下部には衣裳や神楽道具等を入れていました。

2章「小正月のモノツクリ」画像

2章展示室画像2章展示風景(アワボヒエボ)画像新年を迎えると小正月の行事であるモノツクリの準備が始まります。これはその年の豊作を願う予祝や豊凶の占いのためにつくるもので、団子の木、ケズリカケ、ノウギ、カドニュウドウなどがあります。その形態は個性豊かに表現されています。ここでは県内各地から収集された当館のコレクションと、その様子が記されている農家の日記などから、どのように予祝や豊凶の占いが行われていたのかをみていきます。

アワボヒエボ画像

アワボヒエボ

相模原市緑区牧野 昭和時代中期

 呼称は、アワボヒエボの他に、単にアワボといったり、アーボーヘーボー、アボヒボなどと訛ったりする地域もあります。アワボヒエボの割竹の先端にカツノキ(ウルシ科)を挿し、(あわ)(ひえ)の穂がたわわに実った状態を模しています。皮付きを粟、皮をむいたのを稗としており、関東地方では粟穂と稗穂が一組で製作されることに特徴があります。粟と稗を予祝することは、かつてそれらが重要な食物であったことをうかがわせます。予祝とは、農作業や農作物の豊かな実りを(あらかじ)め模擬的に行い、豊作を期待する呪術的行為で、その儀礼は県内でも広く行われています。他にも豆、里芋、綿花などを模したものもあります。アワボヒエボは堆肥の上や畑の土に直接挿し立てられます。

ケズリカケ画像

ケズリカケ

秦野市今泉 昭和時代中期

 紙が普及する以前の古い幣束の形態を残しているとされ、豊穣の予祝(よしゅく)としてカツノキなどの樹皮を薄く削ったものです。ケズリカケは削り花ともいい、これを屋内外の神々に供えたり、14日に切り返した堆肥の上に立てたりしました。苗代(なわしろ)の種まきの時に水口に立てると害虫や鳥除けになるともいいました。
 ケズリカケは、15日の小豆粥を掻き混ぜるカユカキボウ(粥掻棒)にも用いられることもありました。この時に農作物の豊凶や天候を占いとして、棒の先端を十字に割り、その間に団子を挟んで小豆粥をかき混ぜ、棒に付着した粥の多寡によって占いをしました。また、柿などの実のなる木を叩いて実りを約束させるナリキゼメ(成木責め)、新婚の嫁の尻などを叩くなどの呪術的行為にも使用されました。

カドニュウドウ画像

カドニュウドウ

山北町中川 昭和30年代

 神奈川県内では山北町だけにみられる習俗ですが、県境を接する東京都、山梨県、静岡県、また、群馬県、長野県にも類似の木偶(でく)が小正月につくられています。
 山北町では「カドニュウドウ」の他に、「へのへのもへえさん」ともよばれています。4日に新年初めて山に入る初山の時に、カツノキ(ウルシ科)を伐り、前面を削って墨で顔を書いたものを一対つくります。樹皮の側面を薄く削ったり上部に割竹を挿したりするものもあります。カドニュウドウは魔除けや疫病除けとして、門松を片付けた跡や門の左右に立てられます。その後「20日の風に当てるな」といって20日前には片づけられます。
 かつて山北町中川の箒沢や同町三保では、門松をとった後にケズリカケを立てていましたが、その後表面を削って顔を書くようになったといいます。この伝承から、ケズリカケを立てる習俗があった地域にカドニュウドウが徐々に浸透していったのではないかと考えられています。

3章「小正月から立春へ」画像

3章展示風景(チャッキラコ等)画像3章展示風景(福おどり)画像大正月では年男などの大人が中心となりますが、小正月の行事には子どもたちが主役になる者もあります。今日でも各家の厄払いをしたり言祝いだりする行事や、正月飾りなどを道祖神の前で燃やすドンド焼きで子どもたちの活躍がみられます。子どもたちはこのような行事を取り仕切ることによって成長し、地域の大人たちから一人前として認められていきます。小正月が終わって立春に至るまでも、山の神講や節分などの様々な行事が続きます。

チャッキラコ画像

チャッキラコ

三浦市三崎 平成29(2017)年1月15日撮影

チャッキラコ道具画像

〔上〕チャッキラコ、〔下〕舞扇

三浦市三崎 平成時代 ちゃっきらこ保存会蔵

 三浦市三崎の仲崎・花暮地区や海南神社などでは、15日に幼い女子たちと年配の女性たちが豊漁豊作や商売繁盛を願って踊りと唄で言祝(ことほぎ)の芸能を行います。当日の朝、少女たちと年配の女性たちは、踊り子のいる家に集まって皆で朝食をとりました。朝食がすむと、まず本宮神社(モトミヤサマ・ゴホングウサマ)の前で踊り、つぎに海南神社、午後からは町内の家々の座敷に上がって舞います。
 年配の女性たちが音頭をとり、それに合わせて女子たちが扇とチャッキラコ(綾竹)を持って踊ります。踊りには「ハツイセ」「チャッキラコ」「二本踊り」「よささ節」「鎌倉節」「お伊勢参り」の6種類があります。昭和 51(1976)年に重要無形民俗文化財に、平成21(2009)年にユネスコ無形文化遺産に指定されました。

飲食店での福おどり画像

飲食店での福おどり

小田原市根府川 令和2(2020)年1月12日撮影

福おどりの道具画像

福おどりの道具(左上から 手拭、(ざる)、扇、面、牛蒡注連(ごぼうじめ)

小田原市根府川 平成時代 鹿島踊保存会蔵

 1月14日前後の時期に、小学校3年生以下の唄い手が「福の神が舞い込んだ」と発声し、6年生までの踊り手が両手に扇を持って唄に合わせて踊ります。
以下は福おどりの歌詞で、目出たさを言祝ぐ文言が連なっています。
「波のり船の音のよさ 宝船こぐ春の海
 内には七福笑い顔 天から小槌が 降ってきて
 大黒さんが打ち振れば 座敷の中は金の山
 歌いはやせや大黒の 福は舞い込む恵比寿顔」
 踊り手はオカメやヒョットコの面を被り、頭に手拭を巻きます。そして後ろ前に着用した羽織を着て、着物の腹には(ざる)を入れてふくよかにし、腰に幣束を垂らした牛蒡注連(ごぼうじめ)を締めます。踊り終ると「笑う門には福来る」「おめでとうございます」「疫病神を追い払え」と大声を発してから次の家へ向かいます。昭和26(1951)年頃までは盛大に行われていましたが、その後一時中断し、平成7(1995)年に復活しました。現在は小田原市立片浦小学校の子どもたちによって実施されています。

アクマッパライ画像

アクマッパライ

秦野市堀山下 平成時代 神奈川県教育委員会提供(神奈川県教育委員会『神奈川県の祭り・行事』〔口絵写真〕、平成21〔2009〕年より転載)

アクマッパライの面画像

アクマッパライの面

秦野市堀山下 昭和55(1980)年ほか あくまっぱらい保存会蔵

 子どもたちは1月13日の夕方に道祖神を拝んでから、集落内の家々を祓うためにアクマッパライに出かけました。小学校6年生の男子が大将として天狗に扮します。天狗役は白の貫頭衣(一枚の布に頭を通す穴をあけた袖のない服)を着て、「福寿」と書かれた箱を背負い、縁起物を挿した藁束を持ちます。面には、おかめ、ひょっとこ、エビス、大黒、鬼、天狗等などがあり、天狗役以外の子どもたちはそれぞれ気に入った面を選んでつけ、着物を後ろ前にしました。家に上がると、幣束を持って「アクマッパライ」と唱えながら家の中を祓いました。それが済むと手作りの御札と縁起物を渡し、家人からは賽銭を受け取ります。道中では太鼓を叩き、団扇、提燈を持って歩き廻りました。当地のアクマッパライは少子化により現在中断していますが、県西部では今日でも行われている地域があります。

道祖神の小屋画像

道祖神の小屋

箱根町宮城野 平成31(2019)年1月12日撮影

 かつては道祖神を覆う小屋は子どもたちだけでつくっていましたが、現在では大人も手伝うようになりました。小屋の骨組みを建ててから正面以外は細い竹を挿し、集めた正月飾りを取り付けます。小屋の中の2基の双体道祖神の前には、竹でつくった賽銭入れを置き、米、塩、蕎麦、酒を供えます。夕方になると子どもたちは小屋に入り、参拝者が賽銭を出すと御幣で祓いながら「無病息災、商売繁盛、皆さんの健康 をお祈り申し上げます」と唱えます。道祖神の小屋は夜に行われるドンド焼きの際に解体されて全て燃やされます。

双体道祖神画像

双体道祖神

藤沢市高倉 文政13(1830)年

 かつては高倉集落入り口にまつられていました。向かって左側に(かんざし)をさした女神、右側に烏帽子を被り(しゃく)を持った男神が並んで立つ双体道祖神で、どちらも手を袖の中に入れています。右側面にはドンド焼きの煤が付着しています。初期の双体道祖神は僧形が通例でしたが、次第に本像のように男女の区別をはっきりと示した神像型になり、衣文(えもん)(ひだ)や持ち物を刻んだ像が多くなっていきます。持ち物は、本像の笏の他に、幣束や(はた)、また祝言型とよばれる像には、男女が盃と徳利を持つものがあります。

大磯の左義長画像

大磯の左義長

海岸に立てられたサイト 大磯町大磯 平成30(2018)年1月13日撮影

 1月14日前後の早朝の大磯北浜海岸には、正月飾りやだるまなどの縁起物を付けた7~8mの円錐形のサイトが9基建ちます。夕方になると一斉にサイトに点火し、壮大な火祭りとなります。サイトの火が竹に届き始めると、サイトは恵方の方角に倒されます。その頃になると若い衆は褌姿になり、伊勢音頭(左義長音頭)を唄いながら綱を結んだ木橇(きぞり)を曳き合うヤンナゴッコを行います。橇には悪霊が籠められたお宮がのせられ、陸方と海方が3回綱引きをした後に足で潰されます。この綱引きは海に入る浜方の若い衆を魚に見立て、それを引き揚げることで豊漁を祈願しているため、必ず陸方が勝つことになっています。お宮を潰した橇には若い衆が乗り、町内を曳き廻されます。昭和55(1980)年に重要無形民俗文化財に指定されました。

谷戸のオミヒメサマ(複製)画像

谷戸のオミヒメサマ(複製)

三浦市初声町三戸 年代不明

上のオミヒメサマ(複製)画像

上のオミヒメサマ(複製)

三浦市初声町三戸 年代不明

 火祭りをセイトといい、7日の早朝にセイトッコ(子ども組の男子)たちは正月飾りや松、竹などを浜辺に積み上げて焼きます。セイトが済むと、セイトッコたちは大将のヤド(年長の子どもの家)でセイトの主神であるオミヒメサマを風呂に入れて新しい着物に着せ替えます。オミヒメサマは(ひのき)を粗削りした素朴な立像で、谷戸(やと)(かみ)の地区ではそれぞれにまつられています。この像は大人や女性は触ってはいけないとされています。オミヒメサマを風呂に入れた後、大将たちは幣束とオミヒメサマが入った箱を持って集落の家々を廻り、賽銭集めに集落内を廻ります。オミヒメサマは普段は神棚にまつられており、セイトの一連の行事が終わると幣束と共に次のヤドに送られます。また、オミヒメサマは盆にもまつられます。

神輿画像

神輿

小田原市小八幡 年代不明 小田原市小八幡地区蔵

 昭和15(1940)年くらいまでは、1月15日の朝に12歳までの男子たちは地区の道祖神まで神輿を担いで行き、同日の夜に担ぎ戻ってきました。年長者の大将は年少者に神輿の巡行ルートや役割について指示を出しました。かつて神輿は担いで巡行していましたが、少子化のため子どもの担ぎ手が少なくなると車台に載せて曳かれるようになりました。同地区の周辺では、地区ごとに神輿を所有しているところが多くあり、小正月やその他の祭礼で使用されます。また、同地区では子どもが生まれるとそこの家へ道祖神の御札を渡しに行きました。

4章「正月行事の変化」画像

展示室風景画像展示室風景画像明治5(1872)年12月、暦が旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)へと改められました。改暦は単に暦が変わるだけでなく、年中行事をはじめ人々の生活に大きな混乱を引き起こしました。新暦に順応するための啓蒙書がいくつも刊行されましたが、旧暦と新暦が入り混じる様子が当時の日記から伺えます。また、社会情勢の変化によって行事の担い手が変化したり、正月料理も変貌したりしています。

明治七年甲戌太陽略暦画像

明治七年甲戌太陽略暦

明治7(1874)年

 左右見開きに一か月分の暦を記しています。改暦後の暦ですが、十干十二支、二十四節気、月の朔望(さくぼう)、旧暦による日付などの従来用いられてきた暦法の記載が多くを占めます。月の朔望(さくぼう)についてはその時刻を記し、また丸を塗り分けて満月、上弦、下弦、新月を一目でわかるようにしています。改暦後も慣れ親しんだ旧来の暦法を記載する必要がありました。

前田家日記1画像

前田家日記

明治3(1870)~8年 三浦市初声町三戸 個人蔵(神奈川県立公文書館寄託)

前田家日記2画像
 旧三戸村の名主であった前田次左衛門が記した日記です。明治5(1872)年10月22日には到着した改暦の御触れを写しています。同年12月3日から新暦が適用されるとあり、改暦後の1月1日はこれまでと同じように正月を祝うとあります。