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「浮世絵☆忠臣蔵」の世界へ

はじめに
 日本人として普通に生活を送っていると、生涯に一度は「忠臣蔵」の物語に出会うはずです。今やその出会いの多くはテレビドラマではないでしょうか。ほかにも映画や小説などその数は数えきれず、今もなお生まれ続けています。このように300年の時を越え愛され続けた「忠臣蔵」は、語り継がれた物語のなかでも別格といえるでしょう。
 元禄14年(1701)3月江戸城松の廊下で赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介へ斬りかかったことにはじまり、浅野内匠頭の切腹、お家断絶。翌15年12月14日の義士たちの仇討から切腹にいたる歴史上の事件の「赤穂事件」。その事件をもとにした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」を軸として広まった物語は別なものですが、私たち日本人はこの二つの世界を混同しながら、「忠臣蔵」文化を創り、親しんできました。
 この展覧会ではこの「忠臣蔵」を題材とした浮世絵を集めました。数え切れないほど出版された「忠臣蔵」の浮世絵には、物語を語るべく描いたものから、パロディーや登場人物を女性の姿だけで描いた見立絵まで、いろいろなものがあります。そこで見ていただきたいのは、物語の面白さだけではなく浮世絵の表現の幅広さや面白さ、独自の技法などです。それらのいくつかを展覧会の章ごとにご紹介します。

1 その物語
 寛延元年(1748)8月に大坂竹本座で初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」は、赤穂事件に取材した戯曲の決定版となりました。その翌年には江戸の歌舞伎でも上演されましたが、どれほどお客が入らない時でも「忠臣蔵」だけは入るといわれる人気を博すようになりました。実際の事件にはない色恋なども加えた物語は十一段で構成されています。別表の通り、人物は南北朝時代を舞台とした軍記物語である『太平記』から借りたほか、史実を暗示するよう名前で登場します。そして、浮世絵でも段ごとに物語を紹介するシリーズ(揃物) が出版されます。
 さて、ここでは「浮絵(うきえ)」という表現に注目します。浮絵とは西洋の遠近法を利用して空間の奥行きを表現した絵で、最初は奥村政信、第二次ブームでは歌川豊春が数多く描いています。物語を浮絵で表現する場合、その奥行き感を利用して、いくつかの時の異なる場面を一緒に描くことがあります。歌川豊国(初代)「浮絵 忠臣蔵九段目之図」(下図)を見てみましょう。

大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)の嫡男力弥(りきや)のところへ、許嫁である加古川本蔵の娘小浪が祝言をあげるため訪ねてきました。しかし、力弥の母お石は祝言を許すためには、主君塩冶判官(えんやはんがん)が高師直に切りつけたときに抱き留め、制止した本蔵の首が欲しいと言い出します。その緊張の場面に本蔵、そして由良之助が加わって物語が展開します。この絵では左より3つの部屋が描かれています。順を追うと、中央では小浪と母の戸無瀬が祝言を拒絶されたために死を選びます。その左の部屋には、本蔵の首を引き出物とすれば祝言を許すというために中央の部屋へ入ろうとする由良之助の妻お石と力弥がいます。一番右奥の部屋は全員が揃う、この段のクライマックスです。物語をよく知っている人々には、その展開を十分に楽しめたに違いありません。

2 英雄たちの肖像
 大石内蔵助以下赤穂義士四十七人には名前やその活躍ぶりがよく知られる人も、あまり語られない地味な人もいますが、全員がヒーローと見なされてきました。義士たちを紹介する浮世絵には、今も人気があるトレーディングカードのように一人ずつを取り上げたものや、大きな横長の画面に討入り前後の全員が集合する場面を描いて、それぞれの名前を短冊で紹介するものがあります。前者は肖像とその功績を解説する文章を加えたシリーズとして出版されました。後者の例として、(表紙)の五雲亭貞秀「義士本望遂酒店会賀引取図(ぎしほんもうをとげさかやにあつまりいはいてひきとるのづ)」を見てみましょう。ここには討入りを果たした後、主君の墓所へ報告に向かう途中の義士たちが祝杯をあげている光景が描かれています。このような作品では一人一人の姿は小さくなりますが、揃って本望を遂げた義士たちの連帯感に満ちています。祝杯をあげて欲しい、あるいは欲しかった、という当時の人々の義士たちへの思い入れがこの作品にはあらわれているように見えます。

3 「忠臣蔵」を演じたスター
 「仮名手本忠臣蔵」だけではなく、「赤穂事件」に取材した歌舞伎芝居は繰り返し上演されました。そして、演じた役者たちの姿は浮世絵に描かれ、数え切れないほど出版されました。
 この展覧会の他の章で紹介される浮世絵のなかにも、描かれた登場人物の顔が歌舞伎役者の似顔絵になっているものがいくつかあります。それだけ、当時のスターである歌舞伎役者たちは愛されて、人々に浸透していたといえるでしょう。下図は「太平記忠臣講釈」で、塩冶家の浪士矢間重太郎(やざまじゅうたろう)とその妻おりえが偶然に再会する場面を描いています。

この二つをよく見比べてみてください。よく似ていますが、違っているところはどこでしょう? 小さな違いはさておき、大きな違いは女形の顔と名前、浮世絵師の名前です。左図はおりえが五代目瀬川菊之丞、浮世絵師は歌川国安です。右図は五代目岩井半四郎としてしられる岩井杜若(とじゃく)で歌川国芳の絵です。重太郎はいずれも後に四代目中村歌右衛門となる二代目中村芝翫(しかん)です。おそらく文政11年(1828)の舞台に取材した左図が人気を博したため、天保4年(1833)に芝翫が再演したときに同様の構図の右図を出版したのでしょう。であるならば、国安と国芳、この二人の浮世絵師のチカラって何なのでしょう? 難しい問題はさておき、この二点は団扇絵です。本来は切り取って骨に貼るものでした。今でも夏になるとスターの顔写真入りの団扇が売られます。ファン心理は変わらない、といえます。

4 愉快な「忠臣蔵」
 永い時間、広く親しまれた物語は、日常の世界に息づきます。ここでは登場人物を女性の姿で描いた見立絵や楽しくパロディー化された浮世絵をご覧いただきます。

 上図は歌川広重(初代)が描いて川柳を加えたシリーズです。この絵は大序(だいじょ)、つまり物語の発端の段を描いています。塩冶判官(えんやはんがん)の妻顔世(かおよ)に恋文を片手にいいよる高師直(こうのもろなお)(袖に「高」の字)、それを鶴岡八幡宮の大銀杏の陰から見守る桃井若狭之助(もものいわかさのすけ)。若狭之助はこの場で顔世を助けたために、師直にいびられることになります。結局、そのいびりの矛先が塩冶判官に向かい、刃傷沙汰となるのです。絵は非常に簡略な筆線で描かれ、背景もありません。しかし、好色そうな師直、いやがる態度の顔世、とがめるような若狭之助、みな真に迫っ
て見えます。そして「其はじめ いろからおこる 仮名手本」の川柳がさらに面白味を加えます。「仮名」が「いろは」ではじまることと、物語が師直の顔世への横恋慕「色」からはじまることをかけています。今では説明がないと理解できない人が多いと思いますが、時の人々には思わず吹き出してしまったに違いありません。

5 「忠臣蔵」とかながわ
 元禄の赤穂義士の事件が素材となった「忠臣蔵」と神奈川県は一見関係がないように見えます。しかし、元禄の事件にも「忠臣蔵」の物語にもゆかりのある場所が神奈川県内にはいくつかあります。
 ここでは東海道シリーズで戸塚宿(横浜市戸塚区) を題材とした浮世絵を見てみましょう。「落人(おちうど)」と呼ばれる舞踊劇「道行旅路(みちゆきたびじ)の花聟(はなむこ)」は、天保4 年(1833)3月に初演されました。主君塩冶判官の一大事の場に恋人で顔世の腰元であったお軽と逢い引きをしていたために居合わせなかった早野勘平は、お軽の実家に身を寄せるべく塩冶の家中から離れます。その途中、東海道の戸塚で二人は休息をとります。そこにお軽に気がある師直の家来鷺坂伴内(さぎさかばんない)が登場。二人に絡む滑稽な場面です。この場面から戸塚=お軽勘平の図式ができあがり、二人は浮世絵の東海道シリーズにさかんに取り入れられました。

上図は歌川豊国(三代)の「役者見立東海道」と呼ばれるシリーズで、程ヶ谷にお軽、戸塚に勘平を取り上げています。お軽は初代坂東しうか、勘平は八代目市川団十郎という、当時随一の人気役者コンビが配されます。そして背景にはオマケのように、それぞれの場所の風景が描かれています。
 また、物語のはじまりである大序は鎌倉の鶴岡八幡宮を舞台にしています。そのため、大序を描いた作品(下図)には大石段に大銀杏、遠くに見える海などいかにも鎌倉らしい景色が広がっています。


おわりに
 最初に人生に一度は忠臣蔵に出会う、と書きましたが、「今の若い人は忠臣蔵を知らない」という言葉も耳にします。どんなに流行したものでも、時代につれて忘れられていくことは世の習いです。しかし、ここまで語り継がれ、数多くの芸術作品に影響を与えた「忠臣蔵」は、まだまだ生き続けるに違いありません。そのため浮世絵をはじめとする「忠臣蔵」文化を振り返ることは、私たち日本人の特質を見直すことにもなるのではないでしょうか。
 この展覧会では浮世絵のさまざまな魅力を楽しみ、それを引き出した「忠臣蔵」文化に広く親しんでいただければ幸いです。