北条綱成の次男(綱成の弟康元の子、あるいは康元本人説もある)。治部少輔の官途名を称した。永禄2年(1559)8月頃より史料に登場し、同年沼田城(群馬県沼田市)、同7年正月には江戸城での在城が知られる。天正2年(1574)2月から江戸城代として領域を支配。また、岩付城代の氏繁の出陣により同城に、同10年3月以降は関宿城(千葉県野田市)に在城するなど、常に前線の城の守備をおこなった。天正11年6月2日没。