4 近代の鎌倉彫

4 近代の鎌倉彫

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相模国鎌倉名所及江之嶋全図(部分)
相模国鎌倉名所及江之嶋全図(部分)

相模国鎌倉郡鎌倉名所及江之島全図 畳紙
相模国鎌倉郡鎌倉名所及江之島全図 畳紙

 明治維新の後、神仏分離令の発布によって生じた廃仏毀釈によって、鎌倉の仏師も仏像や仏具制作の場を失い、窮地に立たされました。
 鎌倉仏師の流れを受け継いでいた後藤、三橋の両家では、仏像仏具の制作から、彫りと塗りの技術を活かした工芸漆器制作へ、転換が図られました。後藤家からは後藤鎌太郎斎宮、三橋家からは三橋永輔鎌山が出て、木彫漆塗の器物制作を先導し、現代に続く鎌倉彫の基盤を作り上げました。
 廃仏毀釈の一方で、明治政府の殖産興業政策の中で鎌倉彫は改めて産業として注目され、奨励・振興の対象と位置づけられました。また、横須賀線の開通以降、鎌倉が一大避暑地となったことにより、鎌倉を訪れる人々の関心を呼ぶ工芸品としての地位も高まり、近代鎌倉彫は新たな歴史を歩むこととなりました。この時代、後藤、三橋両家とも鎌倉寿福寺門前に工房を構え、鎌倉仏師の伝統を受け継いだ彫像制作で高い評価を得ながら、皇室や宮家、華族や政財界との関わりの中で質の高い注文制作を行いました。

 近代鎌倉彫は、仏像仏具制作と深く結びついてきた中世以来の鎌倉彫とは異なる制作と受容の場を獲得しました。しかし、制作を担う工人は古典を継承する意識を常に持ち続けていました。
 歴史博物館の前身、県立博物館開館時には、建長寺に伝わる黒漆塗須弥壇の複製と、円覚寺伝来の前机に倣った前机が、鎌倉彫の後藤俊太郎により制作されました。建長寺須弥壇と円覚寺の前机は、いずれも中世に遡る木彫漆塗、中国風の文様を施した仏具であり、鎌倉彫の祖型に位置づけられる作例です。鎌倉という地で育まれた木彫漆塗の器物制作の伝統が、俊太郎の仕事にも脈々と受け継がれていることを示す作品と言えるでしょう。

建長寺須弥壇複製および前机
建長寺須弥壇複製および前机