神奈川県立歴史博物館 真葛焼アイコン概説(1/5) 目次  
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1.京都から横浜へ

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虫明窯「月ニ雁水指」
虫明窯「月ニ雁水指」
 
 真葛焼とは、初代宮川香山〔天保13年〜大正5年〕が横浜ではじめたやきもののことをいう。 香山は、本名を宮川虎之助といい、京都で伝統的なやきものを生業とする家に生まれた。 父は宮川長造〔寛政9年〜万延元年〕といい、青木木米にも師事した陶工で、 京都の真葛原(現東山区)に窯を開き、茶器などを制作していた。安井宮から「真葛」号を、知恩院華頂宮からは「香山」号を賜った人物である。 虎之助はその四男で、幼少の頃から陶技はもとより書画などを学んだ。父と兄を相次いで亡くした後、若くして家業を継いで、一家を支えたという。 彼は幕府から御所へ献上する飾棚付茶器大揃の制作で名を上げ、一時備前虫明窯の指導を委嘱され、当地に移り活動していた時期もある。
 明治3年、薩摩の御用商人梅田半之助・伊集院らにすすめられ、若き香山は、海外への表玄関である新しい都市・横浜への移住と 当地での輸出用陶磁器制作を決意した。 時代は明治維新をむかえ、明治政府は日本の工芸品が欧米諸国で非常な人気を博していることを知り、外貨獲得の有力な産業として、 また国威発揚の手段として、その生産を積極的に奨励したのである。 横浜で貿易商を営む鈴木保兵衛から支援を受け、明治4年に太田村不二山下(現横浜市南区庚台)に窯を開いたが、 窯業の伝統の無い横浜で工房を立ち上げることは並大抵の苦労ではなかったようで、まず原材料の陶土を確保することも難しかったようだ。
 
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