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北条早雲と呼ばれるが、正しくは伊勢新九郎、入道後は早雲庵宗瑞。実名(じつみょう)は近年「盛時」が有力となった。出自は諸説あったが、京都伊勢氏の庶流で、父は備中国荏原荘(岡山県井原市)に所領を持つ伊勢盛定、生母は政所執事伊勢貞国の娘。足利義視の近仕を務めていたが、応仁の乱(1467)により駿河守護今川義忠夫人の姉を頼り駿河に下った。文明8年(1476)、義忠没後、後継をめぐり龍王丸(早雲の甥)と小鹿範満(義忠の従兄弟)の間の内紛を調停した後、京都に上り将軍義尚の申次を務めた。長享元年(1487)、再び駿河に下り、龍王丸に家督をとらせる事に成功、その功で興国寺城(静岡県沼津市)を与えられた。明応2年(1493)、伊豆を奪取。ついで、明応5年(1496)頃、小田原城を攻め西相模を支配した。永正13年(1516)に新井城(三浦市)に三浦義同を滅ぼし相模一円支配をなし遂げた。同16年8月、韮山城(静岡県伊豆の国市)で死去。没年齢は88歳とされたが、近年、65歳頃との見解が示された。
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