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早雲寺+(プラス)

第1回 早雲寺住持列伝 その①

  ○ 初代住持 以天宗清(いてんそうせい) 1471〜1554

初代住持 以天宗清(いてんそうせい)

早雲寺の開山。山城国生まれで、伊勢氏の家臣蜷川氏出身の大徳寺僧。以天にとって、伊勢宗瑞(のちの北条早雲)は仕えている主人伊勢氏一族関係者という立ち位置になる。以天は大徳寺龍泉派の法流に連なる禅僧であり、伊勢宗瑞もこの法流でかつて修行していたことがあった。こうした縁によって宗瑞を祀る寺院の開山として以天が招かれた。

戦国期の大徳寺では法嗣が四つに分派し、龍源派(南派)・大仙派(北派)・龍泉派・眞珠庵派があった。以天や宗瑞が学んだ「龍泉派」は、大徳寺内にある派祖陽峯宗韶の塔所「龍泉庵」にちなんで名付けられており、龍泉派僧たちは創建した際の塔頭「龍泉軒」に住しておらず、他の大用庵や松源院の塔頭に住しながら大徳寺運営に携わっていた。

以天には彼自身が描いた絵画作品がいくつか残っている。早雲寺所蔵の祖師図驢上人物図、また当館所蔵の鴉図などがそれである。著名な画人雪村周継の手による大徳寺の以天宗清像では、以天自身が賛文を記しており、絵師との交流もうかがえる。京都で様々な室町期を代表する絵師と交流するなか、彼自身も絵を嗜むようになっていったのであろう。

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第2回 早雲寺住持列伝 その②

  ○ 二世住持 大室宗碩(だいしつそうせき) 1493〜1560

二世住持 大室宗碩(だいしつそうせき)

但馬国出身の開山以天宗清の弟子。早雲寺の二世住持となった後に、天文7年(1538)に大徳寺住持へと出世を果たし、実際に京都大徳寺に入寺している。その後、小田原に帰参して、早雲寺末寺の本光寺および宝泉寺の開山となり、教団拡大にも功績を残す。なお、大室の弟子たちは戦国大名北条氏の本拠小田原を中心に膨れ上がり、五世明叟宗普や六世大岫宗初、八世梅隠宗香を輩出している。彼ら三人ともに但馬国出身とされており、出身地を通じた地縁関係も法縁に影響していたのであろう。

大室の弟子に連なる明叟・大岫・梅隠も、みな大徳寺住持に出世している。しかしその方式は在国したままで実際に大徳寺に入寺することはなく、「前住大徳寺」という称号を得るものである。これは「居成」(いなり)と呼ばれた。なお、大徳寺入寺の官銭(つまり出世にかかる負担金)には、入寺が50貫、居成が150貫という違いがあった(「大徳寺役者塔主等連署規式」『大徳寺文書』、戦国期の1貫は現在のレートで約10~15万)。居成による大徳寺出世がほとんどであった早雲寺では多額の費用が必要とされたことは想像に難くなく、早雲寺の外護者である小田原北条氏の経済的支援が背景にあったと考えられよう。こうした住持たちの活動や北条氏の働きかけもあって、早雲寺は天文11年(1542)に後奈良天皇から勅願寺とされる。

後奈良天皇徽号勅書
後奈良天皇徽号勅書
後奈良天皇綸旨
後奈良天皇綸旨

○ 四世住持 南岑宗菊(なんしんそうきく)

早雲寺の四世。開山以天宗清の弟子にして大室とは別系統の法系を形作った住持。南岑の弟子には、七世万仭宗松や十世錬叔宗鐵を輩出する。南岑の系統は錬叔を最後に早雲寺住持としては史料上その活動が見えなくなっていく。

早雲寺住持の大徳寺出世は、天文14年(1545)に大徳寺へ入寺した三世松裔宗佺まで、入寺式を行い実際に大徳寺に入っている(松裔の入寺式は『言継卿記』に詳しい)。しかし、永禄8年(1565)に大徳寺へ出世した早雲寺四世の南岑は居成であったことが史料から窺える(『晴右記』)。以後、早雲寺住持の大徳寺出世は基本的に居成がほとんどとなる。

しかし、南岑の弟子である万仭や錬叔らは住持在職時に京都大徳寺での居住が認められ、京都社会で活動していた(『鹿苑日録』)。早雲寺住持たちは、小田原や箱根湯本の早雲寺と、京都大徳寺の間を、法縁によるネットワークを背景に往来し、また京都文化に触れることで小田原や早雲寺へ様々な文物をもたらしていたと想像される。なお錬叔は大徳寺に再住しており、南岑の法嗣が京都社会とより密接に関わっていた様子がうかがえる。

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第3回 早雲寺住持列伝 その③

  ○ 五世住持 明叟宗普(みょうそうそうふ) 1516〜1590

五世住持 明叟宗普(みょうそうそうふ)

但馬国福富氏の出身とされる早雲寺五世住持。二世大室宗碩の法嗣にして、永禄11年(1568)に没した四世南岑宗菊の跡を継いで早雲寺住持となる。元亀2年(1571)に居成の方式で大徳寺出世を果たす。

明叟の法嗣から、以後多くの戦国期早雲寺住持が輩出されたため、彼らを総称して「明叟派」とも呼ぶ。また明叟は早雲寺末寺の大聖寺・栖徳寺・廣徳寺の開山となり、さらに平林寺(埼玉県新座市)の転派にも関わる。明叟の時期、関東龍泉派の拡大が着実になされたことを示していよう。

この明叟という人物は、近世の編纂物にも逸話とともに度々登場する。そのエピソードを掻い摘まんで紹介していくと、永禄年間の上杉謙信による小田原攻めでは、焼亡しつつある早雲寺と命運をともにしようと仏殿に籠もり、すんでのところで救出されている(『早雲寺記録』)。また、豊臣秀吉の小田原合戦では、明叟は秀吉方との和平交渉を主張し、北条氏政・氏直へ諫言しも聞き入れられず、ついに断食の上で壮絶な最期を遂げる(『関八州古戦録』)。こうしたエピソードには、関東龍泉派の教線拡大を成し遂げた明叟自身の自負もあらわれているのだろう。

明叟宗普墨跡
明叟宗普墨跡

○ 六世大岫宗初(だいしゅうそうしょ)

大室宗碩の法縁グループの拠点本光寺の住持

大室宗碩の法嗣で早雲寺の六世。元亀3年(1572)に居成として大徳寺出世。大岫は大室を開山とする本光寺(開基北条為昌(北条氏康の弟))の住持となっている。

大岫の本光寺住持任命は、大室の遺言にもとづきつつ、さらに栖徳寺(住持は明叟宗普)をその後見として外護者北条氏によって決定されている。また一年輪番制が採用され、大室の法嗣によって順繰りに住持職が回されていく。以後、本光寺は大室の法嗣たちの中核拠点となっていく。

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第4回 早雲寺住持列伝 その④

  ○ 八世住持 梅隠宗香(ばいいんそうか) 1524〜1589

八世住持 梅隠宗香(ばいいんそうか)

但馬国出身で大室宗碩の法嗣。元亀3年(1572)に早雲寺八世住持となり、天正元年(1573)に居成方式で大徳寺に出世。祐泉寺の開山(静岡県三島市)や宝泉寺の二世住持などに就く。

明叟の法嗣が「明叟派」とも呼ばれ、多くの早雲寺住持を戦国期に輩出したのに対して、彼の法嗣は戦国期に住持となっていない。しかし、彼の法嗣からは、小田原合戦で焼亡してしまった早雲寺を再建した中興開山の十七世菊径宗存が登場している。菊径以後は「梅隠派」とも呼ばれる彼の法嗣が江戸期早雲寺の住持を占め、早雲寺の復興を担っていく。

○ 十世住持 錬叔宗鐵(れんしゅくそうてつ) 1532〜1612

北条氏末裔の狭山藩北条氏とも関わる

南岑宗菊の法嗣で早雲寺十世住持。錬叔は天正16年(1588)に居成で大徳寺に出世しており(『龍宝山住持位次』)、小田原合戦で北条氏が滅亡した後の天正19年(1591)に再び大徳寺住持となっている。その後、錬叔は京都大徳寺で活動したことが他の史料からもうかがえ、「天用庵宗鉄」とあるため、大徳寺塔頭天用庵の塔主になっていた。

文禄2年(1593)、北条氏康の庶子で、後の狭山藩北条氏の外藩祖(狭山藩では藩祖)の北条氏規がこの錬叔と交流している記録が残る(「北条氏規書状」『早雲寺文書』)。内容は最後の小田原北条氏当主氏直の三回忌法要についてである。

天用庵は大徳寺龍泉派僧が居住する塔所であり、早雲寺住持たちとも非常に関わりが深い。小田原北条氏滅亡後に、早雲寺住持だった錬叔と狭山藩北条氏との間で主家北条氏の法要が営まれている点は興味深い。

北条氏盛書状①
北条氏盛書状①
北条氏盛書状②
北条氏盛書状②

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第5回 小田原北条氏五代 その①

  ○ 初代 伊勢宗瑞(いせそうずい) 1456~1519

初代 伊勢宗瑞(いせそうずい)

相模国小田原を本拠地とした戦国大名北条氏の家祖。室町幕府政所執事という役職に就いていた伊勢氏一族に属する。仮名は新九郎、元服後の実名は盛時、出家後は早雲庵宗瑞と名乗っていた。宗瑞は備中国の出身で、申次衆として室町幕府九代将軍足利義尚に仕え活躍する。その後、甥である駿河国の今川氏親を支援するために京都から下り、伊豆国の韮山城を居城とする。当地を足がかりとして、明応の政変に応じて相模国へ侵攻。小田原を奪取して伊豆・相模両国を領域支配する戦国大名となった。

宗瑞は京都大徳寺や建仁寺にて禅修行に励み、「東海路有武而之禅人」(『東渓宗牧語録』)と武人にして禅を修めた人物と評価される。大徳寺では同門に以天宗清がおり、宗瑞の宗教生活の縁を背景に、彼を祀る菩提寺早雲寺に開山として以天が招かれる。

○ 二代 北条氏綱(ほうじょううじつな) 1487~1541

二代 北条氏綱(ほうじょううじつな)

伊勢宗瑞の息子で二代目当主となる。氏綱の時期に本拠地を小田原城に定め、都市整備に着手するようになる。また、東国で既存の勢力である関東管領山内上杉氏、扇谷上杉氏らと戦争を繰り広げ武蔵・下総方面にも支配領域を広げ、「虎の印判」を作り支配体制を整えていった。

その一方で、東国在来勢力との戦争が苛烈になるほど、後発勢力である伊勢氏は「他国之逆徒」などと侵略者のように当地で呼ばれていた。氏綱は自己の存在とその支配の正当性を対外的にアピールするために、姓名を「伊勢」から「北条」に改めている。これら、かつて相模守・武蔵守に就き両国を支配していた鎌倉幕府執権北条氏の名跡を継承することを意味している。ここに戦国大名北条氏が誕生する。

氏綱は箱根神社や鶴岡八幡宮などの社殿を復興し、正当な東国支配者であるかのように振る舞っていく。東国の既存秩序のなかにも入り込み、氏綱は関東管領に就任し、伝統的権威たる関東公方足利氏を補弼する立場へと成長する。また京都社会とも積極的に交流し、関白近衛家との姻戚関係や『酒天童子絵巻』などの文物の招来なども行った。小田原城の出土品からは、氏綱期にこうした京都から入ってきた文物に溢れていた様子がうかがえる。

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第6回 小田原北条氏五代 その②

  ○ 三代 北条氏康(ほうじょううじやす) 1515~1571

三代 北条氏康(ほうじょううじやす)

氏綱の嫡子で三代目当主となり、「天下無双之覇主」(『明叔禄』)とも称される。

前代の氏綱期に北条氏の領国は駿河東部・伊豆・相模・武蔵南部・下総の一部へとひろがり、北条氏は広域な支配地域をもつ戦国大名へと成長した。また氏綱が関東管領に就任するなど関東の政治秩序のなかでも重要な位置を占めていた。

そうした情勢下、家督を継承した氏康は、広域な領国支配を有するがゆえに、境を接する敵対勢力との戦争に明け暮れることとなり、また支配地域を維持するために内政面の改革に着手する必要があった。氏康は関東の内部では古河公方足利晴氏・扇谷上杉氏・山内上杉氏との抗争を繰り広げ、河越合戦では北条氏康方の十倍の動員数であった両上杉氏・古河公方連合軍に勝利し、扇谷上杉氏を討ち取り、古河公方足利晴氏を屈服させる。関東の政治秩序のなかで北条氏の影響力は絶大なものとなり、氏康は甥の義氏(氏康妹の芳春院殿の子)を関東公方に就任させる。北条氏は武蔵一国を治めることとなった。対外戦争では、駿河今川義元・甲斐武田信玄・越後上杉謙信と渡り合い、武田・今川家との三国同盟を結び、北上して領国支配を上野国まで伸ばした。

内政では領国内で検地を行い、税制改革や伝馬制度の確立にも着手した。また永禄2年(1559)には『北条氏所領役帳』を作成させ、家臣への役負担を明確化させている。

関東公方足利氏という伝統的権威を戴く政治体制のなかで、北条氏は軍事力を背景に、こうした既存の政治秩序を越え始めていく。

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第7回 小田原北条氏五代 その③

  ○ 四代 北条氏政(ほうじょううじまさ) 1538~1590

四代 北条氏政(ほうじょううじまさ)

氏康の隠居にともない、家督を継承に四代目当主となる。しかし隠居後も氏康は政務を主導したため、その治世を「おたハら二御館」と称された。

氏政は徐々に氏康から領国経営や軍事・外交権を譲られ、元亀2年(1571)に氏康が没したことで、以後は氏政が北条氏当主としてすべての権限を掌握する。対外戦争では甲斐武田信玄と同盟し、越後上杉謙信と戦う。上杉方の常陸佐竹氏などと抗争を繰り広げ、その支配領国は下野・常陸・上総・下総へと延びる。

対外交渉では織田政権には従属し、嫡子氏直(後の五代当主)に信長娘を正室として迎えることを見据え、氏政は隠居し家督を氏直に譲る。だが、本能寺の変を契機として織田氏の支配から北条氏は独立し、徳川家康と結びながら越後上杉景勝や常陸佐竹氏と戦争を続けた。

家康が羽柴秀吉と対立すると、北条氏も秀吉と対立関係となっていき、家康が秀吉に従属した後は討伐対象となってしまう。天正18年(1590)に秀吉軍の大規模侵攻を受け、領国内に防衛体制を敷き、小田原城での籠城戦を構えるも降伏。ここに戦国大名北条家は滅亡し、氏政は戦争の責任をとらされ弟の氏照とともに切腹させられる。

○ 五代 北条氏直(ほうじょううじなお) 1562~1591

五代 北条氏直(ほうじょううじなお)

北条氏が織田信長に服属した結果、信長の娘を正室に迎えることを見据え、氏政は隠居し、氏直は五代目当主となる。隠居した氏政の後見を受けつつ、政務にあたった。

本能寺の変後は信長家臣の滝川一益を駆逐して上野・信濃・甲斐へと進出し、北条領国の最大版図を築く。また徳川家康の娘督姫を娶る。家康と秀吉が敵対関係となるなか、北条氏も家康方として活動し伊達氏と連携しながら秀吉に対抗した。しかし、家康が秀吉に従属し、東北勢も秀吉方に切り崩されるなか、次第に北条氏は孤立化し、ついには秀吉政権の討伐対象となる。

天正18年(1590)3月から開始された秀吉方による小田原攻めでは、北条方の防衛体制もむなしく次々と各支城等が攻略され、同年7月に降伏する。父氏政と叔父氏照は切腹させられるが、家康の娘婿である氏直は助命されて高野山へ追放される。翌年に氏直は赦免され秀吉の家臣となったが、疱瘡を煩い三十歳で没する。

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第8回 小田原北条氏一族 その①

  ○ 北条幻庵(ほうじょうげんあん) ?~1589

伊勢宗瑞の末子で、一般的に「北条幻庵」の名として知られる。幼名は菊寿丸、出家した後の法名は長綱・宗哲の二つを名乗った。庵号は幻庵で、正式には「幻庵宗哲」と称してした。生年は未詳であるが、永正年間(1504~21)の前半頃と推定されており、没年が天正17年(1589)であることを踏まえるに長命であったことがうかがえる。幻庵は幼少のころから箱根権現別当職に就いて多くの社領を有しており、箱根権現内部での影響力のほどが了解される。

北条家の御一家衆であった幻庵は、小田原城付近の久野の地を本拠地とし、歴代当主たちを宿老的な立場から支えてきた。それは箱根権現をはじめとする宗教勢力との関わりだけでなく、軍事面・文化面など多岐にわたった。出品No.72「北条幻庵覚書」は、足利一門の名門吉良家へ嫁ぐ北条氏子女の鶴松院へ全24ヶ条にわたる奥方としての心得書を書き送ったもので、その詳細な内容から武家の作法といった故実に明るい人物であったことも分かる。

○ 北条氏照(ほうじょううじてる) 1542?~1590

三代当主氏康の三男で、幼名を藤菊丸という。生年については諸説あるが、天文11年(1542)とする見解が現在有力視されている。古河公方足利義氏の後見的立場にあり、かつ北条家と公方家との交渉の中で取次役を担った。その様子は、関東公方足利氏の末裔である喜連川家に残された出品№34「北条氏照条書」、№36「北条氏照書状」(いずれも『喜連川文書』所収)から知ることができる。

北条氏の領国に占める氏照の支配領域は広大であり、その立場の重要性がうかがえる。氏照は関東管領山内上杉氏の武蔵守護代大石氏の養子となって滝山城(八王子市)を継承、その後に上杉方の三田氏(青梅・奥多摩・飯能市)を追い、多摩・入間地域へ支配をひろげていく。氏照は同じく兄弟の氏邦(鉢形城主)とともに上杉方勢力との戦争で最前線を担い、下総方面で軍事活動を展開した。氏照は当初滝山城を本拠地とし、後に八王子城を新たに築いて本拠地を移している。

小田原合戦では、城主氏照は兄弟で先代当主氏政や五代当主氏直とともに小田原に籠城しており、八王子城は抵抗むなしく天正18年(1590)6月に陥落し多くの兵士が討ち取られたという。氏照は氏政とともに戦争の責任を問われて同年7月11日に切腹して果てた。介錯は彼ら兄弟の弟氏規だったという。

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第9回 小田原北条氏一族 その②

  ○ 北条氏規(ほうじょううじのり) 1545~1600

三代当主氏康の子で四男とみなされている。母は今川氏親娘で、子供時代は母方の実家である今川氏への人質として駿府に預け置かれていた。元服も今川義元のもとで行われ、永禄5年(1562)まで駿府に居住し、その後小田原に戻ったものと考えられている。

小田原帰還後は、三浦郡を管轄領域として三崎城を本拠地とした。氏規はとくに西国方面の取次役として北条氏の外交交渉を担うようになっていき、駿府時代に同じく人質生活を送っていた徳川家康と知己であったため、徳川方との外交窓口となり、さらに豊臣秀吉とも交渉し天正16年(1588)には北条方の使者として秀吉に出仕している。

小田原合戦では韮山城の防衛を担うも、天正18年(1590)6月に降伏し、小田原城陥落後は降伏した兄氏政・氏照の切腹に際して介錯をしたという。合戦後は、流罪となった当主氏直とともに高野山へ向かい、翌年に秀吉から赦免され知行地を与えられる。慶長5年(1600)に死去する。

北条氏規宛の徳川家康起請文
北条氏規宛の徳川家康起請文

○ 北条氏盛(ほうじょううじもり) 1577~1608

氏規の長男で、母は高源院(玉縄城主北条綱成の娘)。天正17年(1589)に当主氏直のもとで元服し、氏直から北条氏の通字「氏」の字を賜り、実名を「氏盛」と称す。また元服時から名のる仮名を、父氏規の同じ「助五郎」とする。氏盛は当主氏直の養子となっており、当時氏直に男子はなく、もし北条氏が存続していたら六代当主は氏盛がなっていた可能性が高い。

小田原合戦後は父氏規や当主氏直に従って高野山で謹慎生活を送り、天正19年(1591)に豊臣秀吉に赦免される。以後、徳川家康に従って陸奥九戸政実の乱の鎮圧や、文禄元年(1592)には父氏規とともに秀吉の朝鮮侵略に従い名護屋に在陣する。氏盛は氏直・氏規の名跡・遺領を継承し、慶長5年(1600)に一万一千石の大名へと昇格する。関ヶ原合戦でも徳川家康に従って会津上杉景勝の追討に参加し、翌年に従五位下・美濃守に任じられている。慶長13年(1608)、大坂城下の屋敷で32歳で没する。

北条氏盛宛の北条氏直一字書出
北条氏盛宛の北条氏直一字書出

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第10回 狭山藩主列伝 その①

○ 二代藩主 北条氏信(ほうじょううじのぶ) 1601~1625

北条氏盛の長男として生まれる。慶長14年(1609)に狭山池の改修工事が完成するが、この段階ではまだ大坂久宝寺町内の屋敷に居住していた。同20年に大坂夏の陣および大坂城の落城では城下が焦土と化してしまい、氏信は住居を替えて領地の池尻村に住む。元和2年(1616)に同村に狭山藩陣屋を構築し、ここに本拠地狭山の名を冠する狭山藩が成立する。氏信は江戸で没し、広尾にある祥雲寺(東京都渋谷区)に葬られた。

狭山池の南上空から北方を望む(大阪狭山市教育委員会提供)
狭山池の南上空から北方を望む(大阪狭山市教育委員会提供)

○ 三代藩主 北条氏宗(ほうじょううじむね) 1619~1685

北条氏信の長男として生まれる。寛永2年(1625)に父氏信の遺領を継承し、また同20年には陣屋上屋敷が完成する。氏宗には嫡子がいなかったため、祖父氏盛の二男氏利の二男氏治を養子として迎え、自身の長女松の娘婿とする。病身のため、一度も将軍に拝謁することなく生涯を終える。

現在の狭山藩陣屋跡(大阪狭山市教育委員会提供)
現在の狭山藩陣屋跡(大阪狭山市教育委員会提供)

○ 四代藩主 北条氏治(ほうじょううじはる) 1639~1696

もともと庶子である氏利(氏盛の二男)の二男として生まれ、のちに藩主氏宗の娘婿となる。藩主を継職する際に、氏治は前藩主の娘婿かつ養子であるにも関わらず、幕府老中より氏宗が将軍家綱に拝謁しなかったということを根拠に反対される。結果、氏治は一万一千石の相続が認められず、一万石の下賜による新規取り立てとなった。氏治の事跡で特筆すべきは、小田原北条氏の菩提寺早雲寺の復興に玉縄北条氏末裔とともに参加した点である。寛文12年(1672)に早雲寺境内において北条五代墓を建立している。
氏治も嫡子に恵まれず、異母弟の氏朝を養子に迎えた。元禄9年(1696)に没する。

○ 五代藩主 北条氏朝(ほうじょううじとも) 1669~1735

初代藩主氏盛の二男氏利の五男として生まれる。その後、嫡子のない四代藩主氏治の養子となり、元禄9年(1696)に藩主を継職。文武両道にすぐれ、「中興の英主」として知られる。氏朝は先祖供養と藩政改革を積極的に進め、とくに前者では専念寺(大阪市中央区)に藩祖氏規、初代氏盛の墓石を再建し、また早雲寺に対しては狭山藩所有の古文書写や歴代北条氏家譜・位牌などを送っている。早雲寺住持柏州宗貞の大徳寺出世に際しては多額の支援金を準備し、同寺で催される小田原北条氏の供養でも資金援助を果たす。
氏朝は財政・軍備・民政の分野でも実力を発揮し、倹約と綱紀粛正を進めつつ家臣団組織の充実をはかっており、藩財政の好転も成し遂げている。

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第11回 狭山藩主列伝 その②

○ 六代藩主 北条氏貞(ほうじょううじさだ) 1703~1758

北条氏朝の長男として生まれる。氏治・氏朝の事業を継承し、先祖供養に励む。晩年には狭山藩の家祖である北条時政ゆかりの地・願成就院(静岡県伊豆の国市)の復興にも助力している。その一方、藩政改革に対する重臣たちの反発を招き、下級藩士と重臣たちの間の対立が深まり、家中騒動の遠因を作ってしまう。

○ 七代藩主 北条氏彦(ほうじょううじひこ) 1742~1769

北条氏貞の長男として生まれる。17歳で藩主を継職し、19歳で狭山陣屋に入る。宝暦10年(1758)に「狭山騒動」とよばれる家中騒動が勃発。明和6年(1769)に没した。

○ 八代藩主 北条氏昉(ほうじょううじあきら) 1760~1811

北条氏彦の長男として生まれ、10歳で藩主を継職。明和・安永期に天災と飢饉が起こり、社会不安が増すなかで軍備充実と軍資金の蓄積に努めた。天明2年(1782)に狭山で火災が発生し、陣屋が焼失するも同6年に再建している。

○ 九代藩主 北条氏喬(ほうじょううじたか) 1785~1846

北条氏昉の長男として生まれる。外国船の来航が相次ぐなか、大坂城代の命により大坂湾岸の警備を行い、天保8年(1837)の大塩平八郎の乱では大坂城本丸を守備していた。嫡子が早逝したため、大垣藩主戸田氏庸の三男を養子に迎えている。文化面では享和3年(1803)に菩提寺法雲寺(大阪府堺市)へ北条五代画像を制作し寄進する。

○ 十代藩主 北条氏久(ほうじょううじひさ) 1816~1825

大垣藩主戸田氏庸の三男として生まれ、後に氏喬の養子となり藩主として継職する。農兵を徴集して、堺湾岸防御や外国船来航警備に従事した。嫡子が早逝したため、先代藩主氏喬の弟氏迪の二男を養子に迎える。

○ 十一代藩主 北条氏燕(ほうじょううじよし) 1830~1891

九代藩主氏喬の弟氏迪の二男として生まれ、後に氏久の養子となって藩主を継職する。プチャーチンの大坂湾来航に際して堺海岸警備を担った。藩校簡修館を中興するなど教育による人材育成に努めた。嫡子がなく下野佐野藩主堀田正衡の三男を養子に迎える。

○ 十二代藩主 北条氏恭(ほうじょううじゆき) 1845~1919

下野佐野藩主堀田正衡の三男として生まれ、後に氏燕の養子となって藩主を継職する。明治2年(1869)6月に版籍奉還して知藩事に任命されたが、同年12月に辞任する。廃藩置県を待たずに狭山藩は廃藩となり堺県に併合された。その後、氏恭は明治天皇の崩御まで侍従を務めた。

北条氏恭肖像写真(狭山市教育委員会提供)
北条氏恭肖像写真
(狭山市教育委員会提供)
北条氏恭宛の狭山藩知事任命書
北条氏恭宛の狭山藩知事任命書
 

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