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展覧会概要

箱根湯本にある金湯山早雲寺は、かつて戦国大名小田原北条氏の菩提寺として栄華を極めた古刹でした。早雲寺は、小田原北条氏の初代当主伊勢宗瑞、のちの北条早雲を祀る寺院として、大永元年(1521)に二代当主北条氏綱が京都大徳寺の僧以天宗清を開山として招いて創建したと伝えられています。

令和3年(2021)は、早雲寺が開かれて500周年という節目の年にあたります。神奈川県立歴史博物館ではこれを記念して、早雲寺との共催で特別展「開基500年記念 早雲寺 ―戦国大名北条氏の遺産と系譜―」を開催いたします。早雲寺の貴重な寺宝が展示室内で一堂に会する機会はめったになく、たいへん貴重な機会となるはずです。

さらに、早雲寺とゆかりの深い箱根神社や正眼寺・宝泉寺・廣徳寺など、それぞれの社寺を代表する宝物の数々を集め、関東公方足利氏や小田原北条氏・玉縄北条氏・狭山藩北条氏ら北条一族ゆかりの品々も一挙に公開します。

早雲寺の歴史を繙くと、箱根霊場の宗教世界から室町期の関東公方足利氏を中心とする文化圏の存在、そして関東に覇を唱えた戦国大名北条氏が作り上げた小田原文化が幾重にも積み重なって存在していることに気づかされます。早雲寺の歴史は、東国文化の歴史であると言っても過言ではないのです。

それでは、早雲寺展の導入として、展覧会を構成する各章の内容について順番に紹介していきます。

北条早雲像 早雲寺蔵
北条早雲像 早雲寺蔵

以天宗清像 早雲寺蔵
以天宗清像 早雲寺蔵

後奈良天皇徽号勅書
後奈良天皇徽号勅書

プロローグ 早雲寺の創建と至宝

 早雲寺は、小田原北条氏の初代当主伊勢宗瑞、のちの北条早雲を祀る寺院として、大永元年(1521)に二代当主北条氏綱が京都大徳寺の僧以天宗清を開山として招いて創建したと伝えられています。以天宗清は大徳寺龍泉派の法流に連なる禅僧で、かつて伊勢宗瑞もこの法流で修行していたことがありました。そのため、宗瑞と以天は同じ宗派で修行した仲間でもありますので、こうした縁によって宗瑞を祀る寺院の開山として以天が招かれたのです。

織物張文台及硯箱 早雲寺蔵
織物張文台及硯箱
早雲寺蔵

1章 霊場としての箱根

 なぜ、戦国大名北条氏の菩提寺早雲寺は箱根湯本の地に開かれたのでしょう。これまで箱根の「場」は、箱根三所権現を中心に鎌倉幕府や鎌倉府などの歴代武家権力によって信仰されてきた霊場でありました。関東に覇を唱えた戦国大名北条氏も、東国武家権力の信仰に倣い箱根神社へ深く帰依していきます。それと同時に、京都から下り、もともと東国の在来権力ではなかった北条氏にとって、既存の宗教的・政治的秩序に入り込みながら権力基盤を確立することは重要課題でもありました。早雲寺が、既存の東国霊場である箱根の「場」に開かれたのは必然だったのです。

箱根権現縁起絵巻 個人蔵
箱根権現縁起絵巻
個人蔵

地蔵菩薩立像(鎌倉時代)正眼寺蔵
地蔵菩薩立像(鎌倉時代) 正眼寺蔵

2章 関東足利氏の美術と絵師

 戦国時代、東国社会の伝統的権威として存在していた関東公方足利氏の周辺には、豊かな文化圏が作り上げられていました。それは、鎌倉から古河へ動座した後も活発であり、京都から招かれた関東画壇絵師たちの多くの作品からも裏付けられます。関東へ進出を果たした北条氏も、軍事的基盤の伸長だけではなく、関東公方足利氏を中心とする政治体制に依拠しながら政治的実力を培っていきました。さらに、足利氏のもとで創られた文化圏を吸収しかつ継承しながら寺宝の形成を果たしていきます。政治史に加え、文化史の視座から戦国期東国史をとらえてみることで、美術品の作成・所持を通じた権力のあり様も垣間見えます。

機婦図(1) 早雲寺蔵
機婦図(1) 早雲寺蔵

機婦図(2) 早雲寺蔵
機婦図(2) 早雲寺蔵

3章 戦国大名北条氏と早雲寺住持

 開山以天宗清が招かれたのち、早雲寺には彼の法流を受け継ぐ寺僧たちが次々と登場していきます。大室宗碩・明叟宗普・梅隠宗香は早雲寺を代表する寺僧で、箱根や小田原周辺に同寺の末寺や塔頭をいくつも建立し、早雲寺の教団拡大に大きく貢献しました。この結果、早雲寺を拠点とする大徳寺龍泉派は大きな成長を遂げ、天文11年(1542)には朝廷から勅願寺に任命されています。また、早雲寺を外護者として支援した小田原北条氏も、土地の寄進だけでなく、彼ら寺僧が本寺である大徳寺住持へ出世できるよう積極的な援助を行っていきました。こうして、早雲寺は次第に小田原北条氏の菩提寺という性格以上の存在へと成長していくのです。

大室宗碩像 早雲寺蔵
大室宗碩像 早雲寺蔵

明叟宗普像 廣徳寺蔵
明叟宗普像 廣徳寺蔵

4章 小田原の政治と文化

 ここでは戦国大名北条氏のもとではぐくまれた小田原文化について紹介していきます。二代当主北条氏綱によって定められた戦国大名北条氏の本拠地小田原には、京都から絵師や仏師・鍛冶師などの職能民が集い、京都からの文化が移入されていきました。当初、北条氏は関東足利氏の政治秩序に従いつつ、一方で京都文化を積極的に導入しながら東国文化のなかで卓越する存在として権威を確立していきました。その結果、北条氏が既存の政治秩序を超え始めると、今度は自身で文化規範を創出するようになります。文化の規範(コード)を模倣あるいは創出する営為から、どのような権力の姿が浮かび上がるのか。様々な資料から考えてみます。

金箔かわらけ 八王子市郷土資料館蔵
金箔かわらけ
八王子市郷土資料館蔵

北条幻庵覚書 世田谷区立郷土資料館蔵
北条幻庵覚書
世田谷区立郷土資料館蔵

青釉小皿(中国産) 八王子市郷土資料館蔵
青釉小皿(中国産)
八王子市郷土資料館蔵

5章 早雲寺の復興と宝物

 小田原北条氏の栄華とともにあった早雲寺は、豊臣秀吉による小田原攻めの最中に占領され本陣となりました。天正18年(1590)6月、秀吉が本陣を石垣山一夜城に移すにあたり、早雲寺は焼き払われ、同寺におさめられていた多くの宝物も失われてしまいました。このように、北条氏の滅亡で荒廃してしまった早雲寺でしたが、のちに中興開山とされた住持菊径宗存によって、江戸期に復興が開始されます。菊径は本寺大徳寺や小田原藩の許可を得ながら、地域の名望家や北条氏末裔の援助をうけて堂舎の再建に着手します。早雲寺の復興事業は、菊径の死後も継続して行われ、北条氏末裔の玉縄北条氏や大坂の狭山藩北条氏たちの助力により北条五代の墓所再建や宝物の集積が果たされました。ここでは早雲寺住持と北条氏末裔たちとの交流の歴史に着目し、早雲寺が復興されるに至る軌跡を追います。

北条時政より鎌倉代々法名・位牌・墳墓之地書付(江馬家文書) 大阪狭山市教育委員会蔵
北条時政より鎌倉代々
法名・位牌・墳墓之地
書付(江馬家文書)
大阪狭山市教育委員会蔵

菊径宗存像 早雲寺蔵
菊径宗存像 早雲寺蔵

6章 狭山藩北条氏の由緒と治世

 早雲寺の復興に、とりわけ大きな役割を果たしたのは大坂の狭山藩北条氏でした。なかでも五代藩主北条氏朝の貢献は多大であり、その援助は資金援助に加え寺宝の寄附など多岐にわたります。ではなぜ、彼はここまでの援助を行ったのでしょうか。その理由を探るため、狭山藩北条氏の成立とその歴史を辿ることからはじめていきましょう。そして、「由緒の時代」とも評される近世社会のなか、氏朝や狭山藩における系譜認識や由緒形成の出来事がどのように早雲寺の復興へと結びついていくのかを考えていきます。狭山藩北条氏の事例から、早雲寺を復興する側の事情を見つめていきます。

軍配団扇 東京国立博物館所蔵 Image:TNM Image Archives
軍配団扇
東京国立博物館所蔵
Image:
TNM Image Archives

本小札紫糸素懸威腹巻(伝北条氏規所用) 小田原城天守閣蔵
本小札紫糸素懸威腹巻
(伝北条氏規所用)
小田原城天守閣蔵

エピローグ まもり、つたえられる早雲寺の寺宝群

 私たちの眼前にひろがる様々な歴史資料たち。その背後にある、時代を超えた人々による不断の努力を、われわれが意識することは極めて稀でしょう。しかし、早雲寺の寺宝群も、戦乱や火災による亡失や散逸、そして流転を経ながらも伝世しています。早雲寺に残される記録や什物帳を繙くと、早雲寺やその末寺・塔頭、北条氏の末裔たちによる、寺宝をまもり、伝えてきた努力の賜であることが分かります。今ある文化財がどのように継承されてきたのか。その歴史的営為の尊さについて、想いをはせる機会となれば幸いです。

御宝物改帳(江馬家文書) 個人蔵
御宝物改帳(江馬家文書) 個人蔵

早雲寺記録 早雲寺蔵
早雲寺記録 早雲寺蔵