神奈川県庁本庁舎と特別展「『キングの塔』誕生!」の開催について
横浜三塔のひとつ「キングの塔」として親しまれている神奈川県庁本庁舎は、関東大震災で焼失した先代庁舎の跡地に1928(昭和3)年10 月に竣工した四代目の神奈川県庁舎で、今年秋に創建85年を迎える神奈川県を代表する近代化遺産(近代建築)のひとつです。タイル張りの壁面と独自の幾何学模様の装飾が施された外観はアール・デコ様式を基調としたもので、最新の研究ではフランク・ロイド・ライトの影響を強調する見解も示されています。また、正面に立ち上がっている建物のシンボル「キングの塔」は、和風の塔や屋根を持つ「帝冠様式」建築の先駆的事例とも言われています。
建設にあたっては設計案を広く一般に公募する設計競技(コンペ)が実施され、一等当選した東京市技手小尾嘉郎(おび・かろう)の案をもとに、神奈川県の建築技師ら(内務部神奈川県庁舎建築事務所)が実施設計を行いました。鉄骨鉄筋コンクリート造地上5 階地下1 階建てで、その中央部に建物全体で9 階建てに相当する48.6メートルの高さの「キングの塔」が立ち上がっています。建築様式は「日本趣味ヲ基調トシタル近世式」とされ、議場や貴賓室などの主要な部屋は天井が社寺建築などでよく見られる、格子状に仕切られた格天井(ごうてんじょう)造りであったり、建物内部の装飾として、極楽に咲く花とされる「宝相華(ほうそうげ)」の文様が多用されていたり、各所に和風要素があふれています。現存する建物は、内外装とも創建当時の姿をよくとどめており、国の登録有形文化財にもなっています。
当館では、7 月20 日(土)から9 月16 日(月・祝)まで、特別展「『キングの塔』誕生!-神奈川県庁本庁舎とかながわの近代化遺産-」を開催します。
小稿では、県庁本庁舎の旧貴賓室(現第3 応接室)と、そこに残されている調度品のうち特に暖炉の上に飾られている綴織額について、特別展開催にむけた調査でわかった興味深い事実をご紹介したいと思います。
四代目神奈川県庁舎の貴賓室について
まず、四代目神奈川県庁舎貴賓室の概要を確認しておきましょう。貴賓室は、知事室や議場も置かれた建物のメイン・フロアである3 階の南隅に位置していました。天皇の行幸があった時には、その御座所としても使用された非常に格式の高い部屋です。実際に、昭和天皇は建物竣工翌年の1929(昭和4)年4 月に、関東大震災からの復興状況を視察するため横浜に行幸した際に、この部屋に入っています。
「神奈川県庁新築工事概要」(神奈川県立公文書館所蔵、以下「新築工事概要」)によると、その室内装飾は「日本趣味ヲ基調トシタル近世式」であった建物の中でも、4 階の正庁という部屋とならんで特に「日本固有ノ様 式ヲ強調」した部屋とされています。この部屋の竣工写真(図1-1)で確認してみると、まず天井は先にも述べたように、格天井造りとなっていました。「新築工事概要」で「其ノ模様等モ古代ノ建築ニ範ヲ採リ」と表 現されているように、室内には「宝相華」の文様があふれています。格天井から吊るされたシャンデリアに、ドアに貼りつけられた菱形の銅版飾り(図2)、机とその背後の家具にまで「宝相華」がちりばめられています。 また、この写真のアングルではわかりませんが、部屋の電気時計の文字盤上部にも小さな「宝相華」を発見することができます。
これらの竣工写真(図1-1)で見た部屋の様子を現況写真(図3)と比較してみると、格天井にシャンデリア、ドアの菱形の銅版飾りや家具が竣工当時のままで現存していることがわかります。さらに細かく見ていくと、家具におさめられた眞葛焼の香炉まで当時のままで残されているのです。ちなみに、四代目県庁舎の設計図面には照明器具の図面もあり(図4-1)、「宝相華」入りのシャンデリアをはじめとする貴賓室の照明器具は、当時の県の建築技師たちがデザインして発注した特注品であったことがわかります(図4-2)。家具に関する図面はその所在が確認されていませんが、「宝相華」があしらわれていることから、シャンデリアと同様県の技師がデザインしたいわゆる「横浜家具」の特注品であると考えられています。以上見てきたことで、県庁本庁舎の旧貴賓室は竣工当時の内装と調度品がほとんど手つかずのままで残されている貴重な部屋だということがおわかりいただけたと思います。
貴賓室に飾られた「額絵」について
さて、図1-1 をもう一度よく見てみると、画面右手奥の暖炉の上部に額が掲げられているのが確認できます。その様子を拡大してみたのが図1-2 です。外輪を持つ蒸気船とおぼしき船が大きく描かれ、その他にも和船を含む何隻かの船を見てとることができます。それに対して、図3 の現況写真では、ほぼ同じ位置に額が掲げられてはいるものの、その内容は画面上部に横浜港とそこに停泊する船舶を配し、その手前に瓦屋根に太鼓櫓風の和風の塔屋を持つ初代神奈川県庁舎(1867年創建)と、時計台がシンボルの横浜町会所(1874 年創建)がある構図のものに替わっています(図5)。初代県庁舎は、現在の県庁本庁舎の本町通りをはさんだ向かい側の横浜地方検察庁と横浜地方裁判所の敷地にあった建物で、町会所は同じく現在の県庁本庁舎から見るとななめ向かい側、すなわち「ジャックの塔」の横浜市開港記念会館(1917 年創建、国指定重要文化財)の場所にありましたので、画面の構図は実際の建物の配置をデフォルメしたものであることがわかります。現在掲げられている「額絵」を正面から見た図5 を見ると、貴賓室の竣工写真に見られる作品(図1-2)との相違は明らかです。このことから、現在旧貴賓室に掲げられている額は創建当時からあったものではないということがわかりましたが、では現在の額はいつ、どのような経緯でここに飾られるようになったのかという疑問がわいてきます。
また、現在室内に掲げられているこの「絵」は、制作者不詳の「錦絵」として紹介されていますが、実際には「錦絵」すなわち浮世絵版画ではなく、肉筆の絵画でもなく、織物で造られた「織額」です。そこで、ふたたび「新築工事概要」を確認すると、「工事請負者」の「室内装飾工事」の欄に「川島甚兵衛商店」の名前があることがわかりました。同商店は京都で1843(天保14)年に創業した織物メーカーで、綴織という独自の技法による室内装飾や織額などを手がけていました。宮城(皇居)の明治宮殿や赤坂の東宮御所の室内装飾は、この川島の手になるものです。川島甚兵衛商店の後身である株式会社川島織物セルコンが運営する同社織物文化館に問い合わせたところ、県庁貴賓室の織額を制作するための原画が同館に所蔵されていることが判明しました。その原画が図6 です。同館からは「綴織額原画 横浜開港」という名称で、川島織物考案部に所属した画家の大高為山(おおたか・いざん)(1893 ~ 1945)が原画の作者であるとの情報を得ることができました。
しかし、図5 と図6 を見比べてみると、この原画とそれをもとに制作された綴織額には明らかな違いがあるのです。原画には画面右側に大きな外国商館風の建物が描かれていますが、実際に織物で仕立てられた綴織額では、右側の建物の部分は松と日米和親条約締結の地に立つ「玉楠の木」のように見える樹木に置き換えられています。また、初代県庁舎と町会所の配置が実際の位置関係と違っていることは先に述べたとおりですが、町会所の建物の向きも、原画が正面が海に向いている本来の向きで描かれているのに対して、綴織額では180 度回転してしまっているのです。
貴賓室の竣工写真に見られる「額絵」が絵画作品なのか、織物作品であったのかについては、この写真だけで即断はできませんが、とにかく貴賓室に飾られている「額絵」が竣工時と現在で違うものになっていることと、現在室内に掲げられている横浜開港を主題とした綴織額の一部が、原画と原画をもとにしたはずの実物で相違していることをどのように考えればよいでしょうか。ここから先は、現時点で明確な根拠を示すことが難しい推測になってしまいます。
まず、竣工時の「額絵」が綴織額に掛け替えられたことに関して、その理由は横浜港に程近い神奈川県庁の貴賓室に飾られるものであるので、単に外国船が描かれるだけでなく、横浜らしさが感じられる作品がふさわしいと考えられたのではないか。次に、ある時期に掛け替えて貴賓室に設置された綴織額の原画と実物との相違については、原画では右側に描かれた建物の存在感が大きく、視線が右側に集中することを避けるためではないか。そして、原画の部分変更をメーカー側から提案することは考えにくいという川島織物セルコン織物文化館の見解から、原画からの修正を求めたのは発注者の神奈川県側だったではないか。さらに、掛け替えが行われたのは、原画作者の大高為山の没年から考えると少なくとも昭和戦前期、しかも1928 年の四代目県庁舎竣工からそれほど間をあけない時期であった可能性もあるのではないかということです。
これらの推測について、すべてにその根拠を示すことができればスッキリしますが、時間の制約もあり可能性を指摘するにとどまってしまいました。しかし、現時点でわかったことと、わからなかったことを整理できたことは大きな収穫であったと考えています。特別展では、現在県庁本庁舎の旧貴賓室に飾られている綴織額とその原画の実物を是非ご覧ください。
(この文章は『神奈川県立歴史博物館だより』(平成25年6月20日発行・通巻193号)より転載したものです)
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