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「キングの塔」誕生!

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神奈川県の近代化遺産、近代建築

神奈川県の近代化遺産、近代建築

西谷浄水場ろ過池整水室上屋・浄水井上屋 旧柳下邸 旧大倉精神文化研究所
4. 西谷浄水場ろ過池整水室上屋・浄水井上屋 10. 旧柳下邸 26. 旧大倉精神文化研究所
 1915(大正4)年竣工。近代水道の嚆矢である横浜市営水道の第2期拡張工事で建てられた施設群。正方形の平面プランを持つ4棟(整水室上屋)と八角形の平面プランを持つ2棟(浄水井上屋・配水井戸上屋)からなる。いずれも煉瓦造平屋の小規模な建物ではあるが、水平方向に石の帯をめぐらせ、開港記念横浜会館と同様の意匠でまとめられている。
 現在は横浜市営水道の歴史を物語るモニュメントとして現地保存されている。
 1919(大正8)~1920年(一部1924年)竣工。中規模住宅の一部のみを洋館とした、いわゆる「洋館つき和風住宅」の横浜を代表する遺構。金属類卸売商を営む柳下家の住宅として建てられ、西棟・東棟・東棟付属の洋館・蔵の4棟からなる。画面左側の西棟が日常の居住空間で、右側の東棟が接客空間とされ、洋館は縦溝を刻んだスクラッチタイル張り・フランス瓦葺きのハーフティンバー風2階建てである。
 敷地・建物ともよく保存されており、現在は横浜市に寄贈され、一般公開されている。
 1932(昭和7)年4月竣工。旧三井銀行神戸支店など、数多くの銀行建築を手がけた長野宇平治の最晩年の作品で、実業家大倉邦彦が私財を投じて設立した日本の精神文化を研究する施設の建物。古代ギリシアをさかのぼりクレタ・ミケーネ文明の建築様式を採用した、他に類を見ない独自の建築で、その最大の特徴が正面玄関部や塔屋に用いられた下に行くほど細くなる裾細りの円柱である。
 1984(昭和59)年より横浜市の施設(横浜市大倉山記念館)として市民の利用に供されている。
根岸競馬場 旧福島別邸 旧木下邸
35. 旧根岸競馬場一等馬見場 41. 旧福島浪蔵別邸 42. 旧木下邸
 1929(昭和4)年11月竣工。国内に現存する最古の競馬場施設で、J・H・モーガンが手がけた最大の作品。壁面には大きなアーチ窓が連なり、塔屋には丸窓も配されるなど、スタンドとしての機能性だけでなく、意匠にも配慮していたことが窺える。
 競馬場として使用されたのは1942(昭和17)年までと短命で、戦中の海軍、戦後の米軍による接収を経て、現在は横浜市が建物を所有している。
 近年老朽化が進んでおり、保存活用が課題となっている。
 1908(明治41)年竣工。神奈川県内に遺る明治期の貴重な別荘建築。横浜・戸塚出身の株仲買人・福島浪蔵別邸として建築され、1921(大正10)年より三重県桑名の富豪・諸戸清六(2代目)別邸となった。大きく張り出したバルコニーを1階はドリス式、2階はイオニア式の円柱が支え、その柱身や円柱が支える水平材に施された装飾や、2階バルコニーの手すりもあり、小規模ながら華やかな構成となっている。
 現在は鎌倉市が所有し、児童館(鎌倉市長谷子ども会館洋館)として活用している。
 明治時代末期。大磯駅前のほぼ正三角形の敷地に立地していることから、「三角屋敷」と通称される洋館。貿易商木下建平の別邸として建てられ、山口勝蔵を経て所有者は以後も変遷している。屋根はスレート葺きの切妻造りで外壁は下見板張りとし、各所に張り出し窓(ベイウィンドウ)を設けている。ツーバイフォー工法に小屋組はトラス構造であるので、外国人が設計したものと推定される。
 現在はレストラン(RISTORANTE VENTO MARINO)として使用されている。
旧横須賀鎮守府司令長官官舎 旧東伏見宮別邸 旧近藤邸
43.旧横須賀鎮守府司令長官官舎 44.旧東伏見宮別邸 45.旧近藤邸
 1913(大正2)年竣工。東京湾と横須賀市街を一望できる田戸台に建つ和館と洋館が併設された和洋折衷住宅。設計者の桜井小太郎は日本人初の英国公認建築士として知られる。戦後の米軍による接収を経て、現在は海上自衛隊横須賀地方総監部田戸台分庁舎のレセプションルームとして活用されている。
 数度の改修により内・外観とも創建時の姿をとどめている箇所は少ないが、軍都・横須賀の歴史を物語る貴重な遺構である。
 1914(大正3)年竣工。葉山に遺る関東大震災前の皇族別邸の貴重な遺構。東伏見宮依仁親王の別邸として建設され、広大な敷地に洋館と2棟の和館が廊下でつながる大規模な別荘建築であった。正面に塔屋と奥行きのある玄関ポーチを持ち、ドイツ下見板張りで非常に背の高い2階建てとなっている。
 なお塔屋3階の各窓には、木製のシャッター(メーカー不詳)が現存する。和館は現存せず、洋館は現在修道院(イエズス孝女会修道院)の研修宿泊施設として利用されている。
 1925(大正14)年竣工。旧帝国ホテルの設計者として有名なF・L・ライトの愛弟子・遠藤新が設計したライト式の住宅建築。朝日石綿工業社長の近藤賢二の別邸として、辻堂東海岸の広大な敷地に建てられた。水平線を強調する軒や下見板張りの壁面、リビングの大谷石張りの暖炉などにライト式の特徴を見い出すことができる。
 取り壊し寸前に市民の保存運動が起こり、1981(昭和56)年に藤沢市により現在地へ移築され、現在は一般公開されている。
旧華頂宮 旧閑院宮別邸 旧村田邸
46. 旧華頂家住宅主屋 47. 旧閑院宮別邸 48. 旧村田邸
 1929(昭和4)年竣工。旧前田家別邸に次ぎ、神奈川県内でも有数の規模を誇る洋館建築。華頂宮から臣籍降下した華頂博信侯爵の邸宅として建てられたハーフティンバースタイルの建物である。外壁はモルタル塗りで1階の一部はタイル張りとなり、腰壁には石材が張られている。右の切妻屋根の部分は戦後の増築である。
 現在は鎌倉市が所有し「旧華頂宮邸」として敷地を一般公開している。
 1930(昭和5)年6月竣工。元帥で陸軍参謀総長を務める閑院宮載仁親王の別邸。陸軍技師柳井平八が設計した。壁面に柱や梁を露出させたハーフティンバースタイルの華麗な外観を見せる。屋根は切妻でオレンジ色のフランス瓦葺きで、ハーフティンバーの木材や白色の壁とよく調和している。
 現在はホテル(箱根強羅花壇)のレストランとして利用されている。ホテルという用途上玄関を拡張しているが、その他は内外ともよく保存されている。
 1930(昭和5)年頃・1933年竣工。横浜興信銀行常務の村田繁太邸として、1930年頃に建てられた和館と33年に増築された洋館からなる住宅建築。洋館部分の外壁は1階が溝を刻んだスクラッチタイル張り、2階は柱・梁を露出させたハーフティンバースタイルで、屋根は切妻としている。
 火災で和館を全焼した際に洋館の取り壊しも検討されたが、周辺住民の強い要望もあり、1983(昭和58)年に創建時の姿に復旧された。
旧前田家別邸 福住旅館金泉楼・萬翠楼 富士屋ホテル本館
49. 旧前田家別邸 50. 福住旅館金泉楼・萬翠楼 51. 富士屋ホテル本館
 1936(昭和11)年8月竣工。旧加賀藩主前田家の16代当主・侯爵で陸軍軍人の前田利為別邸として建てられた、県内でも最大規模の別荘建築。設計は前田家のお抱え建築家の渡辺栄治。スパニッシュとハーフティンバースタイルを基調に、1階は鉄筋コンクリート造でタイル張り、2~3階は木造とし、玄関は主要階の2階に設けられている。
 現在は鎌倉市が建物を譲り受け、文学館(鎌倉文学館本館)として使用している。
 1877(明治10)・1878年竣工。神奈川県内に現存する最古の洋風建築。江戸時代初期創業の旅館の第10代当主・福住九蔵(正兄)が建てた明治初期の擬洋風建築の貴重な遺構で、かつ現在も現役の旅館として使用されている建物でもある。外壁を石造の防火建築としたのは、幕末の2度の大火で建物を焼失した教訓とされる。
 関東大震災で被害を受け、萬翠楼屋上の展望台は寄棟屋根に改修されている。
 1891(明治24)年竣工。1878年に山口仙之助が創業した日本を代表するリゾートホテルの本館。小田原の大工棟梁河原兵次郎が施工した。外観は和風の意匠に溢れており、千鳥破風・唐破風や鬼瓦が付いた入母屋の大屋根が乗り、鷹・孔雀・鳳凰をかたどった懸魚が用いられる。その一方で柱の柱頭にはコリント式の装飾が使われ、和洋が混ざり合った独自の構成を見せる。
 現在は前面にバルコニーが設けられている。
富士屋ホテル1号館・2号館 旧南湖院第一病舎 旧日本爆発物製造株式会社支配人執務室
52. 富士屋ホテル1号館・2号館 53. 旧南湖院第一病舎 54. 旧日本爆発物製造株式会社支配人執務室
 1906(明治39)年竣工。河原兵次郎・徳次郎親子が施工した、本館に隣接して建設されたまったく同形の客室用新館。正面の左右を八角形に突出させるデザインは本館とも共通する。寄棟の屋根は本館より低く、下見板風鉄板の壁面と上げ下げ窓とも調和している。玄関部分には大きな唐破風が付き、花頭窓や獅子の浮き彫りも配され、本館同様和風の意匠が強調されている。
 明治期の富士屋ホテルの建築群では、もっとも当初の形態をとどめている貴重な建物である。
 1899(明治32)年9月竣工。高田畊安が設立した東洋最大の結核療養所「南湖院」に最初に建てられた建物。広大な敷地に、最盛期には約60棟の木造建築群が立ち並ぶ巨大施設であった。外観は壁が下見板張りで、2階の窓には三角ペディメントが見られる。屋根は寄棟の桟瓦葺きに、正面に突出した部分にはポーチが設けられ、切妻屋根となっていた。
 南湖院の跡地は現在老人ホームとなっており、第一病舎と院長室(1926年創建)の2棟の建物が遺されている。
 1912(明治45)年頃竣工。日本海軍とイギリス企業の合弁で設立された火薬製造会社のイギリス人支配人の住宅。1919(大正8)年に海軍がこの会社を買収して海軍火薬廠を設置し、以後は将校クラブとして利用されていた。外観の特徴は塔屋をいただく主屋にほぼ集中し、下見板張りの壁面に上下に装飾が施されたアーチ窓が2つ並び、塔屋も均整が取れている。
 平塚市が建物を取得し、2009(平成21)年に現在地に移築して一般公開している。
旧海老名村役場 五十嵐商店 旧ハリス記念鎌倉メソジスト教会会堂
55. 旧海老名村役場 56. 五十嵐商店 57. 旧ハリス記念鎌倉メソジスト教会会堂
 1918(大正7)年竣工。海老名村役場として建てられた県内最古の地方庁舎の遺構。地元の名大工・藤井熊太郎が設計・施工した。桟瓦葺きの寄棟屋根で、ドイツ下見板張りの外壁にやや大きめの玄関ポーチが付き、ポーチを支える柱の柱頭飾りなどいくつかの装飾が見られる。1982(昭和57)年から郷土資料館として使用されてきた。耐震対策のために平成18年9月から平成23年3月まで休館していたが、現在は耐震補強工事を終え、郷土資料館(海老名市温故館)として公開されている。  1925(大正14)年竣工。荒物・雑貨を扱う商店の木造3階建て店舗兼住宅。関東大震災後に登場する、道路に面した正面だけを銅板やタイル・モルタルで飾り洋風とした「看板建築」のひとつ。外壁はモルタル塗りで、正面2~3階にかけては溝を刻んだ柱形が6本並び、両端の柱頭飾りにはコリント式の装飾が施される。
 この建物が建つ秦野市片町通りには、同様の商店建築が何棟か遺されている。
 1926(大正15)年10月竣工。アメリカで学んだ建築家・吉武長一が設計した鎌倉で古い歴史を持つプロテスタント教会の会堂で、由比ガ浜周辺のランドマークともなる建物。正面に大きな尖頭アーチ窓を配した鐘塔を持つ、ゴシック様式の建築である。外壁はモルタル塗りに目地を付し、石造風の表現としている。1987(昭和62)年に鐘塔上層部が増築され、ようやく当初計画どおりの外観となった。
 この増築を除いては、現在まで創建当初の形態がよく保存されている。現在は日本基督教団鎌倉教会会堂。
旧明和銀行本店 旧藤沢ゴルフ倶楽部クラブハウス 旧松田建設株式会社社屋
58. 旧明和銀行本店 59. 旧藤沢ゴルフ倶楽部クラブハウス 60. 旧松田建設株式会社社屋
 1928(昭和3)年竣工。川崎銀行傘下の銀行として、1927年に再出発した明和銀行の本店建築。関東大震災後に経営不振に陥った4銀行が合併して設立された小田原実業銀行の経営が行き詰まり、川崎の資本系列に入ることとなった。そうした経緯から、矢部又吉川崎銀行の営繕組織が設計に関与した可能性も考えられるかもしれない。外壁には柱形を多用し、コーナーは丸みを帯びている。柱形は彫りが浅く窓廻りもシンプルで、全体として落ち着いた意匠となっている。
 現在は中央労働金庫小田原支店。
 1932(昭和7)年竣工。戦前に建てられたゴルフ場のクラブハウス建築として現存する貴重な遺構。チェコ出身のアメリカ人建築家A・レーモンド設計によるスパニッシュスタイルの建築である。屋根は青い釉薬をかけたスペイン瓦葺きで、白壁に5連アーチのバルコニーを配し、金属製手すりなどが軽快な印象を与えている。
 戦後は長く県立体育センターの宿泊所として使われ、近年は白壁の剥落なども目立ってきたが、現在まで同センターの食堂等に使用されている。
 1938(昭和13)年頃竣工。木造2階建ての小規模な建物だが、戦前期の横須賀の民間オフィスビルの遺構として貴重な存在である。外観は吹き付けタイルによる洋風のデザインとしつつ、内部には和風意匠の応接室も設けられている。
 建設会社の社屋として造られ、戦後は現在に至るまで配管工事会社の本社(文化興業株式会社社屋)として使用されている。正面左側1階の開口部が扉から窓へ改修されている。