館長の馬車道日記

館長と散策 実施しました!

以前にも紹介しましたが、昨日(13日)、館長と散策する現地見学会を実施しました。見学会タイトルは「かながわの“平安・京”~川崎運河の遺構を歩く~」で、現在の横浜市鶴見区平安町と川崎市川崎区京町の市境にかつて存在した、川崎運河の跡を辿りました。
前日の雨降りから一転、初夏のような陽気の晴天のなか(その分、スギ花粉の飛散はすごかったですが)、参加者20名と約2時間楽しく散策しました。

鶴見線ホーム

JR鶴見駅に集合し、最初に向かったのは鶴見線の海芝浦駅です。

鶴見線ホーム

この駅、実は東芝の工場敷地内にあり改札を出ることはできないのですが、公園が付属していてそこから京浜運河や扇島の工場地帯、つばさ橋にベイブリッジ、空には羽田を発着する飛行機など、絶好のビューポイントとなっています。

京浜運河と扇島

まずは京浜工業地帯の海を臨んだ後、電車で浅野駅まで戻り、いよいよ散策のスタートです。

川崎運河工場地帯一覧図(大正7年)

川崎運河は、すでに埋め立てられておりその姿を見ることはできませんが、かつての運河の上は公園や緑道が整備され、また住宅やマンションが建つなど、現状の土地区画利用から、運河の幅やそのルートを想定することができます。

京町緑道(運河跡)

さらに一部では運河に築かれたコンクリート製の防潮堤も区画塀として残っていたりします。

防潮堤(左側が運河)

そもそも川崎運河は、大正11年(1922)に京浜電鉄によって開発された工場地帯の中心部に開削されたものでした。しかし翌年の関東大震災、また第一次世界大戦後の経済不況により工場の誘致は思うようにうまくいかず。広大な敷地には数社のみが工場を建設するにとどまりました。その中で現在も操業している工場はありますが、ほとんどがその後宅地化されました。そして運河の最奥部には、船溜と荷揚場が設けられましたが、その場所は現在京町小学校と隣接するマンションの敷地となっています。

京町小学校(船溜・荷揚場)

さて見学会タイトルの「平安・京」ですが、すでに記したように運河を市境に、横浜市側は当初「浜町」、川崎側は「京町」と町名が付けられました。合わせて「京浜」となります。しかしその後工場地から宅地へとその利用が変化する中で、「浜町」は「平安町」と改名されました。その理由は明らかでないですが、運河沿いが比較的碁盤の目に区画されていたこと、また京都の町に通ずる高級感を出したかったのかもしれません。実際に川崎側には「一の辻」「二の辻」「三の辻」といった交差点も存在します。

見学会の方は、無事に終着の八丁畷駅に到着し、解散いたしました。今回の散策、参加者はどんな感想を持たれたでしょうか。もしかすると、ただ町中を歩いただけと思った方もいるのではないかと思います。しかしながら、どこの土地でもそこには歴史が重層的に刻み込まれています。現代社会では目の当たりにすることはできない風景も、その土地を知り、歩くことでかつての風景がよみがえり、また新しい発見があるのではないかと思います。現地へ赴くことでわかること、視点を変えることで見えてくるもの、是非みなさんの身近な地域の歴史を知るきっかけになれば幸いです。アンケート結果が楽しみです!

令和7年3月14日