小田原市中里に所在する、弥生時代中期中葉では東日本屈指の規模を誇る遺跡です。環濠(集落をとりまく大きな壕)の機能を持つ河道の内側から100軒以上の竪穴住居や、長大な掘立柱建物、東日本で最古段階の井戸などが発見され、近隣に方形周溝墓が40基以上も群在していました。
東部瀬戸内~近畿地方の土器も多く出土し、その地方特有のサヌカイトという石材で作られた短剣や鏃(やじり)も認められます。河道からは木製農耕具が発見され、水稲耕作を行っていたことが分かりました。
かながわにおける本格的な水稲耕作は、このムラから始まった可能性があり、それには西日本からの移住者が大きな役割を果たしたと考えられます。
現在の中里遺跡
赤坂遺跡は度重なる調査により、7万㎡という関東でも有数の規模を誇る遺跡であることが確認されています。中期末から後期初頭にかけて遺跡が激減する中で、逆にこの遺跡は大きくなっているのです。海を介した他地域との交流によって繁栄したと考えられます。青銅器・鉄製品・玉類など、近隣では生産できない出土品がそれを裏付けています。
現在の赤坂遺跡
綾瀬市吉岡に所在します。1989年に学術調査によって南北103m、東西65m、延長距離270mの楕円形の環濠と6軒の竪穴住居が確認されました。2011年2月に国の史跡に指定されました。
出土土器のほとんどが東三河から西遠江の土器と酷似し、多くの人に驚きをもたらしました。急激に人口が減った後期初頭のかながわに、突如遠隔地(三遠地域)の人たちが集団でやってきてムラを作ったのです。
近年の追加調査では環濠内の南側でも3軒の竪穴住居が確認されました。環濠の外側では、今のところ方形周溝墓などは見つかっていないことから、比較的短期間で廃絶されたのではないかと考えられています。
こちらから神崎遺跡の紹介映像をご覧いただけます。 (綾瀬市役所秘書広報課制作) 「神崎遺跡~市内初の国指定史跡~」(1分54秒) 「神崎遺跡~全貌と遺物~」(1分52秒)
現在の神崎遺跡
発掘調査中の神崎遺跡