平安から鎌倉時代に制作された絵巻に「辟邪絵(へきじゃえ)」(奈良国立博物館所蔵、国宝)があります。

図版をご覧下さい。山中の草庵で法華経を読む僧侶がいます。それを邪魔しに現れた翼のあるふんどし姿の鬼神。法華持経者を守護するために雲に乗って現れた毘沙門天に矢で射られて退散しています。射殺された鬼神は血だらけです。飛んで逃げようとする二鬼神の姿をよくみると、矢が足に刺さった鬼神はやや鼻が高く、もう一方の鬼神には鳥のクチバシのようなものがあります。本図の詞書には「鬼神」とあり、「天狗」とは記されていませんが、この姿はいわゆる鼻高天狗、カラス天狗と後にいわれる天狗の原形とみてよいでしょう。
このような鬼神を射る毘沙門天の図像は中国に源流を求めることができます。大英博物館所蔵の「行道天王図像」(敦煌画)には毘沙門天の眷属(従者)に射落とされようとする鬼神が描かれています。この図像は「伽耶(かや)城毘沙門天像」として中世の日本にもたらされています。また、中国唐の安西城を救ったとされる兜跋(とばつ)毘沙門天は「雑類鬼神の首領」とされ、制圧した鬼神を眷属に従える図が多くみられます。それは仏教がおよばない異教徒と交わる最前線の地で王城の守護神として信仰されたことと関係がありそうです。
守護神としての信仰は日本でも取り入れられ、平安京の守護として兜跋毘沙門天像が羅城門に祀られ、都の鬼門にあたる愛宕や鞍馬山にも像が安置されました。愛宕や鞍馬といえば、後世、天狗の住処として有名になります。都の仏教の力が及ばない深山(異界)を往き来する鬼神と悪鬼から、国を守るために境界に祀られた毘沙門天。両者の対立関係は天狗が修験道に取り込まれて福神化するにしたがい次第にうすれていくようです。

本展では上記鞍馬寺の経塚から出土した金銅押出毘沙門天像(上図)のほか、足柄峠を越えた東国への堺に位置する朝日観音堂(南足柄市)の兜跋毘沙門天立像(平安時代)が出陳されます。