天狗は鼻が高いというのが現在の私たちの第一印象でしょう。しかし、鼻高天狗が天狗のスタンダードとなるのは江戸時代になってからのことでした。同時に、人をたぶらかし、災をもたらし、世の混乱の因をなす、怖く恐ろしい存在から、御利益(ごりやく)を求める通俗的な信仰の対象へと変化し、また娯楽文化のキャラクターともなり、身近で親しみのある存在となったことが展示作品からも見て取れます。
前代以来の天狗に対する畏怖感が消滅した訳ではなく、「恐ろしい存在」意識を逆転させ、笑いの対象として戯画化して楽しむという意識が江戸時代には生まれてくるのです。

「海を望む山中に鶏と烏天狗の蹴合い」(上図)は天明期前後(18 世紀後半)に活躍した絵師勝川春章の作品です。金太郎の前でカラス天狗が鶏と蹴り合いをしていますが、カラス天狗は鶏と同サイズで、この小ささでは人に悪さを仕掛けるとも思われません。

「狂戯天狗之日待」(上図)は歌川広重の作品で、天狗がその長い鼻を杵にして餅を搗き、すりこぎにして何かを擂っているという戯画です。気軽な読み物として人気のあった黄表紙などにも天狗をパロディー化した作品が数多くあります。天狗は庶民文化の中でおもしろおかしく楽しまれる存在になりました。
一方で真面目に、真剣に、天狗とは何者かという疑問を追求する人々がいました。幕末の国学者、村上忠順は日本書紀をはじめとする40 以上もの文献から天狗の記述を書き抜いています(『天狗考』)。文献引用は充実し、江戸時代の文化人の天狗に対する興味の強さが知れます。戯作者として知られる曲亭馬琴はそれまでの天狗諸説を的確に整理して批判した優れた天狗研究を残しています(『烹にまぜ襍の記』)。挿絵に描かれた和漢の天狗図は見ているだけでも楽しいものです。江戸時代の人々が天狗をどうとらえていたか、本展ではじっくりとご鑑賞いただけます。