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海の仕事着

学芸員のおすすめ収蔵資料の魅力を詳しい解説でお伝えする「今月の逸品」。休館中はウェブサイトのみでのご紹介になります。

2026年2月の逸品

海の仕事着

海の仕事着

サシコ 三浦市初声町三戸
1969(昭和44)年寄贈
寸法 W114×H90(cm)
(上)前面 (下)背面

 今月の逸品は「海の仕事着」です。これまであまり取り上げる機会のなかった漁師の仕事着について紹介します。当館では、2007(平成19)年に特別展「大漁の証 万祝(まいわい)」を開催し、大漁の際に網主から贈られる万祝(註1)を紹介しました。華やかな万祝を着るのは、特別なハレの日だけです。では、厳しい寒さや暑さなどが隣り合わせの危険な海で、漁師たちは日々どのような恰好をして仕事をしていたのでしょうか。今回は当館所蔵の海の仕事着の中から、サシコ(刺子)(註2)をはじめとする資料を取り上げ、その姿をみていきます。

サシコ―漁師の防寒着―
 一般的に刺子とは、木綿の布を重ね合わせて一針ずつ細かく刺し縫いにする縫い方や、縫ったもののことで、現代でも柔道着や剣道着などに用いられています。厚手で丈夫なつくりは冷たい風や海水から体を守るため、かつては漁師の防寒着も刺子で作られていました。
 県内では漁師のサシコを、川崎から平塚あたりまではボタ、ボータ、ボッタキモン、ボンザなどと呼び、大磯から真鶴にかけてはボッコ、ボッコキモンなどと呼びました。サシコは、着古した地織り(じおり)(註3)の着物や万祝の古いものなどに、元の布地が見えなくなるほど木綿糸で刺子を施したものです。丈の長さはひざ下15㎝くらいまでの長着式のものが多く、袖は風が入りにくいようにもじり袖(註4)・筒袖・鉄砲袖(細袖)のものが多かったようです。サシコの布地が傷むたびにツギ当てが繰り返されるため、布地が分厚くなり厚さ3㎝にもなったという話(藤沢市江の島)や、重さが一貫目(約3.75㎏)ほどのものもあったという話(逗子市小坪)が残っています。「東海道は五十三ツギ(次)だが漁師のツギ(継ぎ)は九百九十九ツギで千のツギはない」という冗談が残るほどツギを重ねました。こうしたサシコの補修や仕立ては、漁師の妻や母親など女性の仕事とされていました。秋の虫が鳴くころには、コオロギの声が「肩させボタさせ寒さがくるぞ 漁師のかかあボタさせ」と聞こえて切なかったという話も残っています(註5)。
 今回紹介する資料は、三浦市初声町三戸で実際に使用されていたサシコで、1969(昭和44)年に寄贈されたものです。袖は鉄砲袖で、サシコの腰のあたりは異なる布で何カ所もツギが当てられています(図1図2)。元の形が崩れてしまうほど何度も補修を重ねて使い込まれたことがわかります。

サシコの他に身につけたもの
 サシコは漁師の仕事を支える大事な仕事着でした。しかし、海の仕事着はサシコだけではありません。ここでは、サシコを軸としながら、漁師がどのような姿で海の仕事をしていたのかみていきます。サシコは冬も夏も着用して海に出たといわれる例もありますが、実際の装いは季節や漁法に応じて、いくつかの衣服や小物を組み合わせたものでした。
 冬はサシコの下には、綿入れのドウギ(胴着)(図3)やジバン(襦袢)を重ね、下衣にはモモヒキ(股引)をはきました。手には刺子で作った親指だけ分かれた手袋をして櫓(ろ)を漕いだといいます。夏はボロのナガギ(長着)にモモヒキを着用しました。フンドシ(褌)だけで漁に出ることはなかったといわれます。
 また海に放り出された際にすぐ着物を脱げるように、帯はほどきやすい結び方をしました。三尺帯(約114㎝)を前で結ぶ例(平塚市須賀)や、わら縄を帯の代わりにした地域(横須賀市野比)、サシコには帯をつけなかったという地域もありました。
 さらに、漁師の装いは季節だけでなく、漁の内容によっても異なりました。逗子市小坪では、覗突き(みづき)漁の漁師は、片袖のない腰下までのジバン(図4)を着たといいます。覗突き漁とは、舟に乗り覗き眼鏡で海中を見ながら、魚・貝・海藻を採る漁法のことです。覗き眼鏡を口にくわえ、片手に銛(もり)を持って突くため、もう一方の手は海へ入れたまま作業する必要があり、濡れないように片袖のみのジバンを着用しました。その上に重ねるボタ(サシコ)も片袖は脱いで漁をしたそうです。
 釣漁の漁師は、釣り針を肌に引っかけないように、夏でも袖のある着物やウデヌキ(腕貫)を着用しました。定置網漁では、上半身は裸でも股引は必ず着用し、網の綱による怪我を防ぎました。また藁製のマエミノ(前蓑)(図5)をつけ、魚を抱えた時に前が濡れないようにしました。水中にもぐってアワビ、サザエなどをとる潜(もぐ)り漁の漁師(海士)は、スコシ(素腰)(図6)という小さな布のあるフンドシ様のものを着用して潜りました。三浦市城ヶ島では、スコシの紐に持ちきれないアワビをはさんで採取したこともあったといわれます。スコシは、江の島や真鶴町などでも使用されていました。
 また、女性が身に着けた仕事着にも、作業によって工夫がみられました。漁村の女性は、家事や農仕事に加えて磯もの採りをしました。その際、膝丈のナガギにキャハン(脚絆)をはき、冬は半袖のサシコを着用しました(三浦市矢作)。
 こうした漁師の伝統的な仕事着も、大正時代以降は毛糸やコーデュロイ、ゴム製品などの普及とともに、次第に洋装へと移り変っていきました。

相模湾と東京湾
 神奈川県の沿岸部は、相模湾と東京湾という性格の異なる二つの海に面しています。こうした海の環境の違いが、漁師の仕事着にも影響を与えていました。相模湾側では、黒潮の影響で冬でも海水温が高く温暖な環境のため、メイン画像で紹介したように丈の短いサシコが用いられた例がみられます。一方、東京湾側では冬の寒さが厳しく丈の長いサシコ(図7)が用いられました。
 また真鶴町の漁師は船上でボッコ(サシコ)を着ていても、漁場に着くとどんな寒い時でも裸で網を引き、頭は鉢巻で、雪でも降らないかぎり頬かむりをしなかったと伝えられています。しかし東京湾側では寒い時期に裸での操業はとても困難だといわれていました。
 実際に、今年の大寒入りの日(2026/1/20)の海水温を比べてみると、東京湾の羽田沖では10.0℃、相模湾の江の島沖では14.4℃でした。この両湾の水温差は、漁師が身に着けた仕事着の違いを生み出す要因の一つになっていました。

おわりに
 「板子一枚下は地獄」という言葉があります。舟の床板の下は、落ちたら生きて戻ることの難しい深くて恐ろしい海であるという意味です。漁師たちは、自然の厳しさと向き合いながら、身につける衣服にさまざまな工夫を重ねてきました。サシコをはじめとする海の仕事着からは、海で働く厳しさと、それを支えた家族や、地域の暮らしが見えてきます。
 当館には、こうした漁師の仕事を支えてきた衣服や道具を他にも多く所蔵しています。これらの資料を通して、海と共に生きてきた人びとの暮らしに思いを巡らせていただければ幸いです。

(三浦 麻緒・非常勤学芸員)

註1
大漁祝いの祝い着。大漁を祝って、船主や網主が船子・網子に贈ったもの。江戸時代に房総半島から広まったといわれ、静岡から青森にかけての太平洋沿岸地域にみられる。
註2
本稿では、「刺子」は縫いの技法を、「サシコ」は刺子が施された仕事着を指すものとして用いている。
註3
その土地で織られ、主として自家用にする織物。
註4
巻袖や三角袖ともいい、袖口に向かって細くなる形をした袖。
註5
神奈川県『神奈川県史』各論編5民俗、1977、365頁
図1
メイン画像の拡大(内側)
図2
メイン画像の拡大(外側)
図3
ドウギ(三浦市城ヶ島)/1970(昭和45)年寄贈
図4
ジバン(逗子市小坪)/1971(昭和46)年寄贈
図5
マエミノ(横須賀市走水)/1967(昭和42)年寄贈
図6
スコシ(足柄下郡真鶴町)/1970(昭和45)年寄贈
図7
サシコ(横浜市鶴見区生麦)/1967(昭和42)年寄贈/寸法 W121×H121(cm)

参考資料

神奈川県教育委員会『東京外湾漁撈習俗調査報告書』1969
神奈川県教育委員会『相模湾漁撈習俗調査報告書』1970
和田正洲「神奈川県の衣と食」『関東地方の衣と食』1974 明玄書房
和田正洲「仕事着の一考察-神奈川県の場合-」『日本風俗史学会会誌 風俗』18巻2号 1980
県内沿岸部自治体の民俗調査報告書

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