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戦国遺臣たちの再就職活動―「我等はしりめくり之覚」から―

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2025年3月の逸品

戦国遺臣たちの再就職活動―「我等はしりめくり之覚」から―

戦国遺臣たちの再就職活動―「我等はしりめくり之覚」から―

我等はしりめくり之覚
(われらはしりめくりのおぼえ)
(桜井家文書)
江戸時代
寸法:32.5×96.5㎝

 戦国大名の北条氏康が作成した「北条氏所領役帳」という帳簿は、すでに原本は失われていますが、現在まで多数の写本が伝わっています。滅亡した戦国大名北条氏の系譜をひく江戸時代の狭山藩北条氏でも同様に写本が作成されました。その帳簿には、その他の写本が家臣団の名簿を貫高で表記していたことに対し、石高に換算し直す点で特徴が見られます。なぜでしょうか?その理由は、狭山藩における家臣団増員や人材登用に際して、仕官希望の旧北条遺臣の人物が作成したために、江戸時代の石高に換算し直して給与を決める必要が生じたから、と考えられています。北条氏の家臣だった人々が、再仕官を求めて狭山藩へ集った様子が想像されます。この写本の存在から、かつて戦国大名に仕えていた武士たち(あるいはその子孫たち)が、江戸時代に再び就職活動を行っていた様子がうかがえましょう。こうした武士たちを、本コラムでは仮に「戦国遺臣」と呼ぶことにしてみます。
 さて、就職活動に欠かせないものが〝履歴書〟です。先の役帳で自分のご先祖様の石高を示し、もらうべき給与額を主張することができても、それに相応しい自身の経歴や実力を士官先に認めてもらう必要がやはりあります。そのため、戦国遺臣たちの間では盛んに「戦功覚書」と呼ばれる戦国時代の合戦の軍功記録が作られました。以下では、戦国大名北条氏の旧臣だった桜井武兵衛という人物を事例に見ていきましょう。
 武兵衛は小田原合戦後、親藩の福井藩に仕官を果たしますが、藩主松平忠直が不行跡を理由に改易されると、越後高田藩へ再仕官することになります。その際に作成したものが「我等はしりめくり之覚」と題する戦功覚書です。そこには彼が生涯にわたり仕えた北条氏・越前松平氏のもとでの戦争・紛争と、その軍功について11項目をあげ列記されています。以下、簡単に各項目をご紹介します。

【各戦功記録】

図1
「さたけ衆と小田原衆たいぢん(対陣)之時」とあることから、天正12(1584)年5月上旬から7月中旬、沼尻(栃木県藤岡市)での北条氏政・氏直と佐竹義重との対陣をさします。北条方の武兵衛は諏訪部宗右衛門尉とともに「鑓初(やりはじめ・合戦で最初に槍を突き入れて交戦すること)」の戦功をあげています。
図2
「新うつの宮・たげ」との地名から、天正13(1585)年9月、北条氏政・氏直と宇都宮国綱との戦闘をさし、同年8月に北条方の攻撃を受けた国綱は本拠を宇都宮城から多気城(たげじょう・新宇都宮)に移して抗戦します。多気城攻めで武兵衛は鑓初の戦功をあげます。
図3
「冨田ニ而、うじなお大中寺山ニあかり、見被申候」より、下野の冨田城(栃木県大平町)が登場するため、天正12年2月から4月に行われた北条方の下野足利・佐野方面への出陣と思われます。武兵衛は冨田城の城下集落を突破し城門に至り戦闘を仕掛けています。
図4
「つくば山ヲ、小田衆・まかべ衆もち候」とあり筑波山(茨城県つくば市)での天正12年3月から4月頃の北条氏直と小田衆・真壁衆との合戦をさします。武兵衛の戦功証人として北条氏直側近の山上強右衛門(久忠・やまがみすねえもんひさただ)が記載されます。
図5
「ゆふきの田川」とあるため、結城城付近の田川(茨城県結城市)にて手負いの北条氏邦の窮地を武兵衛が救ったことがわかります(「てきへくびとらせ不申候」)。時期は、氏邦の下野方面の出陣がある天正9(1581)年あるいは天正12年2月から4月頃でしょう。
図6
「いづみかしら御番ニおり」から、武兵衛が駿河の泉頭城(静岡県清水町)で番衆として在城したことがわかります。時期は松田新六郎が武田氏へ内応して武田方に転じた天正9年10月にあたります。「瀬戸与兵衛、今、尾わり之名古屋ニおり申候」とあるのは、一緒に戦闘に参加し武兵衛の軍功を証言してくれる瀬戸与兵衛の現在の所在を記録しており、本史料作成の寛永年間時点で旧家臣どうしの交流がうかがえ、興味深い内容です。
図7
足利(栃木県足利市)での合戦をさし、時期は天正18(1590)年正月にあたります。この戦闘については、武兵衛に対して出された感状(戦功褒賞の文書)が現存しているため、記載内容は非常に簡素で証人も記載されていません。
図8
沼田領森下城(群馬県昭和村)における武兵衛の一番乗りの戦功で、時期は沼田領に侵攻した天正10(1582)年10月か天正13年9月のいずれかと考えられます。
図9
皆川領大平山(栃木県佐野市)にて武兵衛が敵陣へ攻撃し敵を多く討ち取るなどの戦功が記されます。時期は氏邦が下野に侵攻した天正12年2月から4月のものです。
図10
小田原北条氏滅亡後、武兵衛は結城秀康に仕官し福井藩へ移ります。二代藩主松平忠直の慶長17(1612)年10月、福井藩で家中騒動の「久世騒動」が勃発し、武兵衛は討手に加わり、誅殺された久世但馬と鑓合わせをした旨が記されます。
図11
元和8(1622)年12月に発生した松平忠直による重臣永見右衛門の成敗をさします。戦闘は激しく、武兵衛も討手として参加して四男佐助が戦功をあげますが、嫡男十太夫と家来が討死にしています。

 全11項目の戦功記録で注目される点が、武兵衛が所持する感状以外の戦功について、証言者となる人物の名前が記載されている点です。主に親藩へ仕官した武士の名前が記され、石原主膳、瀬戸与兵衛(名古屋に現住する旨が記載)は、現在も武兵衛の戦功を証言可能な人物として登場しています。また中山家範のように証言者がすでに死去していても、その子息の名を記して証拠能力を高める工夫も凝らしています。
 過去の戦功を書き上げた「我等はしりめくり之覚」では、各戦功を証拠文書や証言から裏付がとれるような内容になっています。さらには互いの子息の消息や現住地の情報を有しているため、戦功覚書作成の背後にある、かつて北条氏を主家と仰いだ戦国遺臣たちの、藩を越えた人的ネットワークも想定できるのではないでしょうか。
 江戸時代での戦国遺臣たちの再就職活動を支える基盤に、戦国期の旧家臣間の交流があったことが想定されるのは、非常に興味深いことです。同じ主家を仰いだ記憶は、近世社会のなかでも共有され、彼らを結びつけていったのでしょう。冒頭で触れた役帳や狭山藩への仕官活動も、旧北条遺臣のOB会なるものが背後にあり、彼らの間での緊密な連携と情報交換の結果、果たされたものかもしれません。戦国遺臣の再就職活動を支えたのは、戦国時代に築かれた先祖たちの繋がりでもあったのです。

(渡邊 浩貴・当館学芸員)

参考文献

図録『桜井家文書―戦国武士がみた戦争と平和―』2019年
図録『開基500年記念 早雲寺―戦国大名北条氏の遺産と系譜―』(小さ子社、2021年)

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