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ルビコン川を渡る

学芸員のおすすめ収蔵資料の魅力を詳しい解説でお伝えする「今月の逸品」。休館中はウェブサイトのみでのご紹介になります。

2025年12月の逸品

ルビコン川を渡る

ルビコン川を渡る

ルビコン川を渡る
ヴィルヘルム・ハイネ
石版着色、1855年、ニューヨーク

 「ルビコン川は日本のどこにあったのか?」――令和6年夏に当館で開催した特別展「かながわへのまなざし」の観覧者アンケートに書き記されたコメントです。
 この展覧会では、ペリー米国使節随行画家ヴィルヘルム・ハイネによる「ルビコン川を渡る」と題された水彩画と大型石版画(図1)の2種類の絵画を展示しました。そのうち大型石版画については、他の資料展示とは大きく異なり、3人の研究者がそれぞれ700字程度の解説文を付しました。水彩画には、その後に大型石版画で詳細な説明をおこなっていることと、じっくり鑑賞してもらうことを意図して、必要最低限の情報のみのキャプションとしました。おそらく、水彩画の方のタイトルをみて疑問に思い、大型石版画の解説を読んでも、「ルビコン川」の場所について説明がなかったことで、このようなコメントを残されたのだと思います。
 ルビコン川は古代ローマ共和政時代、イタリアと属州ガリアの境となっていた、イタリア北部にある川のことです。「ルビコン川を渡る」という場面はシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』にも登場します。「賽は投げられた」のセリフで有名な場面です。軍を率いてルビコン川(イタリア北部エミリア=ロマーニャ州)を渡ることは、ローマに対する反逆とみなされました。その禁を犯してまで軍を進めようとしたカエサル(シーザー)同様、米国測量船も不退転の決意で、幕府御用船の制止を振り切って江戸のほうへ進もうとしているということを、この言葉と絵は示しています。しかし、絵を見た限り海を描いているようで、どこにも「川」は描かれていません。「ルビコン川は日本のどこにあったのか?」という疑問を持たれるのももっともです。
 この疑問を受け、あらためて公式遠征記録である『ペリー提督日本遠征記』(以下、『遠征記』。1856年、Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)などの関係資料にあたりました。以下、観覧者の疑問にお答えしたいと思います。

 まず、「ルビコン川」についてですが、当然この当時の日本列島には、日本の人びとが「ルビコン川」と呼んだ川は存在しません。しかし、ある地図(海図)を見ると、Rubiconという文字が、ある地点に記載されています。『遠征記』は、ペリー艦隊の動向を事細かく記録していますが、大型艦船が未知の海域を航行するにあたり、座礁することを防ぐため、事前に測量をおこなっていました。その調査結果は海図へ落とし込まれ、それらは『遠征記』の付録として収められています。
 その一枚である「米海軍ペリー提督の命により、1854年日本遠征隊所属ウィリアム・L・モーリー中尉及び他の将校らによる江戸湾西岸測量」(Western Shore of the Bay of Yedo Surveyed by Order of Commodore M. C. Perry U. S. N. by Lieut. Wm L. Maury and Other Officers of the Japan Expedition 1854)と題された海図(図2図3)に、「Pt. Rubicon」すなわち「ルビコン岬」という語句が見えます。(図1)でいうと、右手の高台付近です。ここは現在、横須賀市走水(はしりみず)の旗山崎(はたやまざき)公園として整備されていますが、当時は旗山(走水)台場として、大砲が設置されていました。(図2)をもう一度見てみると、「Pt. Rubicon」の右上のところには、点線で囲まれ「Sratoga Spit(サラトガ砂嘴・さし)」と記載されている場所を確認できます。ここは、房総半島にある千葉県の富津岬から東京湾に突き出た砂嘴です。幕末には、この富津にも大砲が設置されていました。本海図付近の現在の地図を見ても(図4)、東京湾の中でこの三浦半島側の旗山台場と房総半島側の富津との間が狭いことがわかります。
 1792年にロシア使節が蝦夷地(北海道)へ通商を求めて来航して以来江戸湾防備が本格的に強化されますが、文政8(1825)年の「異国船打払令」で、旗山崎の手前にある観音崎と富津との間を幕府は「打ち沈め線」として、ここを越えようとする異国船は必ず打ち沈めるべき境界としたところだったのです(図5)。つまり、米国側もこの幕府が設定した防衛ラインを認識しており、ここを越えようとすると打ち沈められる可能性があることを十分理解していたのです。実際には海でしたが、米国使節にとってこの旗山(走水)―富津ラインは、カエサルが不退転の決意をもって越えようとしたまさに「ルビコン川」だったのです。

 日本の「ルビコン川」の位置がわかることで、この画が描かれた場所は容易に想像がつきます。(図1)の右手に見える岬が旗山(走水)で、中央に浜が広がり、左手にまた岬が描かれています。これらのことから、米国測量船と幕府御用船が対峙したのは、まさに海図の「Pt. Rubicon」の文字が記された付近だったことが確認できるのです。

(嶋村 元宏・当館主任学芸員)

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