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山の神講
学芸員のおすすめ収蔵資料の魅力を詳しい解説でお伝えする「今月の逸品」。休館中はウェブサイトのみでのご紹介になります。
2025年2月の逸品
山の神講
今月は、「山の神講」を紹介します。山の神といえば、箱根駅伝の険しい坂道で活躍した選手を比喩的に山の神というのをテレビなどで聞いたことがあるかもしれません。また、夫が長年連れ添って口やかましくなった妻を「山の神」と冗談交じりに呼ぶ習慣があります。皆様は山の神と聞いてどのようなイメージを持つでしょうか。
山の神は、神社での祭神名を大山祇神(おおやまつみのかみ)や木花咲耶姫(このはなさくやひめ)などといいます。山の神のイメージとして、全国各地には多産の女神、男神、夫婦神、天狗や山姥といった妖怪など多様な姿が存在しますが、なかでも醜い女性の神として信仰されることが多くみられ、山の神が自身より醜いオコゼを供えると喜ぶといった伝承もしばしば聞かれます。また、その役割も地域によって異なり、稲作の神、山中を支配する神、漁業の神、お産の神など様々な側面を持っています。
こうした山の神をまつる年中行事には、正月に初めて山に入り仕事始めとして木を伐る「初山」や、春秋の「山の神講(山神講・山講・山の講とも称される)」などがあります。講の当日は、講仲間が集まり山の神に参拝し、宴が催されます。山の神講は、山仕事に従事する人々だけでなく、農民や漁民、材木屋、薪炭屋(しんたんや)、大工など様々な人々によっても行われ、この日に山の神が狩りをする、木種を蒔く、木を数えるなどといい、山に入ることを禁じる伝承も多くの地域でみられます。
神奈川県の山の神信仰
神奈川県における山の神信仰の事例は県全域に分布しています。女神と考えられている地域が多く、小祠(しょうし)のほか、特定の樹木をもって山の神とするところもあります。特に、かつて生業のなかで山仕事が大きな地位を占めていた相模川上流の山間部では、多くの地域で山の神講が行われていました。県内の分布をみると、県東部では山仕事に従事する人々で山の神講を行っていた場合が多く、県西部では組・集落など地域ごとに行事として行っていたという傾向がみられます。山の神講は、多くの地域で1月と10月の年2回行われ、山の神に参拝した後、当番の宿で飲食をするのが通例でした。
特に相模原市緑区(旧津久井郡域)では、1月21日頃に行う「山の神の冠(かんむり)落し」とよばれる習俗がありました。この日、山の神が冠が落ちるのもかまわず弓を射るので、人々はその矢に当たらないように山へは入らないようにしたといいます。例えば相模原市緑区与瀬では、1月17日早朝、山の神に赤飯や竹筒に入れたお神酒のほかに篠竹で作った弓矢を奉納しました。そして21日には、山の神が山に害を与える魔物を弓矢で射るとされ、人々は山に入ることを避けたといいます。また、同市緑区名倉では、1月17日には山の神が弓を張っているといい山に行かず、各家で4尺ほど(約120cm)の弓矢を作り玄関に置いておきました。そして21日には、その矢を恵方(えほう/註1)に向けて射ったそうです。(図1・図2)こうした「山の神の冠落し」は、県境をはさんだ山梨県側の地域でも広く確認される習俗です。
藤沢市遠藤の山の神講
今回ご紹介する資料は、昭和41(1966)年に当館に寄贈された藤沢市遠藤の「山講中連名控帳」(図3)と「山の神講掛軸」(図4)です。この地域では、農閑期の1月から3月頃にかけて、副業として山の仕事をする人々がいました。彼らは、雑木を切り出して薪や炭を作り、藤沢(註2)や茅ヶ崎の町場に出荷しており、こうした杣(そま・註3)、薪切り、炭焼きなどの山仕事をする職業の人々によって、1月17日と10月17日に山の神講が行われていました。講の日には当番の宿に賽銭を持ち寄り、山の神が描かれた掛軸の前で会食をしながら、薪の値段や仕事について相談しました。講員は、打越、北原、笹窪、神明谷、仲町、南原、西谷、琵琶島、諸之木、矢崎など遠藤全域にわたっていました。
「山講中連名控帳」は8冊あり、慶応3(1867)年から昭和35(1960)年の93年間にわたり、春秋合わせて125回にわたる山の神講の内容が詳細に記録されています。具体的には、参加者名、持ち寄った賽銭などの収入、購入品に関する支出などのほか、無断で材木を伐採しないようにとの講中の掟(図5-1・図5-2)やその年の賃金についても記載がみられます。講は、昭和23(1948)年までは年2回行われていましたが、翌年以降は1月のみの開催となりました。また明治30(1897)年には20名の講員が参加していましたが、その後は徐々に減少し、第2次世界大戦後には平均して5~6名が参加していました。宿は持ち回りで、酒・野菜・豆腐・油揚げ・菓子などを準備し共同飲食を行っていたことがわかります。また、大正14(1925)年1月の記録には、「山ノ神様ノ再式の寄附」や「再築料」という語が見え、当地の山の神は自然の樹木ではなく祠があったのではないかということ、そして前々年の関東大震災によって何かしら被災したのではないかということが想像されます。昭和35(1960)年以降の講の実施については明確なことは不明ですが、昭和44(1969)年には藤沢市内での山の神講はほとんど行われなくなったと報告されていることから、遠藤の山の神講も高度経済成長期を境に実施されなくなったと考えられます(註4)。
講の時に使用された「山の神講掛軸」には、松の木の横に、兎のような耳の長髪の人物が描かれており、左下に「惣講中」と書かれています。この絵は、『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』の「魍魎(もうりょう)」を元にしたものと考えられます。魍魎とは、人を化かすとともに、死者の肝を食べているといわれ、姿かたちは三歳くらいの幼児に似て、赤黒色の皮膚、赤い目、長い耳、美しい髪をしているといわれています(図6・註5)。
かつて人々の生活は、自然や神との深い結びつきの中で営まれていました。現代の私たちよりも、神が身近な存在であったといえるでしょう。当館では、今回紹介した資料のほかに炭焼きが盛んであった愛甲郡清川村煤ヶ谷の山の神講の資料(図7・図8)も所蔵しており、今後も県内の山の神講の様子についてさらに明らかにできればと考えています。
(三浦 麻緒・非常勤学芸員)
参考文献
和田正洲「相模地方の山の神」『伊勢民俗』1956(『伊勢民俗(復刻版)』2002所収) 伊勢民俗学会
丸山久子『遠藤民俗聞書』1961 藤沢市教育委員会
柳田国男「山神とヲコゼ」『定本柳田國男集』第4巻1968 筑摩書房
桜井徳太郎『日本民間信仰論 増訂版』1970 弘文堂
神奈川県『神奈川県史』各論編5民俗 1977
藤沢市教育文化研究所『遠藤の昔の生活』 1980
藤沢市史編さん委員会『藤沢市史』1980 藤沢市役所
神奈川県立博物館『神奈川県民俗分布地図』1984 神奈川県文化財協会
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