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海の村の年貢

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2024年10月の逸品

海の村の年貢

海の村の年貢

城ヶ嶋村子御年貢可納割付之事(じょうがしまむらねおねんぐおさむべきわりつけのこと)
(椎橋家寄託・三浦郡関係資料)
慶安元(1648)年
展示場所:常設展2階テーマ3展示室
展示期間:~2024年11月22日

 稲穂が頭を垂れる季節になると、江戸時代の村に年貢割付状が届きます。
 年貢割付状とは、その年にいくらの年貢を賦課するか領主が村に通達するもので、いわば納税通知書にあたります。
 基本的に年貢の賦課対象となるのは、検地で耕地面積や土壌の良し悪しを調査した場所です。検地で調査された田、畑、屋敷地などは、実際に収穫できる作物が何であれ、生産力を米に換算して石高として把握しました。
 では、検地では計測出来ない場所を主な生産源としている村、例えば四方を海に囲まれて漁業を中心に生活している島の年貢は、どのように賦課されたのでしょうか。

三浦郡城ヶ島村
 歌人・北原白秋が利休鼠の雨を降らせた城ヶ島(神奈川県三浦市)は、三浦半島の南に位置する自然島です(図1:城ヶ島(令和6[2024]年撮影)南側より島東部を望む、図2:三浦半島および城ヶ島部分図)。中世には桜の名所として知られる一方、海からの目印として、また海防の拠点として、重要視されてきました。江戸時代においては、慶安元(1648)年に城ヶ島が三崎奉行支配下となったあと、幕府代官、浦賀奉行、幕末期には海防を担う諸藩というように次々と支配が変わっていく様からも、防衛拠点としての役割の大きさがわかるでしょう。延宝6(1678)年に航海の安全のため灯明台が建てられた島の西端には、現在城ヶ島灯台が立ち、安房国洲崎と江戸内海(現・東京湾)を隔てて向かい合う安房崎(あわさき)には、現在安房崎灯台が立って、城ヶ島のシンボルとなっています(図3:加藤山寿著『三浦古尋録 下』文化9(1812)年成立(写本,国立公文書館所蔵))。
 島南側の海には根とよばれる岩礁が広がり、大型鮑(あわび)類や海老といった高級食材の生息地となっています。島の北西に広がる相模湾は江戸時代以前から鰹漁が盛んでした。鰹・鮪などの回遊魚は江戸内海では漁獲できないため、新鮮な魚を得ることのできる漁場として重宝されたのです。

慶安元(1648)年・城ヶ島村年貢割付状図4
 明治初期の調査によれば、城ヶ島村は戸数78戸、船は合計89艘を有し、長さ二間半・3人乗りの網掛船で網漁を、2人乗りの潜船で潜水漁、菱突(ひしつき)漁を行っていました。夏には潜水漁法で鮑を採取し、それ以外の季節は船で海面を覗きながら岩礁にすむ鮑・栄螺(さざえ)・磯魚などを突き、海藻を採取する菱突漁や、回遊魚の通り道に網を仕掛ける磯立網漁により伊勢海老、鰹、鯛、平目などを漁獲するのが主流であったとされます。では、江戸時代に城ヶ島周辺で得られる豊かな漁獲物が、城ヶ島村の年貢として徴収の対象となったのはいつ頃なのでしょうか。
 慶安元年、三浦半島の村々が三崎奉行所の所領となった年、各村からの年貢徴収が開始されます。このことを示す城ヶ島村年貢割付状(図4)が現存する中で最も古い城ヶ島村についての年貢割付状です。資料中央部分(図5:図4の部分拡大図「板舟四艘役」「丸木舟弐拾壱艘□(役)」)を見ると板舟4艘、丸木舟21艘の漁船に対し金3両2分2朱が課されたことがわかります。丸木舟とあるのは、菱突漁に使用される小型木造船でしょう(図6:(参考)「伊勢鰒」『日本山海名産図会 四』(国立公文書館所蔵)、図7:(参考)若布切り(当館蔵、横須賀市久比里)菱突漁で若布を採るためのカマ)。検地を基準とすることのできない諸雑税は小物成(こものなり)と呼ばれ、様々な種類がありますが、城ヶ島村に対しては船数を基準に課される「船役(ふなやく)」が漁業に対する年貢の中心となりました。
 また、この翌年からは「山手鮑 五百五拾盃之代」として漁獲物である鮑に対しても年貢が賦課されるようになりました。山手鮑の「山手」とは、私有地以外、たとえば共有の場所などから産物を採集する用益権に対して賦課されたということを意味します。漁船に対する年貢に加え、恒常的に漁獲される漁獲物にも、その種類ごとに用益権への賦課がなされました。正保年間(1644~1648年)、伊勢から4、5人の蜑(あま)が城ヶ島に移住し潜水漁法をもたらしたとする説もあり(註1)、城ヶ島の鮑は年貢賦課が開始された当初から城ヶ島村の特産品でした。近隣では貞享2(1685)年に三浦半島東側の菊名村へ鮑役が賦課されたのが早い例ですが、これに先行する事例といえます。
 江戸近郊の漁場であった相州は、元々「岡方」とよばれる漁業以外を生業とする地区から、漁業の振興に伴って「浦方」と呼ばれる地区を拡大して発展していった漁村が多数です。その中にあって、城ヶ島村は村の区域を変化させることなく、早期から漁場に適した漁法を用いていたといえます。
 江戸の人口増加に伴い求められる漁獲量が増加すると、延宝2(1674)年、城ヶ島村は江戸新肴場問屋に専従して漁獲物を付け送る付浦に指定されました。漁獲物の種類も増加し、城ヶ島村の年貢として鰹節(図8:(参考)「蒸して乾魚に制す」『日本山海名産図会 三』(国立公文書館所蔵)、註2)、菱突漁・海老網漁(註3)も計上されるようになります。
 とはいえ、田畑の耕作が全くなされていなかったかというと、そうではありません。城ヶ島村年貢割付状(図4)には33石余りの田畑が計上されており、享保5(1720)年頃の絵図写(図9:近世中期城ヶ島絵図 脇坂健次郎筆写「三浦城ヶ島古絵図」(杉山家資料、享保5(1720)年か)を基に作成)からも島中央の台地部分、島北岸に畑があったことが確認できます。この33石分の畑地は幕末まで大きな変化なく維持されました。明治初期の調査では、男性が漁業を担う傍ら、女性が農業に従事したとされ、大麦、小麦、サツマイモなどが栽培されていました。

三浦郡関係資料
 10月の逸品でご紹介した資料は令和5年度に寄託を受けた三浦郡関係資料(椎橋家寄託)の一部です。225年間にわたって断続的に残存する294点の城ヶ島村年貢関係資料をはじめとし、新肴場問屋と交わした文書や、沈没船漂流物の書上げなど、当該地域にとって重要な文書を多く含む資料群です。
 城ヶ島についての文書資料の多くは、島内殆どの家屋が全焼した昭和11(1936)年の大火事によって失われたと考えられていました。『城ヶ島村沿革各誌』(明治20[1887]年)を著した名主家末裔・加藤泰次郎、『城ヶ島の過去帖』(昭和8[1933]年)をまとめた常光寺九世息男・脇坂健次郎の功績によって、残された一部の記録が確認できるのみです。
 今回ご紹介した慶安元年年貢割付状は内容の一部が『城ヶ島の過去帖』にも記載されています。脇坂氏も現代の私たちと同じように、この割付状原本を確認しながら同書をしたためたのでしょうか。今回発見された資料群は、城ヶ島の歴史をもう一度確かめていくための希少な資料群といえます。

(寺西 明子・当館学芸員)

参考文献

脇坂健次郎『城ヶ島の過去帖』神奈川県立図書館本,昭和8年
三浦市教育委員会『城ヶ島漁撈習俗調査報告書』,昭和46年
三浦市史編集委員会『目でみる三浦市史』,昭和49年
横須賀市『新横須賀市史』通史編近世,平成23年

註1
脇坂健次郎『城ヶ島の過去帖』神奈川県立図書館本,昭和8(1933)年。10世紀以前から潜水漁法が行われていた伊勢志摩には、冬期だけ関東に出稼ぎに来て鮑を捕獲する旅海士と呼ばれる人々がいた。
註2
明暦3(1657)年から「鰹節四百節代」として永壱貫弐百五拾文が賦課され、幕末まで常納となった。鰹節は十節を一連として年貢に計上した。
註3
突海老網役として永六貫五百文が計上されたのは文政7(1824)年以降だが、脇坂著書(前註)によると、慶安2(1649)年から菱突海老漁は開始されたとある。

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