展示

明治のハウツー本、演説指南書

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2024年7月の逸品

明治のハウツー本、演説指南書

明治のハウツー本、演説指南書

澤田誠武『雄弁秘術 演説美辞法 附大家演説集』8版
嵩山堂出版、1887(明治20)年
展示場所:常設展2階テーマ4展示室
展示期間:~2024年9月29日(日)

1 演説とは
 私たちが目にし、耳にする「演説」が日本で広く行われるようになったのは明治時代からです。「演説」という言葉は江戸時代以前から使われていたようですが、海外で「スピーチ」と呼ばれたものを「演説」として広めたのは、慶應義塾大学創設で有名な福沢諭吉です。福沢は代表作『学問のすゝめ』の中で、演説について、「大勢の人を前に自身の意見を述べること」と説明しています。また、福沢は三田演説会・明六社演説会という二つの演説会を立ち上げ、演説の普及に努めました。福沢にとって演説とは、政治家や学者だけではなく、商人・市民、誰でも人前で自分の意見を述べられるようになることであり、さらに学ぶ人々が演説によって自身の知見を広めることが重要だと考えていました。
 一方、演説は自由民権運動とそれに伴う新聞に対する弾圧によって急速に拡大していきます。自由民権運動の活動の一環として、各地で発刊された新聞が政府批判を行っていました。しかし、1875(明治8)年の新聞紙条例・讒謗律(ざんぼうりつ)によって、新聞による政府批判は困難になります。そのため、民権家たちは新聞の代わりとなる、自分の意見を広く人々に伝える新しい方法として「演説」に注目し、積極的に取り入れました。この過程で、民権家=演説をする人、というイメージも定着していきます。現在、私たちが政治と演説を結び付けてイメージするのも、明治時代の民権家が出発点といえます。

2 演説したい人々、導く指南書
 自由民権運動によって演説が各地で行われるようになった時、自分もやってみたい、演説する方法を知りたいと思った人々がいたことは想像に難くありません。しかし、演説は明治時代の多くの人々にとって未知なる行為でした。このような人々に応えるべく、演説ハウツー本である演説指南書が登場します。演説指南書とは、原稿の起承転結の組み立て方だけでなく、声の出し方、身振り・足の置き方から演説する時の心得など、演説に関する総合マニュアルを指します。

 今回ご紹介したいのは、澤田誠武(さわだまさたけ)『雄弁秘術(ゆうべんひじゅつ)演説美辞法(えんぜつびじほう) 附大家演説集』8版(嵩山堂(すうざんどう)出版、1887(明治20)年。以下『演説美辞法』)【図1】です。『演説美辞法』では、演説の際の音声・態度・手の作法・足の踏み方・容儀・登壇上の心得と、演説の中でも身体的な動きについて、事細かく説明されています。
 態度【図2】は12点の図が示され、演説中は喜・怒・哀・楽・愛・悪の6種類の感情【図3】によって姿勢を変化させるといいます。たとえば、「喜」は身体の位置を整え、両腕を活発に動かすこと、また両手の掌を上にして胸の上に置く姿勢が基本です。図と照らし合わせると「第一図」【図4】が基本の姿勢になり、演説しながら両腕を活発に動かし「第二図」【図5】のように聴衆に向けて手を差し伸べてみたり、「第四図」【図6】のように自身に注目させるために手を高く上げてみたりと柔軟な動きが想定されます。さらに『演説美辞法』では、思想と感情が出るという「手ノ作法」【図7】・発声の良し悪しが姿勢で決まるため重要だという「足ノ踏方」【図8】は、態度とはそれぞれ別項目を設けて図と共に解説されています。『演説美辞法』が説く演説は、手振りや身振りを用いて、聴衆の感情に訴えかけることを重視しているのです。
 これより前に出版された尾崎行雄訳述『続公会演説法』(丸屋善七、1879(明治12)年)【図9】にも、柔軟な動きのための足の位置【図10】・感情を表現する手の動き【図11】・原稿を持つ時の姿勢【図12】の図が掲載されています。『続公会演説法』では、演説は音声だけでなく顔色や表情、動作によって聴衆に訴えかけるものであり、姿勢などを研究して発達させなければならないと説きます。尾崎はこの本を執筆した当初から演説の名手とされた人物で、演説における手振り身振りの重要性も理解していたのでしょう。
 『続公会演説法』と『演説美辞法』の図に関して、数の違いや説明にやや異なる部分があるものの共通して見えるのは、19世紀の英米で演説の所作を科学的に解明し、演説の技法を高めようとしたエロキューション学派の影響があるからだと思われます。あるいはどちらの演説指南書も、西洋の演説に関する資料を参考にして執筆されている可能性があります。演説指南書を書く者もまた、演説を学び、時に実践した人々であり、試行錯誤しながら「演説」というものを理解したのではないでしょうか。
 自由民権運動家たち、ひいては衆議院議員総選挙を経て衆議院議員を目指す人々は、演説指南書で聴衆の感情に訴え、熱狂させ、自身の意見を肯定させる演説技術を学びました。1913(大正2)年、衆議院議員であった尾崎は、桂太郎首相に対し、「玉座(ぎょくざ)を以て胸壁(きょうへき)と為し、詔勅(しょうちょく)を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」と弾劾演説を行った際、桂を指差し、突くような動きをしたと回顧録で振り返っています。尾崎の演説の中でも有名なこの一節は、桂に向けたきわめて熾烈(しれつ)な批判です。演説内容もさることながら、この動作もまた、尾崎の演説が人々の記憶に残る要素であったことは間違いないでしょう。
 さて、この場合の尾崎の動作について、『演説美辞法』に則れば、「怒」の感情の中の特に「激怒」・「鋭意」を表す「第十二図」【図13】の両手を挙げたポーズをとるはずですが、実際は「喜」の感情を示す「第二図」【図5】に近い動作をしています。つまり、尾崎は演説指南書に示される動作と異なる動きで感情を表現しているのです。もっとも、『演説美辞法』では、演説中の態度に正解はなく、最終的には演説をしながら自然体で内容にふさわしい動きができるようにならなければならない、と説きます。演説指南書にお手本として掲載されている図より、その演説中に自然に出た動作が優先されるのです。
 しかし、誰しも最初から演説しながら自然とふさわしい動きができるわけではありません。当時の人々は、まず演説指南書の図の通りポーズをとって練習をしたのではないでしょうか。実際に図のポーズを取ると、「これは話題の中で今話していることを強調したい時にする動きだ」といった理解を深められたり、「何の話題でこんな動きになるのだろう?」といった疑問がわいたりします。皆さんもぜひ、お家にいる方はのびのびと、展示室でご覧くださる方はこっそり小さく試してみて、明治時代の演説習得に四苦八苦した人々へ思いを馳せていただければ幸いです。

(山下 春菜・当館非常勤学芸員)

ページトップに戻る