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戦国大名北条氏歴代当主の判物―北条氏によって守られた「須崎大慶寺分」―
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2024年11月の逸品
戦国大名北条氏歴代当主の判物―北条氏によって守られた「須崎大慶寺分」―
[図版 上]
資料名:北条氏康判物
作成年月日:天文16年(1547)11月21日付
[図版 中]
資料名:北条氏政判物
作成年月日:永禄9年(1566)7月22日付
[図版 下]
資料名:北条氏直判物
作成年月日:天正12年(1584)12月12日
展示場所:常設展3階(テーマ2)
展示期間:~2024年11月29日(金)予定
今月は帰源院文書(きげんいんもんじょ)に含まれる戦国大名北条氏の三代氏康・四代氏政・五代氏直の判物(はんもつ)をご紹介します。この3通の古文書から北条氏による帰源院への寺領の寄進と保証についてみていきます。
文書を伝えてきた帰源院とは、鎌倉五山第二位の円覚寺(鎌倉市・臨済宗)の塔頭(寺院内の小寺院)です。臨済宗仏源派の塔頭として南北朝時代に創建され、戦国時代に至り北条三代氏康によって再興されたと伝えています。北条氏は円覚寺の塔頭の中でも、とりわけ帰源院に対して所領の寄進と保護を行いました。寺院の名称は当初「帰源庵」で、安永9年(1780)に「帰源院」へ改められましたが、ここからは古文書の表記に合わせて「帰源庵」と記述していきます。
それでは北条氏歴代当主の文書について、それぞれの作成年次とその背景事情に注目してみていきましょう。
1 天文16年(1547)11月21日付北条氏康判物
北条三代氏康が養竹院(埼玉県川島町・臨済宗)の住職で仏源派に属する奇文禅才(きもんぜんざい)に対し鎌倉での在寺を求め、須崎大慶寺分の土地(鎌倉市寺分)の寄進を約束したものです(図1)。この氏康による奇文の鎌倉への招へいが帰源庵再興につながっていきます。
今回寄進の対象とされた須崎大慶寺分とは、鎌倉の須崎に所在した大慶寺周辺の寺領を指すものとみられます。同寺は仏源派ゆかりの寺院で「関東十刹」という鎌倉五山に準ずる格式を誇りましたが、この時はすでに荒廃していたようであり(「大慶寺本尊銘札」)、その寺領を寄進するというものでした。土地の規模としては永禄2年(1559)の時点で47貫文相当であったと記録されています(『小田原衆所領役帳』)。
2 永禄9年(1566)7月22日付北条氏政判物
北条四代氏政が帰源庵に対し、氏康の証文の内容のとおり須崎大慶寺分の土地を寺領として認め、保証したものです(図2)。この時の宛名は帰源庵となっており、奇文が鎌倉に拠点を移していたことが分かります。
本文書は先の証文の内容の通りに権利を保証するという内容のため、北条氏当主の代替わりに際して作成されたと考えたくなります。ところが、氏政の家督相続は永禄2年(1559)で、文書作成時点とは数年の開きがあります。何か別の理由があったと考えた方がよさそうです。
その理由を考えるための材料が、鎌倉代官であった大道寺資親が同年8月朔日付で作成した書状(図3)です。氏政判物の副状として作成されているためその内容を踏まえた文面となっていますが、それに加えて「御寺中似合之修造」が重要だと述べています。この記述は文書作成の3年前に円覚寺で発生した大火災を踏まえたものでしょう。同寺ではこの火災により山門、仏殿、開山塔のほか多くの建物が炎上したと伝えられており、その再建が課題となっていました。寺院再建の財源確保のため、改めて氏政は同寺の塔頭である帰源庵の所領を保証したものと考えられます。
3 天正12年(1584)12月12日付北条氏直判物
北条五代氏直が氏康や氏政の証文の内容のとおり、須崎大慶寺分の土地を寺領として認め、保証したものです(図4)。宛名は帰源庵となっています。この時の住持は、同庵を奇文から受け継いだ希叟是罕(きそうぜかん)もしくは雲如梵意(うんじょぼんい)のいずれかと考えられます。
作成主体である氏直の家督相続が天正8年(1580)ですから、同12年の年紀を持つ本文書は、先にみた氏政判物と同様、北条氏当主の代替わりに際して作成されたものとみることはできません。改めて、同日付の北条家朱印状(図5)の存在から文書作成の背景を探っていきましょう。こちらは須崎大慶寺分において山林竹木の伐採を禁止し、その資源保護を認めたものです。日付の部分には氏直が認可したことを示す虎の朱印が押されています。
本状は、帰源庵住持が北条家重臣の板部岡江雪斎を介して権利の認定と文書交付の申請を行い、氏直からそれを認められたため作成されたものです。そのため、氏直判物についても朱印状に合わせて同庵住持が交付申請したものと考えられるでしょうか。
4 その後の「須崎大慶寺分」
これまで見てきたように、北条氏歴代当主は帰源庵に対して所領の寄進を行い、またその保護を認めてきました。なかでも氏政、氏直は当主代替わりに際して機械的に対応したわけではなく、同庵からの要請に応じて文書を作成しています。その時々の寺院側の事情に合わせて北条氏が丁寧に対応していた様子をうかがうことができるでしょう。
しかし、両者の良好な関係は、天正18年(1590)の北条氏滅亡によって終わりを告げました。北条氏に代わって新たな支配者となった豊臣(羽柴)秀吉は、鎌倉の鶴岡八幡宮、建長寺(鎌倉市・臨済宗)、円覚寺、東慶寺(鎌倉市・臨済宗)の所領の検地を命じます。その結果、円覚寺と塔頭の所領は山内村(鎌倉市山内)と極楽寺村(鎌倉市極楽寺)に集められ、整理されました。帰源庵の所領であった須崎大慶寺分も江戸時代には幕府領、のちには旗本領に切り替えられたことが分かっています。
支配者が入れ替わったこの地は、いつ頃からか「須崎大慶寺分」にちなんで「寺分」と呼ばれるようになりました。また、同地には江戸時代に大慶寺が再建され、現在でもその境内周辺は緑が生い茂っています。もしかすると北条氏が同地で山林竹木の保護を認めたおかげかもしれません。
(梯 弘人・当館学芸員)
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