展示

【テーマ1】原始・古代「さがみの古代に生きた人びと」

常設展示 古代「さがみの古代に生きた人びと」

※常設展の展示物は随時入れ替えを行っています。下記で紹介している資料が展示されていない期間もありますので、ご了承ください。

海や山などの豊かな自然、温暖な気候に恵まれた神奈川県域には、古くから人々が住み、生活を営んできました。

かながわの地に初めて住みついた人々は、身の回りにある豊かな自然環境を生活の中に巧みに取り込みながら、動物の狩猟、木の実や野草の採取により生活していました。やがて土器が使用されるようになる頃には、海や川での漁撈も活発となり、東京湾、相模湾や内陸の河川では水産資源も多用されたようです。その後、大陸から稲作技術が伝わると農耕を中心とした生活へと変化します。農作業の管理、作物の貯蓄などによる特定の人物への権力集中が進む中で階級社会が生じ、地域ネットワークを統率するリーダーが誕生します。

やがて遠く西の地で古代国家が出現し律令国家体制が成立すると、かながわの地もそれに組み込まれ新たな社会変化が生じます。大陸からは仏教が伝わり、時代は中世へと流れてゆきます。

本展示室では、県域にのこされた集落址、貝塚、洞窟住居、古墳、横穴墓、寺院址など多くの遺跡からの出土品を中心に、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代、平安時代のかながわの様子を展示しています。

展示内容

大地に生きる狩人 ―旧石器時代―

神奈川県域に人々が暮らすようになったのは今から約38,000年~約36,000年前の頃と考えられています。石を素材としたナイフや槍などの道具を多用し狩猟や採集により日々の食料を得ていました。人々は獲物たちの動きとともに遊動する生活スタイルで、しっかりとした家を建てることは少なかったようですが、相模原市では全国的にも珍しい旧石器時代の住居跡が見つかっています。

一言に石器と言っても、様々な種類の石を使い分け、その性質を巧みに道具作りに活かしています。素材となる石には遠く離れた場所から得られるものも含まれ、当時のネットワークの広域さをうかがうことができます。緻密な仕上げによって作られたキラキラ輝く石器も見どころです。たかが石ころと言わず、ぜひ目を凝らして見てみてください。

海への進出 ―縄文時代―

約16,000年前になると、日本列島で土器が使われるようになります。また竪穴住居での居住が一般的となり一定期間を集落で暮らすようになると、より身近な資源利用も活発になったようです。また狩猟や植物採集に加えて、東京湾や相模湾、河川流域では魚や貝などの採取活動が盛んになりました。最近では、マメなどの栽培も少なからず行われていたことが明らかになりつつあります。

人面把手

顔面把手 横浜市栄区公田ジョウロ塚遺跡出土

縄文時代の大きな発明の一つ、粘土を焼いて作る様々な造形。縄文土器は主に煮炊きに用いられた鍋ですが、その表面には粘土を盛ったり窪ませたり線を引いたり、多彩な模様が描かれています。また粘土で作られた土偶たちのあどけない表情も見逃せません。

米づくり、はじまる ―弥生時代―

稲作農耕は約2500年前に大陸から九州北部へ伝わり、全国各地に広まりました。稲作農耕を中心とした生活は、食糧の変化だけでなく、人々の季節感や価値観、さらには人間関係や集落関係なども大きく変化させたことでしょう。人口は増大し定型的な集落も出現しました。稲作農耕に用いるための木製農具に加え、鉄器、青銅器などの金属製の道具も大陸からもたらされ、列島内で独自に発達しました。

卜骨 三浦市間口洞窟遺跡出土
神奈川県指定文化財

三浦半島の間口洞窟遺跡からは、吉兆を占うために用いられた鹿の骨―卜骨(ぼっこつ)―が、1971年~1975年にかけて当館が行った発掘調査により発掘されました。骨を焼く占い―骨卜―は現在でもわずかに行われていますが、それが弥生時代まで遡りうることを初めて実際の資料で示した考古学研究史上の貴重な資料です。

古墳を築く ―古墳時代―

弥生時代に出現したリーダーたちが各地域を統率しつつある頃、地面に高く土を盛った墓―古墳―が日本列島各地で築かれるようになります。神奈川県域でみられる初期の古墳は鶴見川、相模川地域に集中し、農耕地の開拓が河川に沿って進められたことを示しているようです。古墳は、地域の豪族の権威や他地域の豪族とのつながりを示すものでした。

馬形埴輪 三浦市向ヶ崎町大椿寺古墳出土

家の形や馬の形をした埴輪たち。埴輪は古墳に葬られた人を弔い、死後の世界をまつるためのお供えものです。はじめはシンプルな筒形が作られるのみでしたが、だんだんと形のバリエーションが生じ、動物や人物、家などが形作られるようになります。写実的とも抽象的とも受け取られるような、独特な表情も目を引きます。

都とさがみの国 ―奈良・平安時代―

7世紀後半になると、唐の律令制度にならい日本列島でも天皇を頂点とした中央集権の政治制度が整えられました。国土は68カ国に分けられ、現在の神奈川県域は相模国と武蔵国の一部でした。また仏教が大陸からもたらされ、都を通じて神奈川の地にも伝わってきます。海老名には相模国分寺が建立されました。しかし、それ以前の在地の信仰も人々の間には残っており、多様な姿が見られます。

古代には小さな金銅製の仏像がたくさん造られます。これらを携帯することで、いつでも仏さまを拝むことができます。表面には金メッキが施されており、造られた当初は金ピカだったことでしょう。相模国の役所跡周辺で発掘されたことから、役人が肌身離さず持っていたのでしょうか。愛らしいお顔にも注目です。

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