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曽我一族の中世

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2021年1月の逸品

曽我一族の中世

曽我一族の中世

29.3㎝×40.2㎝

―新収蔵:暦応二年(1339)六月六日「曽我師助書下」の紹介―

はじめに
 相模国の武士・曽我氏といえば、『曽我物語』であったり、さらに能や歌舞伎、浮世絵の題材になるなど、非常によく知られた武士でしょう。しかしその曽我一族が、鎌倉時代以降の南北朝・室町期、さらには戦国期も存続していたと聞いたら、意外と思われるのではないでしょうか。今回の逸品では、そんな知っているようで実はあまり知られていない曽我一族にスポットを当てつつ、今年度当館で新規に収蔵した中世文書についてご紹介していきます。

1 「物語」のなかの曽我氏
 鎌倉幕府の成立は、鎌倉殿である源頼朝に従った御家人たちの尽力なくして、成しえることはできませんでした。しかしその一方、幕府創設の過程で、あるいは創設後に発生したさまざまな政争によって、こうした御家人たちが失脚していったことも、また事実です。頼朝を支えた有力御家人の上総広常や畠山重忠、和田義盛が滅ぼされていったことをご存じの方も多いでしょう。鎌倉幕府の成立という、一般には武士の時代の到来や、御家人たちの栄光の歴史として理解されやすいこうした政治過程の背後には、滅び去っていった多くの御家人たちが存在しました。
 『曽我物語』において、富士野の巻狩で敵討ちを果たす曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟の場合も例外ではありません。彼ら兄弟の父親である伊豆国の御家人河津三郎(伊東祐親の嫡子)は、伊東荘の土地をめぐって訴訟を繰り広げていた同族の工藤祐経の手により殺害されてしまいました。その後、土地を失い未亡人となった河津の妻は、相模国の御家人曽我祐信と再婚しました。前夫との間にもうけた二人の幼い兄弟は、母に連れられて相模国曽我荘に移り住んでいくこととなりました(図1 曽我物語絵巻(当館所蔵))。一方の工藤祐経は、伊東荘を獲得し、さらに彼自身の京都で身に着けた京ぶりの教養も手伝ってか、源頼朝に重用されて有力御家人にのし上がっていきました。敵である祐経は、河津氏の没落とは対照的に、鎌倉幕府の創設過程で成功を遂げていくのです。やがて成長した曽我祐成・時致の兄弟は、建久四年(1193)に催された源頼朝主催の富士野の巻狩の機をうかがい、参加していた祐経を殺害し敵討ちを遂げます。その後、兄の祐成はその場で討ち取られ、弟の時致は捕らえられ処刑されました。
 曽我兄弟による敵討ちの顛末は大略以上の通りですが、彼らの物語は多くの人々の共感を呼び、兄弟と所縁の深い箱根権現や伊豆山権現などで語られるようになり、やがて『曽我物語』として流布しました。また物語には、曽我兄弟の支援者や関わりの深い存在として、和田義盛や畠山重忠も登場します。みな、初期鎌倉幕府の政争のなかで滅んでいった人々です。『曽我物語』は、こうした御家人たちの非運を描き、そして鎮魂を目的としたものだったのかもしれません。曽我兄弟は、その短い生涯を富士野の巻狩で閉じることとなりましたが、その存在は「物語」として時代を超えて人々の記憶に刻まれることとなりました。

2 「歴史」のなかの曽我氏と新収蔵史料
 ただし、曽我兄弟の死をもって、曽我氏自体が完全に滅亡したわけではありません。彼ら兄弟の義父である曽我祐信を見てみましょう。富士野での敵討ち勃発後、祐信にも幕府から嫌疑がかけられましたが、兄弟への協力の証拠がなく処分を受けることはありませんでした。その後、『吾妻鑑』(鎌倉幕府の正史)にみえる祐信は、例えば源頼朝が参詣などで外出する際、他の御家人たちとともに付き従うなど、御家人として勤仕した様子が認められます(図2 曽我祐信宝篋印塔(小田原市曽我))。また、祐信の子である祐綱も頼朝の上洛に付き従っています。曽我氏の御家人としての活動は、鎌倉期以降も続いているのです。承久の乱以降は、西国方面の土地を獲得して京都で活動する曽我一族と、都市鎌倉にて得宗被官(北条氏嫡流の被官人、史料用語としては「御内人」)として活動する曽我一族に系統が分化し、後者の一族は、陸奥国に所領を得て、奥州方面にも活動の場を広げていきます。
 鎌倉幕府が滅亡し南北朝内乱の時代となると、足利尊氏方として活躍する曽我一族(祐綱の系譜を引く一族)が登場します。それが曽我師助という人物です。師助は一貫して足利尊氏方に付き従い、さらに実名からも推測されるように、尊氏方の高師直の「師」の字を付した可能性が高いです。この師助の系統は室町幕府成立以後も存続し、足利将軍家の近習や奉公衆を勤め戦国時代以降も系譜を保っていきます。
 さて、当館では今年度新たに暦応二年(1339)六月六日「曽我師助書下」を収蔵することになりました(図3)。以下に釈文を掲出します。

[釈文]
近江國多賀社神主職事、任亡父資盛譲状、子息菅(野)乙鶴丸可令領掌之状、如件、

  暦應貳(1339)年六月六日

          (花押)(曽我師助)

上記の史料は、暦応二年(1339)の年紀を持つ曽我師助の文書です。内容は、近江多賀社の神主職について、神主資盛が死去したことに伴い、子息の菅野乙鶴丸に同職の相続を認める旨を記しています(乙鶴丸の名字は、延慶二年正月二十日「沙弥某施行状」(『多賀神社文書』)にて「菅野夜叉丸」(資盛か)が神主職に補されているため「菅野」としました)。史料中の「多賀社」は近江国犬上郡に立地する多賀大社のことで、おそらく当時の曽我氏は当該地域に地頭職などなんらかの権益を有していたのでしょう(なお観応二年(1351)八月に、曽我師助は近江国守山郷の地頭職を料所として足利尊氏から預け置かれています。鎌倉期の多賀社領は得宗領であったため、得宗被官の曽我氏の系統が絡んでいたかと考えられます。)。
 もともと本史料は、足利尊氏御判の文書として多賀大社の「大神主手鏡記」という古文書を筆写した記録にのみ残されていました。この度、原本が登場したことで、文書に記された花押が尊氏ではなく曽我師助その人のものであることが分かったのです。ゆえに本史料は新出史料といっても差し支えないでしょう。本史料は文書の地の折筋箇所を中心に全体的に痛みが激しいものの、師助自身が記した花押の形式からも興味深い内容をくみ取れるのではないでしょうか。実はこの花押、足利尊氏をはじめとした室町幕府将軍家の足利様花押(全体的に台形のような形になる花押)を意識した形姿をしているのです。これは、師助一族が室町期には足利将軍家の近習を勤め、師助自身も高師直と関わりの深かったことと無関係ではないでしょう(もちろん、当該期の足利方に従ったそのほかの武士たちも、足利様をまねた花押にする事例が多く認められます)。
 本史料から、南北朝期における曽我一族の西国方面での活動、また室町幕府将軍家に仕えながら成長を遂げていく様子など、興味深い内容を多く読みとることができます。曽我一族の「歴史」に着目してみれば、「物語」の曽我氏とは違った、したたかに生き残っていく曽我一族の姿をみることができるのではないでしょうか。なお、本史料の紹介については、さらに検討を加えたうえで別にまとめて公表する予定ですが、まずは速報的にご紹介させていただいた次第です。

おわりに
 曽我一族について、「物語」と「歴史」という二つの切り口から述べてきました。鎌倉幕府の政争で滅ぶ御家人たちも、実は別の一族や兄弟などが生き残って命脈を保っている場合がほとんであったりします。著名な曽我兄弟も、一般的には兄弟の事跡ばかり注目されますが、曽我氏自体の動向が一般に知られているかというと、そうではないでしょう。この場を通じて、曽我一族に少しでも興味を持っていただけたら幸いです。(渡邊浩貴・当館学芸員)

【参考文献】
・苅米一志「西国における曽我氏の所領と文書」『就実大学史学論集』33、2018年
・坂井孝一『曽我物語』山川出版社、2005年
・湯山学『相模武士 四』戎光祥出版、2011年

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