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三浦市間口洞穴遺跡(みうらしまくちどうけついせき)と神奈川県立博物館の発掘調査
ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。
2021年2月の逸品
三浦市間口洞穴遺跡(みうらしまくちどうけついせき)と神奈川県立博物館の発掘調査
県立歴史博物館の前身である県立博物館は、1967年に開館しました(ここでは、両館をあわせて当館と言います)。今でこそ、開発に伴う大規模な発掘調査が全国で実施され、膨大な出土資料が蓄積されていますが、当館が開館した頃、発掘調査は全国でも少なく、まとまった資料もあまりありませんでした。博物館として活動するには、展示するにも研究するにも資料が必要です。そのため、当館の考古分野では開館から20年程の間、断続的に発掘調査を実施してきました。不足していた館蔵資料の充実に加え、県内各地で発掘を行うことで地域的な研究も推進しようと試みたのです(註1)。そのような中で、三浦半島の南端にある間口洞穴遺跡でも調査が行われることになりました。
三浦半島の海岸には、波の浸食によって作り出された自然の洞穴である「海蝕洞穴」(かいしょくどうけつ)が多数存在しています(図1:海蝕洞穴が散在する三浦半島の海岸[2010年撮影])。それらの中には過去の人々が利用した痕跡が残されていることもあります(図2:三浦半島の洞穴遺跡分布図)。間口洞穴はその一つで、戦前から三浦半島をフィールドにして考古学的調査をしていた赤星直忠さんが率いる横須賀考古学会によって、1949~1950年に発掘調査が行われました。(赤星さんは当館の嘱託も務めていました。)その際の調査では、洞穴内に堆積した土から弥生時代、古墳時代、奈良時代、鎌倉時代、江戸時代の遺物等が出土し、間口洞穴が複数の時代の人々に利用されていたことが明らかになりました。中でも、弥生時代の堆積層からは、「骨卜」(こつぼく)に用いられたと考えられる、点々と焼け跡が残る鹿の肩甲骨や肋骨(図3:赤星さんの調査で出土した卜骨)が見つかり大きな注目を集めました。
骨卜は日本列島で古来より執り行われてきた祭事と考えられており、3世紀末に記されたとされる「魏志倭人伝」(中国の歴史書『三国志』に含まれる「魏書」東夷伝倭人条の通称)や8世紀前半に編まれた『古事記』や『日本書紀』に、その様子が記録されています。「魏志倭人伝」には「挙事行来有所云為輙灼骨而卜以占吉凶」(どこへ行くにも何をするにも骨を焼いて占う、というような意味)とあり、骨を焼く吉凶占いが頻繁に行われていたことがうかがわれます(註2)。また『古事記』の「神代巻天岩屋戸条」では、「天の香山の眞男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天の朱桜を取りて、占合いまかなはしめて」とあり、鹿の肩甲骨が占いに用いられていたことがわかります。「太占」(ふとまに)とも呼ばれる祭事です(註3)。
文字で記されたこのような風習を、実際の出土遺物で初めて確認し、それが弥生時代中期(今からおよそ2,000年前)にまでさかのぼることを明らかにしたのが、赤星さんら横須賀考古学会による間口洞穴での発掘調査でした。
当館の発掘調査は、横須賀考古学会の調査成果を踏まえ、間口洞穴での過去の人々の活動をさらに詳細に検討するため、1971~1973年に5回にわたり実施されました。当館の初代考古担当学芸員の神沢勇一さんが中心となり、神沢さんとともに考古分野を担当していた学芸員の川口德治朗さんも加わりました。
この調査でも、弥生時代中期から後期の堆積層から多数の卜骨が出土したことに加え(図4:卜骨の出土状況)、古墳時代後期の堆積層からはアカウミガメのお腹の甲羅を用いた占い道具「卜甲」(ぼっこう)も国内で初めて発見されました(図5、図6、図7:卜甲とその出土状況)。亀の甲羅を焼く占いは「亀卜」(きぼく)と呼ばれ、天皇家の儀式や国家的な事柄に関する占いの風習とされています(註4)。その風習の系譜が古墳時代後期にまでさかのぼり得ることを初めて示した出土事例となりました。
1972年には、間口洞穴遺跡での発掘調査成果を速報的に紹介した「テーマ展 海蝕洞窟遺跡―三浦市間口遺跡・海に生きた古代人の生活と文化―」が開催されました。学芸員の川口さんは、この展示を振り返る中で、卜甲の発見をこう記しています。「発掘調査による初めての発見例で、私の竹べらの先で取り上げたのですが、これが何であるか、かいもく見当がつきませんでした。報告書より先に、この展覧会で紹介したのですが、見学者から大変注目され、胸が高鳴ったことを憶えています」(註5)。
卜骨、卜甲以外に多数出土し注目されるのが、アワビの貝殻を打ち欠いて加工した道具です(図8:アワビの貝殻で作られた「貝包丁」)。横須賀考古学会による調査で国内で初めて発見され、赤星さんが「貝包丁」(かいぼうちょう)と名付けました。名前の由来は、稲の穂積みの道具と考えられている弥生時代の石の道具「石包丁」(いしぼうちょう)と形が似ていることのようです。当館による調査でも、弥生時代中期から後期の堆積層より貝包丁が大量に出土しました。
ただ、貝包丁の用途は未だによく分かっていません。赤星さんは、石包丁との形の類似から穂積みの道具として内陸の集落と交換するためのものと考えました。それに対し、当館学芸員の神沢さんは異論を唱えます。神沢さんは貝包丁に残された細かな使用痕跡から、これが海藻を摘むための道具ではないかと考えました。海藻は製塩の材料に用いることを想定していたようです。ただ、いずれも決定打がなく、なんとも判断しがたいのが現状です。
貝包丁は間口洞穴遺跡だけでなく、三浦半島の海蝕洞穴遺跡から多く見つかっています。今後、それらとの比較も行いながら研究を進めていくことで、新たに見えてくる視点があるかもしれません。
ここでは全部を紹介し切れませんが、これら以外にも間口洞穴遺跡からは多くの貴重な発見がありました。横須賀考古学会による調査の出土資料の一部は、当館が県立博物館として開館する際にご寄贈いただき、当館の重要な資料となっています。それらの資料と当館による発掘調査出土資料は、三浦半島に特徴的に分布する海蝕洞穴遺跡特有の資料群として、2001年に県指定重要文化財に指定されました。
当館の発掘調査から今年で50年、赤星さんら横須賀考古学会による発掘調査からは70余年が経ちました。しかし、現在でもまだまだ分からないことが山積みです。今日的な研究成果を踏まえ、改めて間口洞穴遺跡に向き合ってみたいと思っています(図9:2021年の間口A洞穴の様子)。(千葉 毅・当館主任学芸員)
註1:2018年に刊行された『神奈川県立博物館・神奈川県立歴史博物館 50年のあゆみ』に、これまでの考古分野の活動概要が記されています。ぜひご参照ください。
https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/KPM50small.pdf
また、当館が行った発掘調査の報告書もすべてインターネットで公開されています。ぜひご活用ください。
全国遺跡報告総覧「神奈川県立博物館発掘調査報告書」
註2:国営吉野ヶ里歴史公園が運営するウェブサイト「弥生ミュージアム」で「魏志倭人伝」の概要を画像とともに見ることができます。
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/index.html
註3:現在では、武蔵御嶽神社(東京都青梅市)と一之宮貫前神社(群馬県富岡市)でのみ、一年の農作物の実りを占う祭事として毎年1月3日に同様の神事が行われています。武蔵御嶽神社のウェブサイトでは「太占祭」が紹介されています。
http://musashimitakejinja.jp/sairei/futomani/
註4:東アジア恠異学会編2006『亀卜―歴史の地層に秘められたうらないの技をほりおこす』臨川書店 などを参照しました。
註5:神奈川県立歴史博物館編2018『神奈川県立博物館・神奈川県立歴史博物館 50年のあゆみ』の85ページに掲載されています。
https://ch.kanagawa-museum.jp/uploads/KPM50small.pdf
参考文献:
神沢勇一「貝庖丁に関する二三の考察」『神奈川県立博物館研究報告―人文科学―』3巻 1970年
https://sitereports.nabunken.go.jp/71048
神沢勇一「貝庖丁の再検討―神奈川県三浦市間口洞窟遺跡出土例を中心に―」『神奈川県立博物館研究報告―人文科学―』9巻 1981年
https://sitereports.nabunken.go.jp/71052
神沢勇一「日本における骨卜、甲卜に関する二三の考察―先史古代の卜骨・卜甲と近世以降の諸例との比較検討を中心に―」『神奈川県立博物館研究報告―人文科学―』11巻 1983年
https://sitereports.nabunken.go.jp/71054
國分篤志「弥生時代~古墳時代初頭の卜骨―その系譜と消長をめぐって―」『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』276、千葉大学大学院人文社会科学研究科 2014年
http://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900118039/
中村 勉『海に生きた弥生人―三浦半島の海蝕洞穴遺跡―』シリーズ遺跡を学ぶ118、新泉社 2017年
横須賀考古学会編『三浦半島考古学事典』横須賀考古学会 2009年
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