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上白根遺跡出土の火葬骨蔵器(かみしらねいせきしゅつどのかそうこつぞうき)

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2021年3月の逸品

上白根遺跡出土の火葬骨蔵器(かみしらねいせきしゅつどのかそうこつぞうき)

上白根遺跡出土の火葬骨蔵器(かみしらねいせきしゅつどのかそうこつぞうき)

上:【図1】長形甕 高26.2㎝、口径21.5㎝ 9世紀前半(横浜市旭区 上白根遺跡)
下:【図2】長形甕 高37.8㎝、口径25.0㎝ 9世紀前半(横浜市旭区 上白根遺跡)

 日本における火葬の初見記事は、『続日本紀』の文武天皇4(700)年3月己未(10日)条です。この日、道昭和尚(注1)が72歳で亡くなりましたが、弟子たちは和尚の遺志に従い亡骸を火葬しました。同日条には「天下火葬従此而始也」とあり、文献上ではこの道昭和尚の火葬がわが国での最初の火葬であるとされています。引き続き『続日本紀』には、大宝3(703)年12月癸酉(17日)条に、前年に崩御した太上天皇(持統天皇(注2))を飛鳥岡で火葬した記事がみられます。これが天皇を火葬した最初の事例です(注3)。なお遺骨は、同月壬午(26日)条に夫である天武天皇の陵である大内山陵(注4)に合葬したと記載されています。一方で、当時の火葬の具体的な様相は出土資料から窺い知ることができます。奈良県香芝市で出土した金銅製骨蔵器は、慶雲4年(707)に没した威奈大村という官人のものであることが表面の銘文からわかります。また天理市岩屋町で出土した骨蔵器は、中に銀製の墓誌が納められており和銅7年(714)に没した佐井寺の僧道薬のものでありました。さらに骨蔵器ではありませんが、木櫃の中に火葬骨とともに銅製の墓誌が、奈良市此瀬町で昭和54年(1979)に見つかっています。銘文から、この墓が養老7年(723)に没した『古事記』の編者である太安萬呂であったことが判明し、当時マスコミに大発見として取り上げられました。
 このように、8世紀になると火葬の風習が都城を中心に広まり、官人層に普及していった様子がみてとることができるでしょう(注5)。なお律令においても、行軍の兵士や防人が行路中に亡くなった場合は、その地で焼き埋めるよう規定されています(注6)。そして火葬の風習は、早くに全国へも伝播し、各地で8世紀以降の火葬骨蔵器が見つかっています。

 さて今回紹介する火葬骨蔵器は、横浜市旭区の上白根遺跡で発見された二点です。本資料は考古学的な調査によって出土したものではなく、畑を耕作中に偶然発見されました。そのため二点の出土関係は不明ですが、発見当初は火葬骨が満たされていたといいます。二点ともに薄手の土師器(はじき)の長形甕(ちょうけいがめ)で、一点は高26.2㎝、口径21.5㎝(図1)で、もう一点は高37.8㎝、口径25.0㎝と少し大きめの土器(図2)です。二点ともに、日常的に使用される甕であり、おそらく使用後に骨蔵器に転用されたものと思われます。土器の年代観は、ともに9世紀前半と考えられます。また他の事例から推して、現在は失われていますが須恵器の蓋が付いていたのではないかと思います。なおその被葬者ですが、都城のように墓誌などが共伴すれば明らかになりますが、地方ではそういった事例がないことから、それを比定することはなかなかできません。おそらく地方官人クラスの有力豪族、あるいは9世紀以降になると有力農民層も含まれたのではなかったかと思われます(注7)。
 上白根地域は、鶴見川の支流である恩田川と帷子川に挟まれた丘陵に位置しますが、同じように小河川が流れる丘陵では、県内でも火葬骨蔵器が見つかっています。特にそれが顕著にみられるのが、現在の川崎市域で、多摩川の支流である平瀬川や五反田川、あるいは鶴見川支流の矢上川や有馬川の各流域にみてとることができます。これら各流域では上白根遺跡と同じように土師器の甕を転用した骨蔵器もあれば、薬壺(やっこ)形をして最初から骨蔵器として製作されたのではないかと思われる灰釉(かいゆう)の短頸(たんけい)壺、あるいは須恵器の壺に三本の獣脚が付けられたもの(注8)など特徴ある火葬骨蔵器が発見されています。いずれの火葬骨蔵器も小河川が流れる丘陵地で見つかっており、当時の埋葬のあり方、あるいは人々の葬送地に対する意識を考える上で興味深いところです。

 さて火葬というと、仏教的な思想・風習として一般には捉えられます。しかし実際日本に仏教が公伝されたのは西暦538年といわれ、一方で道昭和尚の火葬は700年であったことから、160年ほど歳月が経った後に火葬が始まったことになります。ただ当初の仏教は教義を学ぶ学問でした。また6世紀段階では、いまだ伝統的な古墳造営が葬送の主流であり、火葬が普及するまでには至らなかったものと考えられます。そして7世紀段階で唐に渡った学問僧らにより、大陸における火葬の風習がより具体的に伝わり、その最初の実践例が道昭和尚であったのではないかと思われます。さらに孝徳朝の大化2年(646)に出されたとする薄葬令、すなわち皇族から庶民に至るまで身分に応じた墓の規模や葬送儀礼の簡素化が、火葬への移行に影響を与えたともいわれています。例えば、元明太政天皇が崩御する前の遺詔の中に「厚葬破業、重服傷生、朕甚不取(注9)」とあるように薄葬を望み、火葬の地を墓とし常緑樹を植えて墓碑とすること、官人らは日常業務を行い、葬具は簡略にするようにといった具体的な内容を述べています。このように、日本における火葬は仏教とともに7世紀後半以降の薄葬といった思想がベースにあり、さらに唐や新羅などといった大陸文化の影響もあったのではないかと考えられています。

 以上、今回は当館所蔵の火葬骨蔵器とともに、古代における火葬について少し紹介しました。官衙遺跡や集落遺跡から出土する木簡や墨書土器といった出土文字資料は、地域の古代史を考える上で貴重な資料となっています。一方で火葬墓も、その分布や埋葬方法など葬送儀礼のあり方などから、地域における古代人の生活や死生観、被葬者などを考える上で、重要な手がかりを与えてくれる資料といえるでしょう。 (望月 一樹・当館学芸部長)

注1:道昭は、白雉4年(653)入唐僧として唐に渡り玄奘三蔵のもとで法相教学を学び、帰国後は行基などの弟子を育てた高僧です。晩年には諸国を行脚し橋を架けるなどの土木事業を行ったといわれています。

注2:持統天皇は天智の娘で、天武の皇后となる。天武天皇崩御後、皇位継承者である草壁皇子が薨去(こうきょ)し、草壁の子である軽皇子(後の文武天皇)が幼かったことから、急遽天皇として即位しました。

注3:天皇の火葬については『続日本紀』では、持統天皇に続き文武天皇が飛鳥岡で火葬され(慶雲4年11月丙子(12日)条)、元明太上天皇は大和国添上郡蔵宝山雍良岑(さほやまよらのみね)で火葬することを遺詔し(養老5年10月丁亥(13日)条)、また元正太上天皇が佐保山陵で火葬されたこと(天平20年4月丁卯(28日)条)が記載されています。

注4:『延喜式』諸陵式には、檜前大内山陵とあります。考古学的には野口王墓と呼ばれている古墳で、奈良県明日香村に所在します。墳丘は八角形の形状をしています。この山陵については、鎌倉時代に記された『阿不幾乃山陵記』という記録があり、本書によれば石室内には天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん〔麻布を漆で貼り重ねた棺〕)と持統天皇の銀製の骨蔵器が納められていたとあります。

注5:なお考古学の調査では、弥生時代の遺跡で焼骨が発見されており、火葬が行われたのではないかといわれています。(長崎県大村市:竹松遺跡)

注6:軍防令行軍兵士条および防人番還条

注7:仏教説話集である『日本霊異記』の記載をみると、僧侶や男性のほか女性の火葬例もあります。ただし「富める人」などといった富裕層や、郡司の妻女といった人物が火葬の対象であったようです。

注8:現在の宮前区有馬で発見。獣脚の先端は五指を刻んで表しています。なおプロポーションは異なりますが、同様に獣脚が付けられた火葬骨蔵器が東京都昭島市でも発見されています(レプリカを展示中)。

注9:同様の言葉は、前漢の文帝の遺詔の中に同文があり(『漢書』文帝紀)、そこからの引用と考えられます。文帝は民生の安定を目的に薄葬などの施策を推進しました。

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