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海岸線は国境(くにざかい) ~江梨鈴木家文書(えなしすずきけもんじょ)からみた海上交通~

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2021年4月の逸品

海岸線は国境(くにざかい) ~江梨鈴木家文書(えなしすずきけもんじょ)からみた海上交通~

海岸線は国境(くにざかい) ~江梨鈴木家文書(えなしすずきけもんじょ)からみた海上交通~

上:北条家法度書
  発行年月日:元亀4年(1573)7月16日
  本紙:30.4×40.0cm
下:北条家朱印状
  発行年月日:天正2年(1574)7月10日
  本紙:30.6×40.9cm

(2021年5月18日まで展示)

はじめに
 小田原北条氏の領国は、海に面しており、海が国境として機能していました。当館に所蔵される江梨鈴木家文書には、そうした状況が分かる古文書が存在します。まずその文書を伝えた鈴木家についてご紹介しましょう。鈴木家は伊豆国田方郡江梨(静岡県沼津市)を本拠として活動した武士でした。江梨は駿河湾が伊豆半島に入り込んだところの入り口にあたる、海に面した村でした。今回は、そのような地域で活動した、鈴木丹後繁定(すずきたんごしげさだ)に宛てられた文書を紹介します。

1 史料の内容について
[1] 北条家法度書
 この史料(図1)は、癸酉(みずのととり)(元亀4年〔天正元年〕・1573)7月16日付で江梨五ヶ村を対象として鈴木丹後宛に発行された、北条氏による法度です。一番左に宛名が記され、その右に発行年月日が記されています。発行年月日の部分には、北条氏当主が使用できる公式の印である「虎印判」が押されています。そのためこの文書は、北条氏による命令であることが分かります。発行年月日の下には命令伝達の担当者の署名がありますが、「石巻左馬允(いしまきさまのじょう)」は、石巻康敬(いしまきやすまさ)という北条氏当主の側近家臣として小田原城に詰めていた家臣でした。文書の紙の使い方は、1枚の紙を折らずにそのままの形で使っている「竪紙(たてがみ)」と呼ばれる様式で作成されています。
 内容は、次のとおりです。

  1. 人を船に乗せて他国へ送り届けることを禁止する。特別に渡航を許可された者は虎印判状を持っているので、よく確認すること
  2. 他国の船が江梨に着岸した時には、船の大小によらず取り押さえて、報告すること。もし報告せず露見した場合は、現地の責任者を処罰する
  3. 「商売のため」と称して敵地へ行く者についてはすぐに報告すること。またその者を制止すること

以上三点を定めています。次に翻刻を示します。

【翻刻】
法度       江梨五ケ村
一当浦出船之時、便船之人、堅令停止候、無相違者ハ、
 以虎印判可被仰出間、能々相改、可乗之事、
一他国船於着岸者、不撰大小、何船成共、人数荷
物等相改押置、則刻可及注進、無其儀自
脇聞届候ハゝ、代官・名主可処罪科事、
一万乙号商売、敵地へ罷越者有之者、則可致
披露、兼而可被制事、
 以上、
右条々、厳密ニ可申付、若妾申付候者、領主之
可処越度、仍後日状如件、

  癸酉    (虎朱印)       奉之
    七月十六日     石巻左馬充

       鈴木丹後殿

[2] 北条家朱印状
 この史料(図2)は、先ほどの史料から1年後、甲戌(きのえいぬ)(天正2年・1574)7月10日付で、鈴木丹後と彼の領地である江梨宛に発行された命令書です。一番左に宛名が並んで記されています。その右に発行年月日が記され、この文書にも虎印判が押されています。発行年月日の下には命令伝達の担当者の署名がありますが、「笠原」は、笠原政晴(かさはらまさはる)という伊豆郡代として伊豆地域に滞在して、北条氏の命令伝達や税の徴収に携わっていた家臣でした。また文書の右上の部分に「船」朱印影が貼り付けてあり、「甲州より到来の船手判なり」と注記があります。文書の紙の使い方は、紙の真ん中で上下に折り畳み、上半分のみを使っている古文書になります。「折紙」と呼ばれる様式で「竪紙」に対しては略式の様式です。文書の内容は、

駿河国より来航する船が武田氏による証明書を持参することになった。駿河国より来航する船については、武田氏の証明書を確認せよ。証明書を持たない不審な船は取り押さえて報告するように

と命令しています。文書の右上の部分に添付される「船」朱印影は、「甲州」=甲斐国を本拠とする武田氏からもたらされた朱印影であり、駿河国より来航する船は、この朱印を押した証明書を持参することとなっていました。
 武田氏は甲斐国を本拠地としていましたが、この頃には勢力を駿河国にも拡げていました。駿河国から北条氏の領国へ来航する船は、その領主である武田氏の証明書を持参することが定められていたことが分かります。次に翻刻を示します。

【翻刻】
   (「船」朱印)

 自甲州到来之船手判也、
右手判、駿州船之手
験、従甲州令到来者也、
然而彼印判於持来船者、
不可有異儀、若紛者不
審様子有之者、船を相
押、可致注進、猶以自今
以後、於駿州浦之舟者、
右手判可持来者也、仍
如件、

 甲戌    (虎朱印)奉之
  七月十日    笠原

   鈴木丹後殿
   江梨

2 同内容、同日付で発行された文書の存在

 今回紹介した史料には、それぞれ2点ずつ同内容、同日付で別人物に宛てられた文書が残されています(注)。これらの文書にも「虎印判」が押されています。このような文書の伝存状況や、当主直筆の花押(サイン)を記す文書と比較して、命令を一斉に通知することに適した印判状という文書様式であることから類推すると、北条氏が領国の海岸線の村々やその村を領地とする武士に対して、一度に同じ文書を発行し、領国内各所へ同様の命令伝達を行っていたと考えることができそうです。

3 まとめ
 これら2点の史料から北条氏領国の海岸線の村では、人を乗せて船を出す際や他国からの船が着岸した際には、北条氏の許可、北条氏への報告が必要であったことが分かります。すなわち無断で他国へ船を使って移動することを北条氏が警戒していたことが分かります。このように戦国大名の多くが他の大名領国との交渉を禁止していたのです。
 元亀4年、天正2年の時点において、北条氏と甲斐国・駿河国を領国とする武田氏との間には、同盟関係が存在していました。しかしながら同盟を結んでいた武田家との間でも、北条氏の許可が無ければ人の往来はできなかったのです。このように海に面した領国を持つ北条氏にとって、海岸線は武田氏領国との国境として機能しており、人の出入りに関する管理は重要な事柄であったのです。(梯弘人・当館学芸員)

(注)
[1]北条家法度書と同時に発行された命令として、四郎殿宛北条家法度書(「稲村徳氏所蔵植松文書」『戦国遺文後北条氏編』1656号)、山本信濃殿宛北条家法度書「山本文書」『戦国遺文後北条氏編』1657号)が存在します。また[2]北条家朱印状と同時に発行された命令として、四郎殿・口野五ケ村宛北条家朱印状(「稲村徳氏所蔵植松文書」『戦国遺文後北条氏編』1713号)、八木殿・子浦宛北条家朱印状(「横浜市歴史博物館所蔵文書」『戦国遺文後北条氏編』1715号)があります。

【参考文献】
池上裕子編『中近世移行期の土豪と村落』(岩田書院、2005)
菊池武「後北条氏の水軍について」(『神奈川史談』12、1970)
佐藤進一『古文書学入門』(法政大学出版会、1997)
沼津市立駿河図書館編『巡礼問答 江梨鈴木氏由緒書』(沼津市立駿河図書館、1980)
丸島和洋『戦国大名の「外交」』(講談社、2013)
山口博『戦国大名北条氏文書の研究』(岩田書院、2007)

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