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端午の節供飾り

開館中に毎月実施していたウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2021年5月の逸品

端午の節供飾り

端午の節供飾り

端午の節供飾り

 5月5日は子どもの日です。この日は五節供(せっく)(節句)(※注1)のうち端午(たんご)の節供で、男児のいる家では鯉幟(こいのぼり)(よろい)(かぶと)や武者人形を飾ったり、(ちまき)や柏餅を食べたり、また菖蒲(しょうぶ)湯に入る方も多いことでしょう。今日の端午の節供は男児の成長を願う側面が強くなっていますが、この行事は古代中国から伝来した故事などに加え、様々な要素が含まれています。
 現在展示中の端午の節供飾り(図1)は、相模原市緑区で昭和45(1970)年から平成9(1997)年まで使用されていたもので、ここには様々なものが設えられています。今回はその中から主なものを取り上げ、端午の節供の変遷や行事における意味をみていきましょう。

●菖蒲
 端午の節供は、以下に紹介するように菖蒲を多用することから、菖蒲の節供ともいいます。(図1)の三宝(正面手前)の奥には菖蒲(葉菖蒲、模造)があります(図2)。菖蒲の葉は長い剣状で香気があることから邪気を祓うものとされ、かつては菖蒲を軒先に挿して魔除けとする習俗が広くみられました。横浜市保土ヶ谷区のある家では、束ねた菖蒲と(よもぎ)を屋根にのせています(図3、平成28[2016]年撮影)。
 ところで、菖蒲を屋根に葺くことは魔除け以外の意味もありました。相模原市緑区佐野川(旧津久井)では「菖蒲屋根といって軒先に菖蒲・蓬を葺くが、この菖蒲屋根の下だけが女の家だといっている」とあり、他の旧津久井地域でも、同様のことを女の屋根と称している事例があります(※注2)。5月5日は、今日では五月晴れの薫風かおる清々しい陽気ですが、明治5(1872)年以前に使用されていた旧暦(太陰太陽暦)では6月の梅雨の時期に当たり、五月雨(さみだれ)とはその頃に降る長雨を指しました。そしてそれはちょうど田植えの開始時期でもありました。全国的にみると田植えは女性の仕事とされていることが多く、それを担う女性は「早乙女(さおとめ)」や「五月女(さつきおんな)」などと呼ばれました。つまり、佐野川のように屋根に菖蒲や蓬を葺いた家に女性たちが籠ることは、田植えの開始にあたって田の神を迎えるために一定期間行動を慎んで家屋に籠る精進潔斎の物忌(ものい)みであり、菖蒲や蓬はその目印であったと解されるのです。このように端午の節供は男児だけでなく、女性や農耕儀礼にも深い関わりがあった行事でした。

(のぼり) 鯉幟(こいのぼり) 吹き流し
 江戸時代後期の江戸の年中行事や風俗を記した『東都歳事記』には、

七歳以下の男子ある家には、戸外に幟を立、()人形等飾る。又座舗のぼりと号して、屋中へかざるは、近世の簡易也。紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて、幟と共に立る事、是も近世のならはし也(※注3)。

とあり、当時の幟や冑は屋外に飾られていたことがわかります。(図1)は座敷幟として室内用にミニチュア化したもので、幟には神功皇后と武内宿祢(たけのうちのすくね)鍾馗(しょうき)が描かれています。神功皇后は身重の体で朝鮮半島へ遠征に出た途中、急に産気づいたのが5月5日で、その産屋(うぶや)の屋根を菖蒲とカヤで葺いたという伝承があります。また、鐘馗は唐の玄宗皇帝が病に伏しているときの夢枕にあらわれて悪鬼を退治したという故事があり、その姿は魔を除く力があるとされました。
 黄河の激流を登った鯉は龍になるという故事から、鯉幟には立身出世の願いが込められています。『東都歳事記』にもあるように、当初は紙製であった鯉幟は、明治時代になると木綿が、近年では丈夫なナイロンなどが用いられています。ちなみに(図1)の鯉幟はナイロン製です。また、絵画資料等からみると江戸時代の鯉幟は真鯉(黒鯉)のみですが、明治時代になると次第に()鯉(赤鯉)が加わります。吹き流しも元々は鯉幟とは別々でしたが、明治時代以降は一緒に揚げるようになりました。(図1)の鯉幟の竿の頂部には矢車と玉が付いています。屋外の竿の先端には常緑樹の葉や竹、回転球、目籠などが取り付けられることもあります。鯉幟は、頂部が重要で高く掲げることで神を招くための依代(よりしろ)または物忌みの表示とも考えられています(図4)。

●武具
 (図1)には、冑をはじめとして弓矢、刀、陣笠、陣太鼓などがあります。先に述べたように、端午の節供は女性と深い関わりがあった行事でしたが、菖蒲の音が尚武に通じることから中世期以降の武家社会の台頭によって菖蒲打ち(束にした菖蒲で地を打つ)、印地(いんぢ)打ち(石合戦)、舟競争、相撲、闘牛、闘鶏、凧揚げをしたり、菖蒲冑や菖蒲刀をつくったりするなど、武家好みの要素が追加されていきました。これらの競技は元々神事として行われた年占(としうら)(豊凶の占い)であったと考えられ、それらは次第に勇壮になり男児の節供というイメージがもたれるようになりました。また冑、金太郎や桃太郎などの武者人形もご神体の代わりとする形代(かたしろ)とも捉えられます。

 以上のように、端午の節供は様々な要素が重なり合って形成されてきました。ここで紹介した端午の節供飾りは、5月下旬(予定)まで当館常設展示室テーマ5の復元民家で展示しています。身近な年中行事の一つである端午の節供の飾りから、この行事の持つ意味に思いをはせてみてください。(新井 裕美・当館主任学芸員)

※注1 1月7日(人日)、3月3日(上巳)、5月5日、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)がある。現在ではセックは「節句」とされることが多いのですが、古くは「節供」と表記しました。本来節供は節日の供物をさしていましたが、次第に供物をする日(=句切り)という意味が強くなったため、節句という字が当てられるようになりました。
※注2 神奈川県企画調査部県史編集室『神奈川県史』各論編 5 民俗、神奈川県、595頁
※注3 朝倉治彦校注『東都歳事記』2、平凡社、1970年、44頁

【参考文献】
小川直之『日本の歳時伝承』アーツアンドクラフツ、2013年
林直輝『おもしろそうにおよいでる 鯉のぼり図鑑』小学館、2018年

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