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金銅六角経筒(こんどうろっかくきょうづつ)

開館中に毎月実施していたウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2021年6月の逸品

金銅六角経筒(こんどうろっかくきょうづつ)

金銅六角経筒(こんどうろっかくきょうづつ)

金銅六角経筒
銅鋳製

・金銅六角経筒とは
 この六角形の小さな筒は、高さが13㎝、お経を納めるための容器です(図1)。16世紀、室町時代の終わりから戦国時代にかけて、このような経筒がたくさん作られ、六十六部聖(ろくじゅうろくぶひじり)という巡礼者の手によって、各地の神社仏閣に奉納されました。今は青黒いすすけた容器に見えますが、これは銅板でできていて、本来は金メッキをしていたので、制作当時はキラキラまぶしい状態だったはずです。
 とはいえ、こんな地味なモノどこが逸品なの?!という声がどこかから聞こえてきそうです。でも、一番上にちょこんと乗っているタマネギみたいな形、六弁の花のような屋根のふくらみやカーブ、よく見ると線が彫ってあり、模様や文字が見えてくるのですが、どこか麗しい魅力を持っていると思いませんか?え、そうでもない?でも、もうちょっとよく見てみましょうか。

 筆者も、収蔵庫にもぐり、あらためてこの六角経筒の構造と意匠を見直してみました。
 中心の六角形の筒は、銅板を六角に曲げ、一方の端に三つの爪をつくり、もう一方の端の切れ込みに差し込んで留めています。蓋は六弁花のような屋根形で、中央は膨らみ、六つの先端は反り返って、二つの小さな孔が空いているので、瓔珞(ようらく、針金でつないだビーズの飾り)が下がっていたものと思われます。頂上には露盤(ろばん、四角い部分)と、宝珠(ほうじゅ、タマネギみたいな形)をそれぞれ別に作って鋲(びょう)どめしています。裾広がりの台座は蓮華の葉をかたどっており、これも本体に作り出した爪を差し込んで留めています。よく見ると各所には文様が彫ってあるのがわかりますでしょうか。蓋の上面には、大ぶりな牡丹の花と唐草を、筒の下方には先の丸い細板を連ねた垣根のようなパターンを、台座には葉脈を彫っていて、一層華麗にこの経筒を飾っています。
 過去のぼんやりした記憶より、それぞれの部品を組み合わせる精度がしっかりとしており、形や文様の洗練された工芸品でした。とはいえこの様な工芸品にあまりスポットが当たらないのは、多くの作品は、本来の金色の輝きが失われてしまっている上に、この様な細かい鏨(たがね)の彫りも見えづらいところにあるのではないでしょうか。もったいないことですね。
 六角形の筒には、三面に一行ずつ文字が刻んであります(図2)。

「十羅刹女 越後国住東円坊」
「バク(梵字) 奉納大乗妙典六十六部聖」
「三十番神 当年今月吉日」

 この中にある大乗妙典というのは法華経のことで、仏を象徴的に表す梵字は釈迦を表す「バク」の字を刻んでいます。十羅刹女(じゅうらせつにょ)、三十番神(さんじゅうばんじん)というのは聞き慣れない名前ですが、いずれも法華経を守護する神のことです。つまりこの銘文からは、越後に住む東円坊という六十六部聖が各地の寺社に奉納する法華経をこの筒に納めて全国を歩いたことがわかります。奉納した年月日が「当年今月吉日」とぼかして記しているのは、長期にわたる巡礼のため、特定の日にちをはっきりと予想できないからなのでしょう。

・六十六部聖とは
 六十六部聖(または六十六部廻国行者、単に六十六部などとも呼ばれる)とは、日本全国の六十六国をめぐり、各国一カ所ずつの寺社に法華経を奉納してまわる行者で、鎌倉時代には登場したとされていますが、16世紀にその数が急増します。彼らは、本品の様な経筒に小さな法華経を納めて寺社に奉納し、あるいは境内に塚を築き埋納しました。これに類する経筒は、全国で三百数十個ほど見つかっており、その多くには、同じような願文と奉納者の出身地と名前、紀年銘などが刻まれています。そして経筒の出土地と聖の出身地は、関東北部を中心とした東国に多く分布しています(注1)。
 江戸時代になると一旦下火になるものの、18世紀頃には再び盛んになり、庶民の間にも流行しました。中世には基本的に一国につき一カ所の奉納であったのが、時代が降ると納経所が増える傾向にあり、総数で数百を超え、巡礼の期間も長期にわたる例が見られます(注2)。

・笈との関連
 ところで筆者は十数年前、笈(おい)の研究をしていました。笈とは背に負ってモノを運ぶための道具を指すのですが、特に宗教者が旅をする際に使うものを笈と呼んでいます。歌舞伎の勧進帳で、弁慶が背負っている箱、といえばイメージがつかめるでしょうか。従来の研究では、現在残っている遺品は山伏が使用したもの、と説明されています。16世紀に数多く作られ、当館も金銅装笈(図3)と鎌倉彫笈を一基ずつ所蔵しています。その分布は東国に偏重しており、羽黒修験と関係が深いのだろうと指摘されていました。
 笈には制作年代の判明する基準作が少なく、また、移動することが前提の道具であるだけに、伝来の不明な作品が多いのです。どのような場面でどのように使用したのか?中に何を入れていたのか?典拠となる宗教的思想は何か?など、まだ謎が多いものでした。
 ところが先日、六十六部聖の納経帖と、六角経筒などを中に納めた形で伝来する金銅装笈があることがわかり、調査してきました。金銅板には様々な図様が描かれているのですが、鬼子母神(この神様も法華経の守護神)と十羅刹女の姿も見え、六十六部の信仰との関連を伺わせます。経筒は当館のものと、ほぼ同様の構造、意匠、作風でした。そこで、「自分は今まで経筒をきちんと見たり考えたことが無かった!」と痛感したのでありました。
 そして、そういえば六十六部って銘文に書いてある笈、他にもあったな・・・と昔の調査報告をひっくり返してみたり、全国の作例を見直してみると、六十六部ゆかりの金銅装笈が、各地に数例見つかったのです。
 ということは、六十六部聖もこの様な箱笈を担いで巡礼し、笈の中には各地に奉納する法華経や、どこに納めたかを記録する納経帖、そして本品のような経筒もいくつか入れていた、ということになります。そして、同じく16世紀に描かれた参詣曼荼羅などをみても、各地を遍歴する宗教者は山伏だけではなく、笈らしきモノを背負って歩く巡礼者のすがたは多々見受けられるのです。
 もっとも、山伏が六十六部廻国行を行う場合も多かったようですが、六十六部に関連する資料を探ってゆくことで、笈の実態について、一歩踏み込んだ見解を示すことができそうです。

・源頼朝が六十六部聖の元祖?!
 さきほど、経筒と笈の分布は東国に偏重していると言いましたが、これにもどうやら理由がありそうです。唐突に聞こえるかもしれませんが、なんとあの源頼朝の前世は、六十六部聖の元祖だったという伝説があるのをご存じですか?
 金沢文庫古文書に「社寺交名」という文書があり、湯之上隆氏の論考によると(注3)、そこに書かれている寺社のリストは六十六部達が訪れた納経所である、とのことです。そして、この文書の裏面に書かれているのは、源頼朝の前世は頼朝房という六十六部聖であり、法華経の書写と奉納の功徳によって将軍に生まれ変わった、という縁起物語なのです。さらに湯之上氏は、この縁起は東国の武家社会へ勧進活動を進めるための唱導説話である、と論じています。
 ところで、相模国の納経所は必ず鶴岡八幡宮となっています。他にも古社はあるのになぜ?と思っていましたが、源頼朝伝説がからんでいるとすれば、納得です。
 一つの収蔵庫に入っている金銅装笈と六角経筒が、同じく六十六部という巡礼者によって使われる工芸品であったとは。そして東国でのこれらの濃厚な分布に、源頼朝の伝説が深く関わっているとは・・・、十数年前の筆者は全く気づいていませんでした。

・人はなぜ、寺社に参るのか
 それにしても、なぜ、彼らは全国六十六国の寺社に参るなどという大それた巡礼をおこなったのでしょうか?その原動力って何だろう?
 我が身を振り返ってみると、若い頃から今に至るまで、なんだかんだと寺宝社宝の調査の仕事にずっと携わっています。また旅行ともなればその土地の有名無名の神社やお寺に参詣することを当たり前の習慣としています。寺社参りは仕事ではあるけれど、個人的な楽しみでもある。そこにある文化財を調査しなくちゃいけないから、というのは単なる口実なんじゃないかな、と思う時があります。そうまでしてなぜ寺社参りを続けるの?と問われれば、上手く答えられないのですが・・・。しいていえば、俗世間とはちがう空間のありよう、つまり聖域にただ身を置くこと、それにより何だか自分の内側が刷新されたような気持ちになること。その清々しさに一度身を浸したら、なかなかそこから逃れられないのではないでしょうか。
 美術品を見る楽しさと、寺社参りの歓びは、別のもののように感じていたけれど、この頃は自分の中で、両者が分かちがたく結びついているのを感じます。(佐藤 登美子・当館臨時学芸員)

注1 関秀夫『経塚の諸相とその展開』(雄山閣出版、1990年1月)
注2 小嶋博巳「六十六部廻国とその巡礼地」(『四国遍路と世界の巡礼―人的移動・交流とその社会史的アプローチ―』所収、四国遍路・世界の巡礼研究センター、2005年3月)
注3 湯之上隆『日本中世の政治権力と仏教』(思文閣出版、2001年3月)

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