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ペリーの肖像

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2021年8月の逸品

ペリーの肖像

ペリーの肖像

常設展示室2階ペリーの肖像壁画

日本を開国させることを使命として1853年と54年の2度にわたり来日したアメリカ東インド艦隊マシュー・カルブレイス・ペリーの肖像は多種多様な顔貌で描かれています。
なぜ、ひとりの人間がこのようにさまざまな顔貌で描かれたのでしょうか。
当館では、肉筆画、石版画、木版画などの技法により描かれた多数のペリーの肖像画を所蔵しています。それら実物資料の場合、時期によっては観覧できないことから、いつ来館しても観覧者が見られるように、代表的な4点の資料にもとづき壁画を制作しました。今回の「今月の逸品」は、これら常設展示室2階の近世近現代移行期展示室の壁面に描かれた4種類の画像をとおして、当時の日本人がペリーをどのようなものとして捉えていたのかについて考えてみたいと思います。
なお、制作にかかわる具体的な記述はありませんので、遺された絵から考えられる範囲での、あくまでも試論であることを初めにお断りしておきます。

一般的にペリーは、武力を背景に日本を開国させた人物として知られています。そうであるならば、恐怖の対象として日本人には見られていたでしょうから、右から2番目のような人間とは思えない容貌の人物として描かれることは妥当です。しかし、この顔貌は全くペリー本人とは似ていません。西洋人の鼻は高いという、ステレオタイプ的な西洋人像を当時の人々がもっていたとしても、あまりにも鼻が高すぎ(長すぎ)ます。本人を前にして描かれたものではなさそうです。そもそも、人間を描いたとは思えません。魔界からやってきた魔神とでも考えたのでしょうか。
着用している服も、ペリーが実際に着用していた軍服とは異なっています。全体は花鳥柄で、中国的な意匠の服を描いたように見えます。また襟(えり)元はラーメン丼(どんぶり)の縁の模様に使われる「雷文」が描かれています。日本人にとってみれば、中国人も外国人ですから、外国人が着ていた服という意味では間違いではありませんが、アメリカ人であるペリーが着ていた服では決してありません。
この絵を描いた者は、正確にペリーを描くつもりはなかったように思われます。1854年3月に日米交渉がおこなわれた横浜を警備していた松代藩の高川文筌(たかがわぶんせん)や、独自に探索活動をおこなっていた津山藩の御用絵師・鍬形赤子(くわがたせきし)がペリーを実際に観て肖像画を描いています。さらに最近おこなった研究により、幕府応接掛筆頭・林大学頭復齊(はやしだいがくのかみふくさい)の配下として応接に参加していた膳所藩(ぜぜはん)の儒学者・関藍梁(せきらんりょう)(研)もペリーを観てスケッチしたことがわかりました。当時、ペリーを正確に描いた絵があったにもかかわらず、全く参照していないようです。
ペリーは異国人であり、恐ろしい存在だということが、この絵を見た人に伝われば良かったのではないでしょうか。つまり、〝日本を恐怖に陥れているのはこいつだ〟ということを印象づけ、追い払うべき、すなわち攘夷すべき対象であることを見るものに訴えかけることが制作の目的であり、本人と似ているかいないかは全く関係がなかったと考えられます。

これに対して、残りの3図は恐ろしげというよりもユーモラスな顔貌にもみえます。ペリーは一般的に言われているのとは違い、恐怖以外の感情を当時の人々に与えていたのかもしれません。

頬(ほお)から顎(あご)にかけて髭(ひげ)を蓄えた右端の図は、その特徴的な髭から、中国・三国時代の蜀(しょく)の武将であった関羽(かんう)のように見えます。関羽は、信義を重んずる武将としても有名でしたが、死後神格化され関帝として祀(まつ)られました。その祀った祠(ほこら)を関帝廟といい、横浜中華街にもあります。関羽は武将であるとともに、商売にも精通していたことから、現在では華僑が多く住む世界各地の中華街には、商売繁盛するようにと、商売の神としても祀る関帝廟がおかれているということです。
ペリーは軍人であり、日本との通商を求めたことから、武将であり商売にも精通した関羽に重ね合わせたのかもしれません。なお、関羽は江戸時代の人々にとっては、歌舞伎十八番の演目の一つとしても知られた存在でした。役者の半身像を描いた大首絵のようにも見えます。
大首絵といえば、この右端の絵もそうです。まず、この絵で注目すべきはペリーが着用している軍服の釦です。左から二番目の絵も服のあわせ部分に花が描かれています。服の留め具である釦は、英語のButtonであり、日本語としては〝ボタン〟と発音します。いまだ釦を知らない当時の日本人にとっては、その音から連想したのが花の牡丹だったのではないでしょうか。あるいは、釦について知っていたにもかかわらず、あえて洒落たのかもしれません。
また、指が鳥のそれのように描かれています。仙台藩の儒学者である大槻磐渓(おおつきばんけい)が、ペリー来航時に現場でおこなった情報収集活動について研究したところ、アメリカ人の容姿を鳥や獣のようだと言っている人の噂話を記録していることがわかりました。おそらく、そのような噂話を聞いた絵師が、話をもとにこのような表現をしたのかもしれません。人から聞いたペリーの話と、それまでに持っていた知識をもとに釦(牡丹)を描いたり、鳥のような指を描いたりしたのです。
最後に、左端の図は、木版多色摺版画として一般に流布しましたが、この原図は浮世絵師・歌川国信によって描かれた肉筆浮世絵です。現在、下田・了仙寺宝物館が所蔵しています。このペリーの顔は、歌舞伎の隈取りがされているかのような表現がされています。原図のほうがよりわかりやすいのですが、茶色の隈取り(茶隈)のようです。茶隈は、鬼や妖怪など、人間とは異なる得体の知れないものを表すときに使われるものです。おっとりした表情ですが、やはりペリーは得体の知れない異人として認知されていたということになります。

日本人が描いたペリーの肖像画は、役者絵をベースに、異国人としての特徴が印象づけられているようです。ペリーの日本に対する姿勢は高圧的であり、多くの日本人にとっては、脅威そのものでした。また、隈取りのような表現からペリーを得体の知れない異人としてみていたことも確認できました。
その一方で、同じ異国人でも、中国の武将であり商売の神様である関羽に仮託している絵や、人から聞いた話をもとに想像してペリーを描いたと考えざるを得ない絵もありました。

冒頭でお断りしたように、ここで述べたことは一つの考え方でしかありません。見る人により他の解釈も成り立つかもしれません。是非ご自身でじっくり考えてみてはいかがでしょうか。(嶋村 元宏・当館主任学芸員)

参考文献:
特別展図録『ペリーの顔・貌・カオ―「黒船」の使者の虚像と実像―』神奈川県立歴史博物館、2012年。
『開国期・危機的状況下における知識人による情報活動と意志決定過程に関する研究』(平成30年度~令和2年度科学研究費助成事業 学術研究助成基金助成金 基盤研究(C)研究成果報告書)嶋村元宏編著、2021年。

【付記】この小文は、JSPS科研費JP18520484「ペリー来航関係画像資料の史料批判的研究」(研究代表者:嶋村元宏)ならびに、JSPS科研費JP18K00952「開国期・危機的状況下における知識人の情報活動と意思決定過程に関する研究」(研究代表者:嶋村元宏)の成果が含まれている。

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