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七沢村と煤ヶ谷村田畑境并山論裁許絵図(ななさわむらとすすがやむらでんぱたざかいならびにさんろん さいきょえず)

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2021年9月の逸品

七沢村と煤ヶ谷村田畑境并山論裁許絵図(ななさわむらとすすがやむらでんぱたざかいならびにさんろん さいきょえず)

七沢村と煤ヶ谷村田畑境并山論裁許絵図(ななさわむらとすすがやむらでんぱたざかいならびにさんろん さいきょえず)

七沢村と煤ヶ谷村田畑境并山論裁許絵図
慶安2(1649)年5月1日
久崎家文書 60.5×92.0㎝
※この絵図は南が上になっています。

9月の逸品は江戸時代に作られた「裁許絵図(さいきょえず)」をご紹介いたします。

裁許絵図とは、村落や共同体間の村境や山林原野・河川・用水・浦などを巡る争論に対し、幕府の裁判機関である評定所(ひょうじょうしょ)で下された裁許(判決)の証拠として作られた絵図です。裁許内容を絵図に示し、裏に裁許文(判決文)を記します(絵図面に裁許文を記したものもあります)。
一般的に評定所で作られた裁許絵図(注1)の場合、大きく厚い紙に凡例付の大変詳細な絵図(図1)が描かれ、その裏面には幕府で学問を司る役職である儒者(じゅしゃ)によって起草された裁許文(図2)と、裁許を担当した奉行(評定所一座である三奉行:勘定奉行・町奉行・寺社奉行、場合によっては老中も加わる)の名が書かれ、奉行自身により捺印がなされます(図3)。また、絵図には墨色で裁許線(決定した境界線)が引かれ、その線上にも担当奉行の印が押されました(図4)。

しかし、裁許絵図の中には評定所によって作成されたものではないものもあるようです。今回は慶安2(1649)年5月1日に作成された「七沢村と煤ヶ谷村田畑境并山論裁許絵図」(当館所蔵 久崎家文書)を詳しく見てみたいと思います。

「七沢村と煤ヶ谷村田畑境并山論裁許絵図」は、相模国愛甲郡七沢村と同煤ヶ谷村の村境争論に対して下された裁許絵図です。愛甲郡七沢村は現在の厚木市七沢、煤ヶ谷村は愛甲郡清川村煤ヶ谷にあたり、争われた村境は現在の厚木市・清川村の境界の一部にもなっています。(図5図6
絵図の大きさは60.5×92.0㎝で、薄い紙を6枚継ぎ合わせたものを使用しています。厚い紙に書かれることが多い一般的な裁許絵図とは印象が異なります。
表に絵図が描かれ、朱の裁許線で定められた境界を示し(図7図8)、その裏面に裁許文が記されていますが、裁許文の署名から、この時裁定を下したのは勘左衛門(勘定設楽能利)・次郎右衛門(勘定雨宮忠俊)・与兵衛(目付黒川正直)・半左衛門(目付猪飼正久)・新蔵(新番頭北條氏長)・越前(大目付宮城越前守和甫)の6名であることがわかります(図9図10)。評定所で作られた裁許絵図には三奉行の署名捺印がありますが、この6名は三奉行ではありません。

江戸時代初期には出訴された各地の争論に対し、幕府より現地に赴き見分を行う検使(けんし)が派遣され、争論の現地を見分して裁定を下すという形も取られていました。検使は寛永10(1633)年・同15(1638)年をはじめ、この裁許絵図が作成された慶安2年にも派遣されています。江戸幕府編纂の史書である『徳川実紀』(とくがわじっき)にも、慶安2年3月28日の項に「大目付宮城越前守和甫。目付(原文ママ)北條新蔵。猪飼半右衛門(原文ママ)正景。黒川與兵衛正直廻国の事命ぜられいとま給ふ。」、同7月16日の項に「各國巡視にまかりし大目付宮城越前守和甫。新番頭北條新蔵正房。目付猪飼半左衛門正景。黒川與兵衛正直歸りまいる。」とあり、3月28日から7月16日まで、検使として大目付宮城越前守、新番頭北條氏長(正房)、目付猪飼正久(正景)、目付黒川正直らが派遣されていたことがわかります。

慶安2年の検使は、武蔵国を皮切りに、相模・上野・常陸・下総等を廻村しましたが、相模国では4月26日に高座郡座間村・鶴間村(現座間市、相模原市・大和市)の共同利用地である入会地(いりあいち)の境争論、4月28日には同郡柳島村と南湖村(現茅ヶ崎市)の浜の境争論に対しても裁許状を発給しています。そして5月1日には愛甲郡七沢村・煤ヶ谷村の村境争論を裁定し、この裁許絵図が作成されました。
この時決まった境界は朱色で引かれ、この裁許線より北が煤ヶ谷村分、南が七沢村分と定まりました。裁許線の上には9ヶ所検使達の印が押され、その両端はこの裁定の主管である大目付宮城越前守が印を押しています(図11)。裁許絵図では境界線は墨色で描かれることが多いのですが、なぜかこの絵図は朱色で引かれています。紙も簡素で、絵図の描き方も素朴です。管見の限りですが、慶安2年の検使が出した他の裁許状は文字のみで、絵図形式のものはこの裁許絵図以外見られません。基本は裁許状であったところ、検使が裁許を下すにあたり、裁許文だけでは不足であると判断した、または七沢村・煤ヶ谷村が村で用意した絵図を使っての裁許を求めたなどの事情から、急遽裁許絵図が作成されたと考えられます。本来何年もかけて評定所で吟味され、作成される裁許絵図とは違い、検使が実際に現地へ赴きその場で下す裁許であり、急遽作成されたものであったことが、このように簡素で特異な裁許絵図が作成された理由ではないでしょうか。

このようにして作られた裁許絵図は七沢村、煤ヶ谷村、裁定を下した幕府と三者で大切に保管されました。この裁許絵図は七沢村宛ですが、煤ヶ谷村宛の裁許絵図も確認できます(注2)。
この裁許絵図が定めた村境は変更されることはなく、裁許絵図はそれ以降の争論においても境界の証拠資料となりました。およそ100年後の宝暦2(1752)年から6年にかけて、再び上下七沢村と煤ヶ谷村で境界を争いますが、この時も争っているのは裁許絵図の朱の裁許線の解釈であり、慶安2年の裁許絵図に従うという姿勢は崩しませんでした。

裁定の証拠書類である裁許絵図は、幕府側においても保管されましたが、残念ながら評定所の関係資料は関東大震災で火災にあってしまい、現在確認することはできません。しかし、明治時代に作成された「旧幕裁許絵図目録」(国立国会図書館所蔵)という資料により、評定所には1539枚もの絵図が保管されていたということが明らかになっています(目録が作成されたのは明治時代のことなので、それが江戸時代そのままの枚数であるのかは不明です)。
「旧幕裁許絵図目録」は、幕府から引き継いだ裁許絵図を国ごとに年代順に並べて作成された目録です。現在の神奈川県内にあたる武蔵国橘樹郡・都筑郡・久良岐郡は合わせて11枚、相模国では54枚の裁許絵図の名が掲載されています。その中でも今回ご紹介した裁許絵図が「慶安二丑年 相州愛甲郡七澤村田畑境并山論絵図」として相模国の「第壱號(第1号)」で掲載されています。評定所が保管していたということは、幕府が必要であると認めていたことを意味します。この絵図は、幕府が認めた相模国で一番古い裁許絵図であり、大変貴重な資料であると言えるでしょう。(根本 佐智子・当館非常勤学芸員)

注1:安永2(1773)年5月13日「相州鎌倉郡津村腰越村与同国同郡片瀬村魚猟場出入裁許之事」(当館所蔵 268.5×346.5㎝)を例に挙げます。この裁許絵図も「旧幕裁許絵図目録」(国立国会図書館所蔵)に「第五拾弐號(第52号)」として掲載されています。

注2:個人蔵 神奈川県立公文書館所蔵の「神奈川県史撮影資料」でモノクロ写真を確認することができます。

参考文献

  1. 宮原一郎「近世前期の幕府裁許と訴訟制度–関東地域における山論・野論を中心に–」(『徳川林政史研究所紀要』38号 2004年)
  2. 山本英二「論所裁許の数量的考察」(『徳川林政史研究所紀要』27号 1993年)
  3. 『絵図学入門』(東京大学出版会 2011年)

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