展示

五姓田義松(ごせだ・よしまつ) 神奈川・横浜の風景

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2021年10月の逸品

五姓田義松(ごせだ・よしまつ) 神奈川・横浜の風景

五姓田義松(ごせだ・よしまつ) 神奈川・横浜の風景

五姓田義松
神奈川遠景
8.9cm×28.9cm
明治6(1875)年
展示期間:10月2日(土)~11月5日(金)

五姓田義松(1855~1915)は、明治を代表する洋画家です。彼を特集した展示を、9月からおよそ3カ月、常設展トピック展示「横浜美術史」の一環としておこなっています。
義松は、安政2(1855)年に生まれました。時は幕末、社会のあらゆる局面で大きく変化を迎えていました。そのなかで義松の父初代五姓田芳柳(ごせだ・ほうりゅう)は、息子に新しい技術である「洋画」を習得させ、身を立てることを思いつきます。父である初代芳柳もまた武家の出身ながら絵筆をもって生きた人でした。父を通して幼い頃から絵事に親しんだ義松は、わずか10才で、横浜居留地に住む英国人画家チャールズ・ワーグマンに入門します。そのとき慶応元(1865)年、まだ明治にもなっていませんでした。開港したのが1859年のこと。1861年にワーグマンが来日、それから数年後のことですから、横浜も未成熟であり、ワーグマンも片言の日本語を話す程度だったと思われます。最初は父が住む江戸から通い、明治になってから本格的に修行をするために横浜へ移住しました。
当館は横浜に立地することから、幕末から明治にかけて、西洋絵画を受容したことを示す作品や資料を収集して参りました。その中核コレクションが五姓田派であり、義松の作品群になります。特に、義松が没するまで手もとに置いていたと思しきメモ書きに相当する、600点を超えるスケッチ群は、多彩な情報を有しています。このたびのトピック展示「横浜美術史」では、その優品をご紹介しています。また、10月の「今月の逸品」では、明治初頭の横浜に取材をあてた作品をご紹介します。
最初にご紹介したいのは、《横浜西太田の村落》(図1 明治5〈1872〉年)。有名なこの作品は、稲穂が揺れる農村だった頃の横浜南区のあたりを描きます。画面左奥へとまっすぐに伸びる道、そこに歩む馬。どこまでものどかなこの景色を、義松は素直に描きます。画面右奥には小高い丘陵が見えます。横浜は港町のイメージが強いですが、もともとは谷戸が連なり、掘割がその谷あいを結んでいました。少し開けた土地は田畑に利用されていました(参考:「谷戸のまち横浜」横浜市ホームページ)。義松が描いた風景は、まさにその景観を描いた作例といえます。同様に、横浜の内陸を語る上で重要な一点が、《横浜埋地》(図2)です。滲みを多用した水彩絵の具で描かれた、遠景の丘陵地に目がいきがちですが、そのタイトルからすると、画家義松は手前に広がる平地に興味の焦点があったようです。そしてそのタイトルから理解される通り、そこは埋立地だったのでしょう。横浜市中区あたりは近世初期から吉田新田として埋め立てられ耕地化されていったことはよく知られていますが、明治初頭でも各所で遊水池や沼地が埋め立てられていました。義松がここに描いた風景を特定するのは難しいのですが、他方、明治初頭では横浜界隈でよく見かけられた風景だったとも推測されます。

さて、海側から見た風景はどうだったのでしょうか?興味深いことに、海を描いた作品には「横浜」を描くというよりも、横浜あるいは海上から「神奈川」方面を見る、描くという意識だったことが、各タイトルから理解されます。ここでは《従横浜神奈川遠景》(図3 明治6〈1873〉年)と《神奈川遠景》(図4)をご紹介します。義松が記す「神奈川」とは、現在の横浜市神奈川区台町のあたりと考えられます。初代歌川広重《東海道五十三次 神奈川台之景》(保永堂版)でも知られる、その地です。海岸すれすれに立ち上がる坂道を、初代広重は印象的に描きます。その海岸に沿って丘陵地が連なる景色を、義松は海側から描いているわけです。小舟、あるいは大型の帆掛け船が行きかい、賑わいを見せます。
陸側、海側以外にも、横浜の街中を描いた作品など、義松は多くの取材を重ねたと考えられます。修行として、方々へ繰り出し、スケッチをしたのでしょう。さながら、現代の私たちが携帯電話でスナップショットを撮影するような感覚でしょうか。写真との関係でいえば、横長の画面が多いのも気になります。いわゆるパノラマ画面と考えられ、これは初期の写真でも風景を撮影する際に試みられた手法です。あるいは義松は横浜のいずこかでパノラマ写真を目にして、写真ではなくともそれをもととした挿絵などと出会い、自分の制作に利用したのではないでしょうか。
写真が未発達でさほど多くの街頭を映す以前の時代。義松の技術は重宝だったことでしょう。ですから、記録者として、加えて新たな「美」の体現者として、明治皇室や政府でも重用されました。明治11(1878)年に明治天皇の北陸東海御巡幸に供奉したのも、その一例です。
ここに紹介した作品は、そのような画家の栄誉へと至る道程といえます。若き洋画家の息吹、若き横浜の姿をご堪能ください。(角田 拓朗・当館主任学芸員)

参考文献:
(以下、当館ミュージアムショップでお求めいただけます。)
「真明解・明治美術」展図録 神奈川県立歴史博物館 2018
『線と色のきらめき ―神奈川県立歴史博物館所蔵五姓田義松作品選―』神奈川県立歴史博物館 2016
角田拓朗『絵師五姓田芳柳・義松親子の夢追い物語』三好企画 2015

ページトップに戻る