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御手洗正邦自画詠 江島鎌倉名所図会(みたらいまさくにじがえい えのしまかまくらめいしょずえ)
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2022年2月の逸品
御手洗正邦自画詠 江島鎌倉名所図会(みたらいまさくにじがえい えのしまかまくらめいしょずえ)
嘉永元(1848)年3月、御手洗信七郎正邦(みたらいしんしちろうまさくに)という人物が、江の島・鎌倉・金沢を巡る旅に出ました。帰着したのちに旅を思い出しながら絵を描いて歌をかきまとめたのが、今回ご紹介する資料です。
信七郎の足跡を順にたどりながら、資料を見ていきましょう(図1)。
東海道藤沢宿(①)を出立した信七郎は通り雨の降る中、江の島道を行き、江の島に到着します(図2)。江の島では稚児が淵(②)、岩屋の奥の院(③)を訪ねました。江戸時代には江の島弁財天の開帳で人気を博しましたが、この年は開帳の年にあたってはいませんでした。名物であった貝細工の店(④)を覗いて楽しんだり、生きた鯛を見て感動しています。
江の島をはなれると片瀬の龍口寺(⑤)を詣で、行合川(⑥)が流れ込む七里ヶ浜(⑦)から袖ヶ浦(⑧)に出て稲村ヶ崎への眺望を楽しんでいます。一服しながら一首、「此気色(景色)なミヽヽ(なみなみ)ならす閑々と 袖がさきから多葉粉入(たばこいれ)出す」。
袖ケ浦から切通を越えて、由比ヶ浜から陸側に視線を向ければそこはもう鎌倉の中心地です。信七郎は鶴岡八幡宮(⑨)、大仏(⑩)、長谷観音(⑪)を一堂に描いています(図3)。景清の土牢(⑫)で平家方の猛将に思いをはせ、頼朝公浜御殿跡(註)で海を遠望し漢詩を一首詠んでいます。
そのあと、三浦半島を南下して六代御前塚(⑭)と杜戸明神(森戸神社、⑬)をめぐり、杜戸明神の神主に海老をご馳走になります。ここから山道を越えて、六浦の称名寺(⑮)にまいり、金沢を一覧して瀟湘八景(しょうしょうはっけい)に譬(たと)えられた美しい光景(⑯)を描いています(図4)。画面右側には「小泉夜雨」を思わせる雨が降り、左上のほうには「平潟落雁」にちなんでか、鳥が飛んでいるのがみえます。生簀茶屋とあるのは瀬戸の料亭でしょう。実際に見た光景というよりは、案内図や浮世絵の影響をうけて描いたと考えられます。
旅の日数や、名所を巡った正確な順番、通った道筋などはこの資料から読み取ることができませんが、名所毎に描かれた絵や歌から旅を楽しんだ様子がうかがえます。信七郎が資料の冒頭で江の島のことを「江戸からも近く、女・こどもにも知られている場所である」と記しているとおり、江の島・鎌倉・金沢は江戸周辺の旅先として身近な存在でした。
■三所めぐり
『四親草』(天保6年3月)という江戸在勤の武士4人の旅を記した紀行文には、「江のしまの浄域に塵胸をあらい、鎌倉の荒涼に古を忍ひ、此(金沢)八勝に他日の鬱陶を散す(神聖な江ノ島で心を清め、鎌倉の寂しい様に昔を偲び、金沢八景で気分転換をする)」という一文があります。
とくに近世後期には、江の島・鎌倉・金沢をセットにして名所をめぐる「三所めぐり」が行われていました。三所をセットにした案内図会類も多く刊行されています(図5)。三所めぐりがさかんになったきっかけとして、多くの旅行者に影響を与えたと考えられるのが『新編鎌倉志』(貞享2(1685)年)です。実地調査・文献調査を下敷きに作られた地誌で、武士が憧憬の念を抱く彼の地をめぐる際、歴史的な探求の手助けとなりました。『新編鎌倉志』の中では、江の島・金沢は鎌倉のうちの一項目として挙げられ、鎌倉と関係の深い霊場、港湾都市としてとらえられていたことがわかります。
武士・僧職の集まる地であった鎌倉も、時代が下るとともに「今は昔」というノスタルジックな雰囲気を伴って庶民にも受け入れられるようになりました。知識がなくても現地で説明をしてくれる案内人の出現なくしては語れませんが、ここでは別のおはなしとします。
実際に三所をめぐった庶民の記録をちょっと確認してみましょう。当館所蔵の『鈴木藤助日記』から、相模国鎌倉郡長尾村の鈴木藤助は文久元(1861)年4月に親族6人で連れ立って、金沢、江の島、鎌倉をめぐった後大山不動に詣でる5泊6日の旅をしていることがわかります。もう1点、こちらも当館所蔵の出羽国米沢の斎藤氏による『道中記』から。文化3(1806)年2月に日光山、江戸、伊勢を旅する中で、戸塚宿から鎌倉に着して案内を頼んで名所を回った後、江の島弁天を詣で、藤沢から大山詣に向かっています。以上の2例からは、御師の活動によって大山講は広く庶民に受け入れられていたこともあり、大山詣を主目的にした旅のなかで三所があわせて廻られることがよくあったことがわかります。
身分や職業によって、旅の主たる目的は異なるものであったでしょう。神秘的な自然の霊場から地域の庶民に信仰される場に変化した江の島、武家政権誕生の地であり由緒ある寺院の多く存在する鎌倉、砂洲・陸繋島など自然景観の妙をもつ金沢は、いずれも旅のメインとなる場所でありつつもセットでまわることのできるお得なプランであったといえます。
今の私たちと同じように、遊山の気持ちで立ち寄った史跡に古の趣を感じたり、寺社仏閣の荘厳な姿に信仰心が顔をのぞかせたりすることがあったのではないでしょうか。
■御手洗信七郎正邦の旅
では、御手洗信七郎正邦の場合はどうでしょうか。
信七郎が廻ったルートは江の島・鎌倉・金沢の三所めぐりが主軸にあったことは間違いありません。『新編鎌倉志』などを参考にしながら、自らの目的に従って取捨選択を加えたのでしょう。鎌倉をめぐる際は八幡宮・長谷寺・建長寺・円覚寺・大仏・御霊社が主要参詣地として固定していたことが指摘されていますし、江の島から鎌倉へ向かった信七郎は極楽寺前を通過したと考えられますが、本資料には登場しません。鎌倉を描いた場面(図3)からも、名所の故事や歴史について記述することにはあまり興味がなかったように感じられます。また、鎌倉から三浦道を下って杜戸明神まで達する人は多くはなかったようで、『遊歴雑記』(1810年代か)には「江の島、鎌倉のみを見学し、森殿(杜戸明神)を知らないで金沢を過ぎて江戸へ帰る者が多い。これは、ただ飲食にかこつけて、便のいい場所にだけとどまって、風景を愛していないからだ」というようなことが書かれています。
これらのことから、信七郎の興味は、海を臨む風景を求めて、古人の風流を偲びつつも自らが旅で抱いた思いを歌や絵にするところにあったのではないかと想像することができます。
信七郎が心を動かし歌をあらわしている場面をご紹介しましょう。
まずは江の島稚児ヶ淵の場面です(図6)。ここで信七郎は公卿万里小路正房(までのこうじなおふさ)という人物と行き交っています。正房は藤原北家の流れをくむ万里小路家24代当主であり、この年の日光奉幣使(ほうへいし)に任ぜられていました。日光東照社には、正保2(1645)年以降毎年4月の例祭に、朝廷から奉幣使が派遣されることとなっていたのです。この年の4月16日に奉幣の儀を執り行った正房は日光街道壬生通りより日光街道、東海道を経て帰京します。信七郎は、藤沢宿を出立し京に帰る行列が江の島に立ち寄る場面に遭遇したのです。思いもよらぬ高貴な人物との邂逅に、信七郎は「おもはすも(おもわずも)雲ゐ(くもい)の人の波わけて 児かふち行気色(景色)ミんとハ」と詠っています。
もう一つ、別の場面を紹介しましょう(図7)。称名寺を訪れた場面です。信七郎は称名寺山門を描いたうえで、鎌倉中期の歌人冷泉為相(れいぜいためすけ)がこの地を訪れた際に紅葉の美しさを詠った故事に触れています。「東まて心を添しいにしへの 人も紅葉をおもふ古寺」という信七郎の歌からは、鎌倉に下って歌壇に力を尽くした為相への憧憬の念を感じ取ることができます。
ところで、この紀行文を記した御手洗信七郎正邦とはどのような人物なのでしょうか。
御手洗家は五百石の給地を持つ旗本です。下総国周准・長柄・市原郡を所領としていましたが、信七郎は国許ではなく江戸三番町の屋敷に住んでいました。父の御手洗五郎兵衛正輝は光格上皇の御所付きの役人である仙洞付を勤め出雲守を拝領した人物で、信七郎の養子で後継の幹一郎は元治元(1864)年に大炮組之頭として天狗党の乱の鎮圧に出向き、幕末には2,000石格の大炮頭として幕府陸軍の将校に名を連ねた人物でした。
信七郎はというと、天保3(1832)年に跡目を継いだあと、同10年1月に西丸御納戸役を仰せつけられますが、その年の9月には御役御免となっています。その後慶応元(1865)年7月に跡目を譲るまで、寄合、すなわち無役ですごしました。晩年は江戸の寺社に石造物を多く寄進していたことがわかっています。子育て地蔵(墨田区東向島)の庚申塔や、瀧泉寺前不動堂(目黒区下目黒)狛犬台座、牛嶋神社(墨田区向島)鳥居も信七郎の寄進によるものです。
信七郎の思考や人となりについて、残された記録以上のことを語るのは邪推になるかもしれません。今回の資料にみられる和歌への興味や上方への憧れに、信七郎の父の存在をつなげるのも安易でしょう。しかし、信七郎の経歴を知った上でもう一度この資料を眺めると、旅をした信七郎と近い視点から、風景を眺めることができるような気がします。(寺西 明子・当館学芸員)
※ここではすべての場面はご紹介できませんでしたが、展示室では4回にわけてご覧いただく予定です。(展示の予定は前後する可能性があります。)
1月29日~ 江の島
2月12日~ 江の島から鎌倉へ
2月26日~ 鎌倉・森戸
3月12日~3月27日 金沢、旅の終わり
註)『新編鎌倉志』の表記を頼れば、政子が産所とした名越の濱の御所、八幡宮東側の源頼朝屋敷跡、杜戸明神前の頼朝遊館跡などが考えられますが、描かれた海の絵からは判然としません。
参考文献
原淳一郎「近世における参詣行動と歴史意識-鎌倉の再発見と懐古主義-」『歴史地理学』224、2005年
神奈川県立図書館協会『神奈川県郷土資料集成第六集 相模国紀行文集』1969年
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