展示
横浜居留地模型
ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。
2022年4月の逸品
横浜居留地模型
〝異国情緒漂う港街、横浜〟―横浜の代名詞としてよく使われるフレーズです。
今回は、横浜が異国情緒漂う出発点となった時代を表現した《横浜居留地模型》について、居留地とはどのような場所であったかも含め紹介します。
そもそも「居留地」とは日本国内において外国人の居住が許された区域をいいます。1858年に、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと幕府との間で結んだ条約により、長崎、箱館(現在の函館)、神奈川などが貿易をおこなうための港として開かれることになりました。当然、来日外国人は船上生活を続けることはできませんから、居住するための場所が陸地に必要となります。しかし日本人が居住している場所へコミュニケーションをとることもままならない外国人を住まわせることもできません。そこで、外国人だけが居住することができる区域を定めたわけです。この区域は、一定の手続きをすることで来日外国人へ貸与され、建築は外国人の自由でした。
なお、条約文では神奈川とされていましたが、大名行列も通行する東海道に面した神奈川宿周辺を開港場とした場合にトラブルが発生することを恐れた幕府は、当時人家もまばらだった横浜村も神奈川宿の一部であるとして、この地を開港場に定めました。当初外国人の記録にもKANAGAWAと表記されていましたが、次第に実態に合わせYOKOHAMAとして認識されるようになっていきます。
条約により開港場となった長崎、箱館、横浜でしたが、港としての歴史はそれぞれ異なっており、それは港町としての構造に大きな違いをうみだしました。長崎は、いわゆる「鎖国」中であってもオランダと中国には交易を許しており、長崎湾を埋め立てて造成された出島にはオランダ商館長をはじめとする商館員が居住していました。中国人も唐人屋敷と呼ばれる中国人専用居住エリアが長崎市中に設定されていました。箱館は、1854年にアメリカと幕府が締結した条約で、アメリカの役人が居住することが定められており、それ以前から国内交易の港としての機能をもっていました。しかし、外国人が居住していたわけでもなく、交易がおこなわれていた港でもなかった横浜は、1859年7月1日からはじめて貿易港としての歴史を歩みだしたのです。
長崎と箱館は、すでに港町として人々が生活し商業活動が活発に行われていたわけですが、横浜は、それらの港とは異なり、港町としての機能は全くない場所でした。そのため、一から街路の造成をはじめなければならなかったことで、外国人が居住する「外国人居留地Foreign Residence/Settlement」と日本人商店が軒を連ねる「日本人町Japanese Town」との区画をきれいに分けることができました。このような外国人居留地と日本人町とがきれいに分かれる街路になった開港場は、それまで交易を目的とした港としての歴史を持たない、あらたに造られた横浜と兵庫に共通する特徴です。
また、長崎、箱館と違って特徴的なことは、四方が水で囲まれているところにあります。北東側は海、北西側は大岡川、南東側には万延元年ごろに掘削されてできた堀割川、そして南西側にはその堀割川と大岡川とを結ぶ運河が取り囲み、長崎の出島のように橋を渡るか、船を使わないと出入りすることができない場所となったのです。
しかし、これは幕府が外国人の自由を制限するために出島化を狙ったというわけではないようです。開港直後は攘夷派により外国人へのテロ行為が横行しており、それを防ぐために日本人が自由に開港場内へ入れないようにするために、開港場への入り口である橋のたもとや渡し場に関所を設け、不審者を入れないようにしていました。日本人は関所で改めを受けましたが、外国人は条約の規定によりそのような制限を受けずに出入りすることができましたので、外国人の行動制限を目的としたものではなかったのです。
ただし、外国人は散歩や旅行目的で出入りすることは自由でしたが、この開港場の外で貿易活動を行うことはできませんでした。では、どのように外国人商人は日本の産物を購入したり、輸入した外国の商品を日本人へ販売したりできたのでしょうか。
外国人商人が日本の産物を購入することができたのは、日本人町にあった日本人商店の商品だけでした。そこで、外国人商人は日本人商店に発注をかけ、それを受注した日本人商店が産地で商品を仕入れ、販売するという方法が採られました。横浜の貿易品の大半を占めた生糸や茶は、その産地である長野、群馬、埼玉などへ日本人商店が買い付けに出かけ、横浜で外国人商人へ売っていたわけです。逆に、外国人商人が輸入した商品は開港場内で日本人商店との間で取引され、開港場の外では日本人商店が販売を行ったわけです。自由貿易とはいいながらも、幕府と欧米諸国との間で締結した通商条約が撤廃され、居留地が廃止されるまではこのような貿易が行われていたのです。
では、具体的に《横浜居留地模型》について紹介します。
この模型は、1995年3月に県立歴史博物館としてリニューアル・オープンするのにあわせ、新規に制作されたものです。〝よく晴れた、新緑が美しい明治20年代の5月の街並み〟を想定しています。港に向かって伸びる日本大通りを中心とした中央の官庁街[図1]、左右に隣接する日本人町、外国人居留地、の3ブロックからなる模型の範囲は、手前から奥へ向かって、現在の本町通から象の鼻パークや大桟橋がある港周辺で、左右は本町1丁目から産業貿易センタービルがある区画までにあたります。中央の官庁街と右側の外国人居留地部分の一部は制作できていますが、残念ながら諸般の事情で左側の日本人町はまだ1棟も家屋が造られていません。
官庁街の正面にそびえる塔をもつ建物は、1885年竣工の横浜税関です。当時船舶しか海外とつながることができなかった時代において、まさに船舶を迎え入れる玄関口として、輸出入品の一時保管や検査などを行った上屋とともに開港場の中央海側に建てられています。日本大通りの左側、すなわち日本人町側に県庁(竣工年:1873年)及びその手前の本町通に面して横浜郵便局(1876年)や横浜電信局(1886年)といった通信施設がみえます。
一方、外国人居留地側には、3本の煙突が特徴的な英国領事館(1869年)、ロシア領事館(1880年)、169番館(旧スイス領事館)(竣工年不明)といった外交機関がありました。
外国人居留地で目をみはる建築と言えばやはり「英一番」の異名をもつ《ジャーディン・マセソン商会》[図2、現在のシルクセンター]です。スコットランド出身のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンによって1832年広東に設立され、中国ではアヘンと茶の貿易を主力としていました。横浜開港により、当時上海支店にいたウィリアム・ケズウィックが横浜へ派遣されました。白いバルコニーが特徴的な建物は、当時開港場内にあった現在の鹿島建設が施行したとされています。本館は、洋風建築でありながら門はなまこ壁の和風という和洋折衷の建造物です。
それに隣接するのは「亜米一番」とも呼ばれた《ウォルシュ・ホール商会》[図3、手前の建物、奥は香港上海銀行]です。この商会は、トーマスとジョンのウォルシュ兄弟とジョージ・ホールによって設立されたアメリカ系商社です。きれいな西洋庭園が目をひきます。そして、それに隣接する《香港上海銀行》は現在ではその頭文字が銀行名となっているHSBCで、ジャーディン・マセソン商会が中国で貿易活動を行うに際し、本国の銀行へ送金する手間を省くために香港で設立されました。重厚感のある建物です。
宗教施設も密集しています。現在も当時と同じ場所にある《横浜海岸教会》(1875年)と同じ敷地内に、牧師館(1871~1875年)、バラ記念会堂(1871年)が建てられていました。開港したとはいえまだ日本人に対しては禁教令が解かれていない時代でしたが、開港直後にアメリカ長老派のJ.C.ヘボン、同改革派のS.R.ブラウンが、そして1861年にはアメリカ改革派のJ.H.バラ夫妻が来日し、伝導準備のため英語塾を開き、1868年からはこれらの施設で礼拝が行われるようになりました。
なお、横浜のホテルではグランド・ホテルが有名ですが、この《横浜居留地模型》の範囲では、そのグランド・ホテルの増築を手がけたフランス人サリダが設計した《ライト・ホテル》が見えます。この《ライト・ホテル》の支配人となるライトは、元イギリス領事館の保安係でした。はじめ、居留地5番のクラブ・ホテルの別館として《ライト・ホテル》よりさきにその地に建てられたクラブ・ホテル・アネックスの支配人として1891年に雇われ、その後1893年にクラブ・ホテル・アネックスに隣接して建てられたのが《ライト・ホテル》です。木骨石造りの本格的なもので、2階、3階部分の壁は煉瓦が使われています。
最後に、この《横浜居留地模型》は、関東大震災で失われてしまった明治時代の建造物が再現されていますが、見どころは建造物だけではありません。県庁近くでは、日本で発明された乗り物である人力車が客待ちをしていたり、桟橋では荷を運ぶ港湾労働者[図4]を横目にサボって寝ている人がいたりするのが見えます。またホテルへ向かう西洋人の後ろを頭にターバンを巻いたインド系とおぼしき人がトランクを持っています。《横浜海岸教会》の陰では接吻している西洋人カップルの姿があります。建造物以外にも当時の風俗も表現していますので、是非実際にご覧ください。(嶋村 元宏・当館主任学芸員)
【主要参考文献】
横浜居留地研究会編『横浜居留地の諸相―横浜居留地研究会報告―』横浜開港資料館、1989年。
横浜開港資料館・横浜居留地研究会編『横浜居留地と異文化交流―19世紀後半の国際都市を読む―』山川出版社、1996年。
立脇和夫監修『幕末明治在日外国人・機関名鑑:ジャパン・ディレクトリー』全48巻、ゆまに書房、1996~1997年。
澤護『横浜外国異人居留地ホテル史』(敬愛大学学術叢書)白桃書房、2001年。
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