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上小田中村文書 稲毛川崎二箇領用水組井筋村高反別調帳(いなげかわさきにかりょうようすいくみいすじむらだかたんべつしらべちょう)

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2022年6月の逸品

上小田中村文書 稲毛川崎二箇領用水組井筋村高反別調帳(いなげかわさきにかりょうようすいくみいすじむらだかたんべつしらべちょう)

上小田中村文書 稲毛川崎二箇領用水組井筋村高反別調帳(いなげかわさきにかりょうようすいくみいすじむらだかたんべつしらべちょう)

展示期間:現在~7月20日(水)まで
制作年代 江戸時代

 6月の逸品は、武蔵国橘樹郡上小田中村(むさしのくにたちばなぐんかみこだなかむら:現在の川崎市中原区上小田中)に伝わった「稲毛川崎二箇領用水組井筋村高反別調帳」をご紹介します。
 二箇領用水(以下二ヶ領用水とする)とは、多摩川右岸、稲毛領・川崎領(現在の川崎市・横浜市の一部)を流れ、江戸時代は農業用水として、近代には工業用水や横浜の外国人居留地の飲料水としても使用され、現在も水辺の憩いの場として、かわらず人々から愛されている用水路です(写真1)。令和2年には国の文化財に登録されました(登録記念物(遺跡関係))。
 その流域は大変広く、江戸時代には、現在の川崎市内にあたる55ヶ村、横浜市内の5ヶ村、計60ヶ村がこの二ヶ領用水を利用していました(図1)。
 関東へ入国した徳川家康は、多摩川中下流域の耕地面積を増やし、自らの所領の安定した経営を図るために、多摩川両岸に大規模な用水路を開削しました。開削工事を指揮したのは土木技術を持った地方巧者、小泉次大夫吉次です。小泉次大夫は慶長4年(1599)より開削工事を開始し、多摩川左岸の世田谷領・六郷領を流れる六郷用水と、右岸の二ヶ領用水の開削・用水路整備を並行して進め、同16年(1611)に竣工したとされています。
 さて、二ヶ領用水は中野島村(現上川原堰:写真2)と宿河原村(現宿河原堰:写真3)の2か所に取水堰および取入口を持ち、2筋の用水路が堰村で合流(写真4)、久地村分量樋(現在は円筒分水:写真5)で4筋に分かれ、それぞれ葉脈のようにさらに小堀に分かれて各村々へと流れていきます(図2)。
 では、今回の逸品「稲毛川崎二箇領用水組井筋村高反別調帳」(以下「二ヶ領用水高反別帳」と略す)を実際に見てみましょう(資料写真1)。
 「中ノ嶋村宿川原村両口取入玉川用水組合」を利用する村が「六拾ヶ村」であり、その村高(村の生産力をお米の量で表したもの)の合計が「高25964石3斗8升4合5勺」であるとあります。その横には内訳として「御料」(=幕府領)、「御霊屋料」(増上寺領)、「寺私領」(=寺院・旗本の領地)とその支配ごとの合計も記されています。二ヶ領用水の規模が大変大きなものだったことがわかります。
 続いて各村の村高とそれぞれの領主名が記され(資料写真2)、組合村60ヶ村の田の面積(田反別)の総合計から、各村の田の面積が記されます(資料写真3)。二か所の取入口から引いた水が一筋に合流し、久地村分量樋で4筋(溝口堀組合・小杉堀組合・川崎堀組合・根方堀組合)に分かれますが、その分水口は4等分ではなく、組合村々の受益面積に合わせて、水路の幅が違っています(資料写真4)。さらに、本流となる川崎堀には井田堰・木月堰・今井堰・中丸子堰・上平間堰・苅宿堰・鹿嶋田堰の7つの堰が設けられ、残水が川崎領の20ヶ村へと配分されました。
 この資料には、各堀や堰ごとに用水を利用する村名と、その受益田の面積(反別)が細かく記されており、各村では、ここに記されている以外の堀から引水することは固く禁じられていました。その立地から、複数の堀を利用する村もありますが、それぞれに村名とその分水を利用している田の面積が記されています。
 では、この資料の伝来した上小田中村はどの用水堀組合に所属していたのでしょうか。
 上小田中村は「根方堀組合」に所属し、受益田の広さは「45町3反4畝12歩」でした(資料写真5)。また、上小田中村の隣に記されている「神地村」も上小田中村の一部であり、村の東方を指します。上小田中村は神地村・下小田中村・新城村とともに、根方堀の溝口村字下屋敷の堰から引いた水を利用していました。この用水は上小田中村組合用水や、四ヶ村堀と呼ばれています。
 近代の資料ですが、上小田中村地籍図(当館所蔵)を見ると、上小田中村は村の東~北の境が二ヶ領用水の川崎堀であることがわかります(資料写真678(中原村上小田中(神地)全図:当館所蔵)。現在も同様です(図3:二ヶ領用水は昭和11年の流路改修により、直線的になっています)。しかし、どんなに近くても、村の中を流れていても、上小田中村は川崎堀から直接用水を引くことはできません。耕地図には川崎堀の井田堰から引く水路、木月堰(正しくは宮内村飛地)から引く水路、今井堰から引く水路も描かれていますが、これらから上小田中・神地の田畑が水を引くことは基本的にできませんでした。定められた堀以外から水を引くことは水を盗むことになり、下流の村から訴えられてしまうのです。二ヶ領用水でも水をめぐる争論が多数起こっています。
 「二ヶ領用水高反別帳」は、同文の資料が二ヶ領用水を利用する村々で確認されており、組合内での共通認識であったと考えられます。また、争論が起こるたびに同様の資料が作成され、堀を利用する村々とその利用面積が確認されていたようです。上小田中村文書にはもう一冊、文政五年五月に写された「稲毛領用水組合高反別控帳」(以下「稲毛領用水高反別帳」と略す)という、稲毛領についてのみ記されたものがあり、これには村高・田反別・田反別の高(田の生産力)も記されています。
 「二ヶ領用水高反別帳」には作成された年月日が記されていません。文書の最後に享保二年六月付の御印書が記されていることから、享保二年六月である可能性はありますが、領主の名が合わない等、それを疑問視する声もあります。同じく、「稲毛領用水高反別帳」にも「文政五年五月日写之」としかなく、写した日が文政5年(1823)であることしかわかりません。写した日が文政5年であれば、写した文書はそれ以前に作成されたものでしょう。「稲毛領用水高反別帳」の文中には「申年三十六ヶ村」という記述があり、安永五申年三月付で、「稲毛川崎用水水斗り」の御普請(幕府よりお金の出る工事)を認められた旨の文書も記されていることから、この資料は安永5年(1776)の記録である可能性があります。
 一方で、写しが作成された文政5年の前年には「溝口村水騒動」と呼ばれる二ヶ領用水間の水争いが起っており、この争論を受けて、この写しが作成されたのかもしれません。
 「二ヶ領用水高反別帳」は、二ヶ領用水の江戸時代後期以降の様子を詳細に記す大変貴重な資料です。さらに詳しい内容をご覧になりたい方は、凡そ同文の資料が『川崎市史 資料編2近世』に掲載されていますので、こちらをご覧ください。(根本 佐智子・当館非常勤学芸員)

主な参考文献
『川崎市史 資料編2近世』(川崎市 1989)
展示図録『二ヶ領用水ものがたり』(川崎市市民ミュージアム 2011)
根本佐智子「近世後期用水堀争論をめぐる村々:武蔵国橘樹郡下平間村・小向村争論にみる調整機能」(『史艸』56号 2015)

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