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北条氏規(ほうじょううじのり)と「茶の湯」文化
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2022年7月の逸品
北条氏規(ほうじょううじのり)と「茶の湯」文化
はじめに
後北条氏と「茶の湯」文化については、天正16年(1588)に小田原を来訪した茶人
そこで、7月の逸品は「九月二十三日付北条氏規書状」をご紹介したいと思います。後北条氏一族である氏規の書状で、法量は縦33.1cm×横28.6cmです。記された内容からは、天正16年以前すでに「茶の湯」との関わりがあったことをうかがい知ることができます。では最初に書状を作成した氏規とはどんな人物であったのか確認をし、次にこの書状の内容を解読し、氏規と「茶の湯」について考えたいと思います。
1 北条氏規とは
では最初に、この書状を作成した北条氏規とは一体どのような人物だったのでしょうか。氏規は、天文14年(1545)に生まれたとみられ、北条氏の三代
幼少期は今川氏の人質として同21年(1552)頃から駿府(静岡県静岡市)で過ごしています。人質という立場でしたが、母方の親戚ということもあり今川一門として扱われたようです。また、この駿府滞在中に同じく人質であった徳川家康と知り合ったとされます。
さて、元服後の永禄7年(1564)頃に小田原へ帰還すると、三崎城(三浦市)を本拠として水軍を統率し、房総の勢力に対する軍事行動を担うとともに、三浦周辺地域の統治を担当します。さらに、韮山城(静岡県伊豆の国市)と館林城(群馬県館林市)を拠点に北条氏の領国支配を支えました。なかでも西方防衛の要衝であった韮山城には、武田氏や豊臣氏の軍勢の侵攻など軍事的緊張が高まる中で守将として、小田原の最前線で領国防衛に尽力しています。
一方、氏規はこのような領国防衛とともに、外交面においても活躍しました。室町幕府の最後の将軍であった
しかし、その甲斐なく同18年(1590)に豊臣氏との間で小田原合戦が起こり、氏規は韮山城に籠城して戦います。戦後は五代当主の
2 書状の内容と作成年代
次に、今回紹介する書状の内容をみていきましょう。本状は親しい人物から送られてきた手紙に対する氏規の返信です。しかし残念ながら宛先の部分が切断されているため、手紙の相手が誰なのかは分かりません。ただし文中に徳川家康や「朝弥」(
では、本状の内容について簡略に述べておきます。
まず [1] 現在途絶している陸路が通じるのはもうすぐの見込みであること。
次に [2] 相手と対面で積もる昔話をしたいと思っていること。
そして [3] 贈られた箱を秘蔵するつもりであるが、「茶の湯」を知らないので、箱を貰っても仕方ないと思っていること。
しかし [4] 家康からたびたび贈られてくる「無上」(宇治茶)を飲んでいること。
以上が本状の内容です。旧知の人物から手紙とともに箱が送られ、なおその箱が「茶の湯」に関するものであろうことが分かります。
また、本状が書かれた時期ですが氏規の花押の形と彼の「美濃守」の名乗りから、天正6年(1578)から同11年の間と考えられます。更に北条氏と徳川氏の間でやり取りがありつつも陸路が途絶していたという状況から、上記期間6年間のうち敵対勢力である武田氏が駿河国を領有していた時期、同7年(1579)から9年の3年間に期間を絞り込むことができ、この間に作成されたものと考えられます。
3 戦国時代における「茶の湯」文化と北条氏への伝播
では、あらためて戦国時代の「茶の湯」文化の広がりと、北条氏への伝播について考えてみましょう。
そもそも「茶の湯」は堺・奈良・京都の商人たちが新しく始めた文化です。名品の茶道具を披露するために開かれ、茶室において客人を酒食でもてなした後、抹茶を点てて差し上げるというものでした。なかでも堺の商人たちは有力な武家を顧客とし、さらにはその庇護を得るため「茶の湯」を介して結びつきを強めていきます。
この商人発祥の「茶の湯」に対し、
一方、「茶の湯」は織田信長によって、政治的な場面で用いられるようになります。特に茶道具については、信長の家臣
そして、その後継者となった秀吉は、信長が所有していた茶道具を蒐集し所持することで自らの権威を高め、さらに利休を重用し政治交渉の場として「茶の湯」を活用しました。このように、信長や秀吉によって「茶の湯」は政治的色彩を強くしていきました。山上宗二が小田原を来訪した天正16年は、まさにこのような時期だったわけです。そのため、秀吉との交渉に臨む北条氏にとって、宗二の秘伝書伝授は政治的にも重要な意味を持っていたと指摘されています。
それでは、氏規にとっての「茶の湯」について考えてみましょう。氏規は本状において「茶の湯」についてよく分からないと記しています。しかし、若いころは今川氏の許で人質として生活をし、さらに義元側近の関口氏純の婿であったとの指摘もあり、おそらく駿府滞在中に「茶の湯」に触れる機会がたびたびあったのではないかと推測されます。加えて、家康からたびたび贈られてきた宇治茶を飲んでいたことから、少なくとも「茶の湯」の素地となる喫茶の機会があったことは間違いないでしょう。また、旧知の人物とのやり取りの中で「茶の湯」が話題となっていることからも、信長や秀吉のように政治交渉における「茶の湯」ではなく、個人的な交友関係における文化的教養として捉えられていたとみることができるのではないでしょうか。
おわりに
本状から北条氏規は、山上宗二から秘伝書を伝授された天正16年以前に、すでに「茶の湯」に関するやり取りがあったことが分かります。それはあくまでも個人的な交友関係の場においてみられるものであったといえるでしょう。しかしその後、天下統一を狙う秀吉との関係の中で、北条氏の「茶の湯」も、政治交渉の場で必要なものとして位置づけられると否応なしに氏規にとっても「茶の湯」の文化に対する思いの変化が生じたのではないかと思われます。(梯弘人・当館学芸員)
【参考文献】
浅倉直美「天文~永禄期の北条氏規について―本光院殿菩提者となるまで―」(『駒沢史学』90、2018)
石渡洋平「北条氏規」(黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子供たち』宮帯出版、2015)
大石泰史『城の政治戦略』(KADOKAWA、2020)
木下聡「史料紹介「大和家蔵書」所収「大館伊予守尚氏入道常興筆記」」(『東京大学日本史学研究紀要』22、2018)
黒田基樹「北条氏規の三浦郡支配の成立」(同『戦国大名北条氏の領国支配』岩田書院、1995、初出1988)
黒田基樹「今川義元と北条氏規」(同『戦国大名北条氏の領国支配』岩田書院、1995、初出1992)
黒田基樹「北条氏規文書の考察」(同『戦国大名領国の支配構造』岩田書院、1997、初出1991)
竹本千鶴『織豊期の茶会と政治』(思文閣出版、2006)
田中仙堂『お茶と権力 信長・利休・秀吉』(文芸春秋、2022)
則竹雄一「戦国期駿豆境界地域の大名権力と民衆―天正年間を中心に―」(同『戦国大名領国の権力構造』吉川弘文館、2005、初出1999)
橋本素子『中世の喫茶文化 儀礼の茶から「茶の湯」へ』(吉川弘文館、2018)
米原正義『戦国武将と茶の湯』(吉川弘文館、2014、初版1986)
梯弘人「『北条五代記』にみる『山上宗二記』の情報について」(『小田原地方史研究』30、2020)
梯弘人「九月廿三日付北条氏規書状について」(『神奈川県立博物館研究報告―人文科学―』47、2020)
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