展示

山水花鳥人物図カップ&ソーサー

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2022年11月の逸品

山水花鳥人物図カップ&ソーサー

山水花鳥人物図カップ&ソーサー

明治時代
井村彦次郎商店
現在展示中(12月末まで)

横浜と陶磁器
 11月の逸品は、こちらの瀟洒なカップ&ソーサー。一見すると欧米からの輸入品のような印象を受けますが、明治期の横浜で制作されたものです。
 明治から大正にかけて、横浜は重要な陶磁器の産地でした。安政6年(1859)に横浜港が開港すると、多くの外国人が居留地に移り住むようになります。明治になると、万国博覧会への出品やジャポニスムの流行などをきっかけに、欧米で日本の美術工芸品の人気が高まります。各地で欧米に向けた工芸品の制作が盛んになり、居留地のあった横浜や東京を通じて海外へ輸出されました。こうした中、効率的に輸出を行うため、各地から工芸品を扱う商人や職人が横浜や東京へ移り住み、商店をひらき、輸出品の制作を行うようになります。なかでも陶磁器の輸出は特に盛んで、当館のあるあたりにも、当時は多くの陶磁器商が並んでいたようです。
 今回ご紹介する作品はカップが4口、ソーサーが3枚ですが、文様の組み合わせから5客以上のセットであったと考えられます。カップ&ソーサーは元々日本になかった食器であり、輸出のために欧米人の需要に応えて作られたものです。

日本的なモチーフ、絵画的な絵付け
 穏やかな丸みをもつカップは口から高台までなだらかにつながり、竹の節を象った細い持ち手がついています【図1】。ソーサーは高台が広く、カップを受けるくぼみが施されています。ごく一般的な形のカップ&ソーサーですが、驚くべきは素地の薄さです。カップの中を覗き込むと、外側に描かれた絵が透けて見えるほど【図2】。まるで卵の殻のようで、取り扱いには神経をつかったことでしょう。
 カップの側面とソーサーの見込みには、花の咲く水辺の景色が展開されています。それぞれにあらわされたモチーフは少しずつ異なりますが、大体の構図はいずれも共通しています。手前に佇む人物の左手に山々を臨む水辺が広がり、空を横切るように樹木の枝がかかり、その下を小鳥が群れ飛んでいる、というものです。描かれている人物は、笠を手に荷物を背負った旅人や、薪を担いだ木こり、竿を持った釣人など。神話や伝説の一場面ではなく、ふつうの人々が労働の合間に息をついて遠くを眺めているような、日常の様子が切り取られています。日本人の目から見ると、つつましい庶民の暮らしが、金彩を使って華やかに描かれていることに違和感を覚えるかもしれません。しかし輸出工芸品の中には、このように素朴な日常風景を華麗に表現したものが多くあります。欧米人にとって、日本人の生活を描いた牧歌的な意匠は、異国情緒を強く感じさせるものとして好まれたのでしょう。

 さらに細部を見てみましょう。【図3】のソーサーでは、水辺を見やりながら網を扱っている漁夫が描かれています。漁が終わったところでしょうか、足元には魚籠が置かれ、目じりが少し下がった表情はどことなく満足そうです【図4】。手前には菊や芙蓉が咲き、その上を雀や四十雀が楽しげに舞い、小さな花をつけた樹木の枝が頭上を覆うように伸びています。左には葦の生える入江が連なり、その奥にはうっすらと青い山並みが見えます。 手前に位置する人物や小鳥、花は細い線で輪郭が描かれ、羽や服の模様などが細部まで描写されています。一方で入江や山並みは輪郭線を用いず、淡い色彩で遠くに行くにつれ霞むように描かれます。構図や奥行の表現を細部まで見ていると、食器であることを一瞬忘れてしまいそうになるほど、絵画的な絵付けがなされていることに気づきます。

井村彦次郎商店における陶磁器制作
 このような洋食器は、どのように制作されたのでしょうか。
 カップとソーサーを裏返すと、「大日本横濱/井村造」の文字があります【図5】。「井村」とは、明治8年(1875)頃、井村彦次郎が本町2丁目にひらいた、陶磁器製造から販売までを行う井村彦次郎商店のこと。横浜における陶磁器産業を牽引する存在でした。
 横浜はもともと陶磁器に適した土を産する土地ではありません。そのため井村彦次郎商店では、瀬戸などの陶磁器の産地で焼かれた素地や、フランスで作られた洋食器などの素地を仕入れ、横浜において絵付けをして仕上げるという生産方法をとりました。これは原材料を運んで制作を行うより効率的であることに加え、欧米の嗜好を絵付けにいち早く取り入れることができる利点があり、横浜における陶磁器制作の主流となっていきます。井村彦次郎商店は、いくつもの陶器画工場を建て、絵付けのみを専門とする絵付師を雇い、欧米人の好みに合わせた陶磁器を次々に制作しました。明治中頃に制作された銅版画『横浜諸会社諸商店図』にあらわされた井村の陶器画工場の様子を見ると、その賑わいが伝わってきます【図6】。

 もう一度作品を見てみましょう。日本にはカップ&ソーサーを使う文化がないためか、熱い飲み物を入れて使うにはやや心許ないつくりです。しかし、華奢ながらゆがみのない形は、陶磁器の伝統が根付いた産地ならではの作陶技術の高さを伝えています。また井村彦次郎商店で作られた製品の中には、絵付は違うものの、このカップ&ソーサーと全く同じ形をしたものがいくつも見つかります。同じ形の素地をたくさん仕入れ、絵付けを変えることで様々なバリエーションを作り出していたのでしょう。
 文様というよりも絵画と呼びたいような表現は、専門の絵付師によるものです。絵付師には絵師から転向した者も多く、白素地に自在に筆を走らせ、外国人が好む日本的な題材を巧みに描きました。ソーサーを見ると、カップを置くくぼみとすれすれのところまで人物の顔が描かれています【図7】。実際に使った時の見え方よりも、単体として絵画のような構図を重視したものと思われます。
 このように見てくると、素地をつくる産地、素地に絵を描いて仕上げる絵付師、制作をとりまとめる日本の商店、器形やデザインの需要を伝えて取引を行う外国商社、それぞれの技術や思惑が結集したものであることがわかります。このカップ&ソーサーには、世界に開かれた港として各地から人や物が集まり、外国と日本の文化の化学反応があちこちで起こる近代横浜の空気が、ぎゅっと閉じ込められているといえるでしょう。ぜひ、当時の横浜の賑わいを思い浮かべながら鑑賞してみてください。

(鈴木 愛乃・当館学芸員)

参考文献

森田忠吉『横浜成功名誉鑑』横浜商況新報社、1910年
『横浜・東京 明治の輸出陶磁器』神奈川県立歴史博物館、2008年
『神業ニッポン 明治のやきもの 幻の横浜焼・東京焼』求龍堂、2019年
森谷 美保「明治期横浜の陶磁器商 井村彦次郎商店」『陶説』816、日本陶磁協会、2021年

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