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多摩川の川狩―武蔵国橘樹(たちばな)郡長尾村鈴木家資料-
ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。
2022年12月の逸品
多摩川の川狩―武蔵国橘樹(たちばな)郡長尾村鈴木家資料-
今月の逸品では、武蔵国橘樹郡長尾村(現在の川崎市多摩区・宮前区)鈴木家資料から多摩川の川狩についてご紹介します。
多摩川の名産として名高い鮎。
江戸時代には将軍家に御菜肴として献上されていたことでも知られています。
18世紀中頃からは上ケ鮎御用と称した幕府によるお買い上げが開始され、厳選された4寸から6寸(12~18cm程度)の大きさの鮎が1年で1100~1300余尾ほどが上納されました。上ケ鮎に値する質と量を担保するためにも、とくに産卵前の子持鮎が川を下ってくる多摩川の一部は、秋口の時期に「御留川」(漁業制限区)に指定され、御用役を仰せつかった漁師のみが猟を行うことを許されていました。
徳川家による御川狩
将軍やその継嗣が漁猟を見学しに「御川狩」と称し多摩川までやってくることもありました。八代将軍徳川吉宗の瀬田村(川崎市、世田谷区)御成を皮切りに、将軍継嗣、御三卿の御成が幕末まで度々確認することができます。その多くは漁業制限区域の中心であった瀬田河原を拠点に漁猟を上覧し周辺村落産業の見物をするという行程で、遊覧を兼ねて日帰りで行われました。
天保3年(1832)、家慶(後の十二代将軍)御成に随行した成島司直は「玉川紀行」(国立公文書館蔵、参考資料1)に行程を書き残しています。8月28日、矢倉沢往還を西行し瀬田村(世田谷区)にやってきた一行は、この地域の特産品として知られる唐紙の紙漉きを見学しています。その後、川船の上から漁猟を見学しました。成島は多摩川を一見し「また、川倉といふをハしめ、袋網、瀬干、簗なと目路のかきりに河面に設て鮎とるワさのかきりをつくしたり」(見渡す限りに鮎を捕る仕掛けが設けられ技の限りを尽くしている)と記録しており、鮎の漁法として投網・引き網など様々な網漁、川中に簀子状の構造物を組む簗(やな)漁、川の一部をせき止める瀬干漁など様々な方法が用いられていたことがわかります。このあと、一行は鵜飼が鵜を使って鮎を捕る様子も見学し、川の中に入って手での捕獲にもチャレンジしました。
武士たちの川狩
将軍家に追随するように武士たちも多摩川へ遊覧(川狩)に訪れました。
『江戸名所図会』(十巻、天保7年(1836)、松濤軒斎藤長秋、当館蔵、参考資料2-1、2-2、2-3)には鮎が目当ての人々が初夏から晩秋にかけて多摩川を遊猟に訪れることが紹介されています。
鈴木家も多摩川の川狩に訪れる武士たちから宿や案内を頼まれており、その記録が鈴木家資料中に残っています。鈴木家資料「祝儀仏事控」(文化5年5月吉日、当館蔵)は祝儀、不祝儀、法事をはじめ、村人困窮時救済のあらましまで、鈴木家が収受した金銭物品を書き記した記録帳です(写真1)。「天保十亥年四月十七日八丁堀左ノ御名前様方川猟之節」の記事を見てみましょう(写真2)。
南町奉行所与力五番組安藤源五左衛門ほか5名、同心2名が、供の者と活鯛所(御肴役所)の者10人を連れて長尾村に来訪しました。
この川狩にあたっては、猟師7人(1人当たり500文)、船頭6人(1人あたり400文)を雇い入れ、鮎駕籠、糸、蚊鉤(かばり)、引綱、船の掃除代、そして猟師・船頭の弁当代・酒代まで手配されたことがわかります。
一行が川狩で採用した漁法と考えられるのが蚊鉤を使った釣漁です。鮎に傷がついてしまうことから上ケ鮎御用においては釣漁は避けられていましたが、見た目を気にしない場合は一般的な漁法であったようです。『魚猟手引草』(年不詳、城東漁夫、国立国会図書館蔵、参考資料3)には鮎の釣り方として蚊鉤釣がまず紹介されています。
「あゆ、かばりにてつる、かばりといふものハ、鶏の羽子(にハとりのはね)にて作るものなり」(参考資料3-1)
現在も毛鉤釣りとして鮎の漁法として盛んですが、蚊鉤とは鮎が水面近くの虫を食べる習性を利用した漁法です。釣り糸に30センチ間隔で5つほど蚊鉤をつけて、水上に漂わせて鮎を誘いました。
「すべてかばりといふハ一本の糸に壱尺位ツヽ間を置五ツも付てつるなり、此を水上へ流しおけバあゆハ虫と思ふてくひ付ゆへ其処々にて多くあるむしの形チに似せて作るなり」(参考資料3-2)
八丁堀一行が訪れた4月は、鮎が川を遡上する「上り鮎」の季節。一行来訪一年前の天保9年(1838)は多摩川全域に対して若鮎を守るために簗などの漁法を禁じる触が出され、鮎漁場としての秩序が整理された年でした。将軍一行のような様々な漁法を御覧じたわけではありませんが、釣糸を垂れて若鮎釣りを楽しんだのかもしれません。
釣の成果は不明ですが、入用品の記述には捕獲した鮎用と考えられる籠代34枚分が挙げられており、また、追加で事前に捕まえておいた鮎を鮎籠26枚分購入したことがわかります。鮎籠1枚につき10尾程の鮎が乗っていると勘案すると中々の数です。
弘化4年(1847)にも町奉行役人4名が川狩りに訪れ、8月17日に鈴木家に一泊し食事と酒も楽しんでいます。また、同じ年の8月27日から29日にかけては、天保10年(1839)川狩に来村した町奉行与力仁杉八右衛門の奥方・娘衆3名が供を連れて川狩に訪れています。鈴木家当主の藤助は父、父の後妻含んだ8名で迎え、漁師4人、船頭5人を手配し案内しました。この川狩り中には鮎籠9枚分の漁獲があり、追加の鮎籠11枚分を購入して都合20枚を持ち帰ったことがわかります(写真3)。
長尾村は直接多摩川に隣接する村ではありませんが、鈴木家では八丁堀一行以外の武士に対しても案内や漁師・船頭の世話などを行っていました。鈴木家が多摩川を利用して塩の販売などを行っており川船を有していたこと、宿河原村船頭や商売相手の武士など広い交友関係があったこと、長尾村内等覚院を訪れる宗教者たちの宿としても機能していたことなどの理由から、川狩りの世話を依頼されたと考えられます。
初夏には若鮎、秋には産卵を控えた子持鮎と、季節を越えて釣人達を楽しませてくれる鮎ですが、12月ともなると産卵シーズンも終盤です。卵から孵った稚魚たちは寒い冬の間、川を離れて海で過ごします。水温む頃まで多摩川とは一刻のお別れです。
(寺西 明子・当館学芸員)
参考文献
『福生市史 上巻』福生市、1990
太田尚宏「近世多摩川における鮎上納制度について」『地方史研究』40、1990
根本佐智子「多摩川の鮎」(かわさき市民アカデミー2006後期)講演資料『多摩川と世田谷の村々』世田谷区郷土資料館、2021
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