展示
八幡義生の中世鎌倉コレクション
ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。
2023年1月の逸品
八幡義生の中世鎌倉コレクション
今月の逸品は、令和4年(2022)に寄贈を受けた八幡義生氏旧蔵資料(824点(採集・出土遺物251点・拓本類573点))のうち、中世鎌倉に関するコレクションを紹介します。
八幡義生と國寳史蹟研究会
鎌倉市に居住した在野の研究者八幡義生(やはたよしお、1907-1975)は、公立学校の教員を務める傍ら、鎌倉を中心とした数々の遺跡調査や文化財調査に携わった人物です(図1)。東京生まれの八幡は、関東大震災後に鎌倉に居を移し、昭和11年(1936)に民間団体の「國寳史蹟研究会」を鎌倉に発足させ初代会長に就き、市民を巻き込みながら文献史料に通じた実証的な地域史研究と史跡・文化財の普及啓発活動を行ってきました。同会では、定期的な研究例会や史跡見学会を催しながら地元鎌倉の資料調査・研究や市民への成果還元を進め(図2)、さらに昭和13年(1938)から刊行された雑誌『國寳史蹟』は現在に至るまで継続して刊行されています(図3)。また同会は伝北条時政邸跡や永福寺跡の保存運動等にも尽力しており(後述)、文化財保護活用がいまだ整備・確立されていなかった時代において、八幡や彼が発足させた民間団体がその重要な役割を担っていました。
さて、当館が所蔵する八幡義生氏旧蔵資料は、八幡個人が戦前から戦後にかけて収集した、鎌倉市内出土遺物をはじめとする資料群で構成されており、内訳は、青磁・白磁片などの貿易陶磁器類、常滑・渥美などの国産陶磁器類、かわらけ、瓦片、板碑・梵鐘・軒丸瓦・軒平瓦の拓本類(図4)、調査時の写真類など非常に多岐にわたります。勿論、これらの資料は「発掘」「出土」と称されながらも、現在の考古学研究の調査記録方法からすれば、その精度は当然ながら劣るでしょう。しかしながら、各採集資料には名称・採集地点・採集時期や備考を記した紙片が付属するなど、資料性を高めるための姿勢がうかがえます(図5)。またこれら資料群のなかには、入手時の情報が詳細に直接墨書されたものも多く、それらは昭和20年代から30年代の時期に集中しています。鎌倉市内個人住宅の敷地内で発見された遺構や遺物の情報が八幡に寄せられ、請われて調査に赴き、資料を入手した経緯も分かるのです。
高度経済成長による列島各地の開発事業はここ鎌倉にも及び、昭和30年代から宅地開発が大規模に進められました。谷(ヤト)の地形のために平地の少ない鎌倉では、丘陵部の山側が切り崩されて造成が行われましたが、これらの場所には中世の廃寺跡ややぐらといった宗教施設が点在しており、いずれも破壊により多くの遺構・遺物が失われました。かかる状況にあって、八幡や同会の活動姿勢にも変化がみられ、これまで収集した調査成果の整理を行いつつ、かつて調査した資料の発見経緯やその特色を改めて紹介するなど、地域資料を後世へ伝え遺そうという意図がみえるようになっていきます。またこの時期、鎌倉郷土史同好会が雑誌『星月』を刊行し(図6)、同会の名誉会長に八幡が就任しており、民間研究団体による活動の最盛期でもありました。
永福寺跡の保存運動
八幡義生と國寳史蹟研究会は史跡保存にも尽力し、永福寺跡の保存運動では大きな役割を担いました(図7・図8)。永福寺跡では昭和27年(1952)春頃にテニスコート建設計画が持ち上がり、庭園内の苑池跡の埋め立てが開始されてしまいます。これを受け、八幡をはじめとする國寳史蹟研究会役員会では同年9月14日に永福寺史跡保存に向けた五箇条の提言を行っています。その末尾には「吾人は、今後本遺蹟の保存に関して最大の努力をなさんとするのであるが、國・縣・市、夫々関係方面の一段の盡力を以て速かに適切なる處置を構じ、永久に本遺蹟を保存せられんことを祈念するのである」と記します。八幡は文部省文化財保護委員や県文化財保護審議会議長とともに保全措置の陳情を行い、市民の力で永福寺保存運動を展開しました。
こうした努力が実り、昭和28年(1953)に神奈川県史跡指定となり、苑池の大部分は保存されることとなりました。八幡は雑誌『國寳史蹟』27号に「永福寺之記」や「永福寺跡神奈川縣文化財保護条例による史蹟指定」などを執筆し、一連の保存運動のあらましについて『鎌倉・永福寺址史蹟保存に関する要録』(八幡義生氏鎌倉遺跡調査ノート所収(鎌倉市中央図書館所蔵))を残し、先の『國寳史蹟』27号の編集後記で「永福寺史蹟が神奈川縣史蹟指定になったにつき、かつて本会も多少助力した事ここに報告してまとめた」と結んでいます。
鎌倉市内での宅地造成が進み、かつての景観や遺構の破壊という危機に直面するなか、八幡義生は実証研究を背景に日常的な鎌倉研究の継続と市民への成果還元をしつつ、そうした活動の連続から保存運動へと結実させていきました。黎明期の鎌倉研究を支え、かつ現在にいたる鎌倉の地域研究の基礎を準備した人物といえるでしょう。八幡義生の活動は、現在子息の八幡義信氏(元当館学芸部長、現神奈川県文化財協会会長・國寳史蹟研究会会長等)に継承され、鎌倉を中心に今もなお市民による実証的な研究活動が続けられています。
黎明期鎌倉研究を支えた在野の研究者八幡義生。彼の旺盛な地域研究の活動の一端を、遺されたコレクションを通じて知っていただけたら幸いです。
(渡邊 浩貴・当館学芸員)
参考文献
『小井川理「地域の研究会が記録する鎌倉の文物」(平成24~26年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(一般))研究成果報告書『中世鎌倉地域における寺院什物帳(文物台帳)と請来遺品(唐物)の基礎的研究』(研究代表:古川元也)、2015年)
神奈川県立歴史博物館特別展示図録『永福寺と鎌倉御家人』(小さ子社、2022年)
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