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かながわの上巳の節供
ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。
2023年3月の逸品
かながわの上巳の節供
上巳の節供とは
3月の年中行事といえば、雛まつり。座敷に可愛らしい雛人形たちが飾られるこの行事は、上巳(じょうし/じょうみ)の節供、桃の節供ともいいます。
今日の上巳の節供は女児の健やかな成長を願い、玩具の「飾り人形」を美しく並べて祝う行事として認識されていますが、かつての上巳の節供は、男児にとっても特別な日でもありました。また、人形を飾るようになったのは室町時代から江戸時代の貴族や武家などの都市部の上層階級にかけてのことで、ことに農村漁村にまで広く浸透したのは近代になってからといわれています。小稿では上巳の節供のはじまりと県内で行われていた事例を紹介しましょう。
祓と人形
上巳の節供は、[1]中国大陸から伝来した水辺で災厄を祓(はら)う習俗と、[2]我が国において人形(ひとがた/にんぎょう)に災厄を移す行為が結びついたものです。
[1]中国の春秋戦国時代の国の一つである鄭(てい)(紀元前806~375年)には、桃の花が咲く三月の上巳に水辺で災厄を祓う習俗がありました(註1)。日付を表す干支の巳(し/み)の日が3月3日に固定するのは中国の魏(220~265)の頃で、7月7日の七夕などと同じく縁起が良いとされる陽数(奇数)が重なる3月3日は「重三(ちょうさん)」ともいわれました。[2]我が国では古代から災厄を祓うために、人形を呪具(じゅぐ)として用いていました。これは人形に息を吹きかけたり肌に押し当てたりして心身の災厄を人形に移して海や川などの水辺に流し棄てる風習で、平安時代の『源氏物語』にもその記載がみられます。現在でも鳥取県鳥取市用瀬(もちがせ)町では、旧暦3月3日に男女一対の小さな紙雛に災厄を移し、それを桟俵の上に載せて川に流す「用瀬の流しびな」(県指定無形民俗文化財)が行われており、その遺風を伝えています。また人形を呪具として用いると共に、貴族の幼女にひいな遊び(雛遊び)という人形遊びがありました。その人形が次第に意匠の凝ったものになると、人形は棄てられずに保存されたり贈答されたりするようになりました。こうして人形は呪具としての性格が薄れ、玩具として飾って楽しむ雛人形になっていきました。室町時代になると雛人形だけでなく、雛人形に調度品も整えられるようになり、江戸時代には貴族社会だけでなく武家や上層の町人階層でも盛大に雛祭りが行われるようになりました。江戸時代後期の江戸の年中行事や風俗を記した『東都歳事記』には
今日より三月二日迄雛人形同調度(どうぐ)の市立 待上に仮屋を補理(しつお)ひ、雛人形諸器物に至る迄、金玉を鏤め造りて商ふ。是を求る人昼夜大路に満てり。中にも十軒店を繁花の第一とす(註2)。
とあり、雛市の盛況ぶりを伝えています。
3月3日の磯遊び・山遊び
上巳の節供では雛人形を飾るだけではなく、磯遊び・山遊びといって海辺や山に出かけることも広く行われていました。ここでは太平洋戦争以前の県内の磯遊び・山遊びの事例をみていきましょう。
事例1 湯河原町吉浜
雛飾りをした後、四月二日か三日(月遅れの雛の節供)に引き汐をみて、磯遊びに行き、ツノッカジ(海胆[うに])やナミノコ(小さな巻貝)等をとって来てお雛様に供える。これはお雛様も一緒に磯遊びをさせるためだという(註3)。
事例2 秦野市峠
主として女の子が寿司や甘酒・お菓子などを持って、花見だといって見晴らしのよい山へ遊びに行った(註4)。
事例3 伊勢原市大山
女児は終日おひなさんの前で過ごすが、男児は弁当やあられを持って山遊びをしたという(註5)。
事例4 藤沢市村岡
お煮しめを作りお重に詰めて、雛人形を持って、女の子だけで海のみえる高台へ行き、そこで雛をかざり一日遊んだ(註6)。
事例5 大磯町黒岩
男の子は山で戦争ごっこをやった(註7)。
事例6 大磯町黒岩
女の子たちは、甘酒や寿司、羊羹などのご馳走を重箱に詰めて山へ花見に行った(註8)。
事例7 藤沢市片瀬
子供のある家では、御馳走や白酒を持って海岸へ行き、近所の人たちとおすしなどを取りかえっこしながら食べた(註9)。
県内各地の事例からは、皆で近隣の海や山へ出かけ、戸外で共同飲食を行っていたことがわかります。事例1では潮干狩りを行い、そこで採れた磯の生き物を雛人形に供えています。事例4と7でもご馳走を持って海の見える場所に出かけています。3月3日は大潮の時期です。大潮は太陽と月の位置関係から満月と新月の頃に起こり(実際は海水の慣性等により1~3日後)、一年の中では春分と秋分の時期に干満の差が最大となります。このため潮干狩りには大潮の時期である上巳の節供の頃が最も適しています。上巳の節供では寿司や甘酒などの他に、蛤(はまぐり)の吸い物などの行事食が用意されることはこの磯遊びに因っているのです。事例2、3、5、6は山へ出かけており、この日は大人も子どもも農作業を休み、行楽の時を過ごしています。事例5では男児が山で戦争ごっこをしたとあります。秦野市の明治・大正時代の類例には、
(3又は4月の)三日、四日が近づいてくると、子供たちの陣地作りが開始される。村境の山の丘に竹ざおを立て、日の丸を掲げ綱を張り万国旗などを掲げた。(中略)この花見は地域対抗の子供争いの日でもある。お互いに村境に陣地をしいてのにらみ合いから決戦の火ぶたが切られる。まずお互いの悪口の言い合い、そしてお互いに攻めていき、村境(川、山)での石合戦となり、それが終日続くのである。(中略)こうした石合戦も戦後しばらくは続いたが、今日では全く見られなくなった。
とあります。このような子ども同士の争いは太平洋戦争が次第に激化してくると兵隊ごっことなり、竹製の鉄砲や剣などを作って白兵戦をしたといいます(註10)。今日の上巳の節供は雛人形を飾る女児の行事と思われがちですが、上記のように男児は地域をあげた子ども同士の争いを行っていました。これに出かける男児には、ハレの日の食事として重箱に詰めた寿司や煮しめ、甘酒などを持たせてやり、それを仲間内で交換して食べたといいます。このように上巳の節供は男児にとっても特別な日でもありました。
磯遊びや山遊びが行われる根底にはどんな意味があるのでしょうか。この時期は田植えなどの農事に先立つ頃でもあります。今日の磯遊び・山遊びはレジャー的傾向が強いものになっていますが、これは前述したように、上巳の節供の時に心身の災厄を海などの水辺で祓うためであり、戸外での共同飲食は屋外で飯を炊いて神と人が交流をするためだと考えられています。また山遊びは花見・山見と称して田の神を迎えるための山籠りであるとされています。
当館の雛人形
当館2階の民俗展示室の復元民家内では、上巳の節供にあわせて雛人形を展示しています(写真1)。現在の内裏雛の多くは、左側に男雛、その右側に女雛を配置しており、これは昭和3(1929)年の昭和天皇の即位大礼時の天皇皇后の高御座の位置に倣ったものです。今回紹介する内裏雛は平塚市吉沢で明治時代末期から大正時代まで使用されていたものと思われるため、当館の内裏雛の展示はそれとは逆に配置しています。
大正時代末頃までの女児のある家では、数日前から雛人形を飾ります。初節供には、内裏雛は母の実家から、両親の仲人親、親戚、隣組などからは「浦島太郎」(写真2)、「舌切り雀」「花咲爺」「高砂」などの昔話や伝説に登場する人物や、市松人形・キューピー人形・ぬいぐるみなど様々な人形が贈られました。当日はご馳走として餅を搗いたり、白酒やあられ、煮しめ、寿司などをこしらえたりして雛人形に供え、家族一同で食べました。平塚市吉沢を含む県内の上巳の節供は、昭和30年代くらいまでは月遅れの4月3日に行われていた地域が多くありました。
以上のように上巳の節供は複数の要素が重なり合って形成されてきました。展示室では上巳の節供飾りを4月下旬(予定)まで展示しています。各地の華やかな雛飾りはこの時期の風物詩としてニュースになるところですので、身近な年中行事の一つである上巳の節供からこの行事の持つ意味に思いをはせてみてください。
(新井 裕美・主任学芸員)
参考文献
神奈川県企画調査部県史編集室『神奈川県史』各論編 5 民俗、神奈川県、1977年
平塚市博物館市史編さん係『平塚市史』12 別編 民俗、平塚市、1993年
五十嵐謙吉『歳時の文化事典』、八坂書房、2006年
小川直之『日本の歳時伝承』アーツアンドクラフツ、2013年
平塚市博物館『女の子と男の子のお雛さま―桃と端午の節句人形―』2017年
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