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五姓田義松 明治を描く ―故西川杏太郎元館長への哀悼を込めて

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2023年4月の逸品

五姓田義松 明治を描く ―故西川杏太郎元館長への哀悼を込めて

五姓田義松 明治を描く ―故西川杏太郎元館長への哀悼を込めて

トピック展示「明治の美術」より 浪曲の女 五姓田義松
展示場所:常設展2階 テーマ4 近代

 平成27年(2015)、没後100年を記念して、五姓田義松の展覧会を開催しました。幸い、多くの方にご覧いただき、義松は明治時代を代表する画家として認知されるようになってきました。しかし、その魅力はまだまだ十分に伝えきれていないという反省があります。そこで、このたびの「今月の逸品」も義松の魅力の一端に迫る機会にしたいと思います。そして、その切り口は「明治」という時代に据えたいと思います。
 明治という時代を考えることは、いま、現代を考えることにつながります。明治には、西洋から学びながら、多くの社会制度が整えられていきました。美術もそのひとつでした。トピック展示「明治の美術」では当館所蔵品を中心に紹介しながら、その活動の大きな広がりを、1年を通じて考えていきたいと思います。
 開館以来、当館では幕末明治の美術を集中的に収集し、調査研究そして展示活動を継続してきました。その理由は、当館が横浜に立地しているという地域性に由来します。また、その時期の美術やその周辺の造形は、西洋の視覚文化を直接的に学んで反映し、また同時に、日本という存在を海外にアピールする性格が認められます。幕末明治そして近代という、より大きな時代の特徴を直接的に理解するには、美術という切り口がたいへんに有効なのです。
 義松の履歴はこれまでたくさん執筆しましたから、ここでは割愛をします。この小文では、義松が描いた作品の魅力を簡単に記したいと思います。それは、一言でいえば、時代を切り取っている、また彼しかできない切り取り方をしている、という点です。つまり、江戸時代までの技術とは異なり、鉛筆や水彩によって見たままのかたちをそのまま二次元化しようとする洋画の技術で、同時代の人々や風景を切り取った点にあります。いま私たちが日常をスマートフォンなどのカメラ機能でなにげなく撮影するように、彼が生きた周辺を描いています。たしかに、彼以前にも同様の試みをした絵師は数多くいます。しかしその技術は洋画ではありませんし、同時代で試みた絵師、画家は少ないのです。明治であれば、写真が渡来していると指摘する方もいるでしょう。しかし、先に記したような、気軽に撮影できるほど、まだ写真術は発展していたわけではありません。
 また、義松も写真の存在は意識していたのだと思います。ですから、彼が描く作品は、実は当時の写真・カメラでは表現し得ない「動き」や「色」に注力しています。たとえば、街中で働く人々(図1)、口を大きく開けて唄う人(図2)、夕焼け(図3)などです。洋画と写真の関係でいえば、写真が薄くなって消えしまうので恒久性ばかりが指摘されてきましたが、義松の場合、さらに別の要素でも差別化をはかっていたと考えられます。そしてこのとき、彼が描いたすべてが明治という時代そのものといえます。ちょんまげ姿の人、ザンバラ頭の人、明治前期に流行った月琴や、新しい街横浜など、彼が選択した多くが、写真にもうつっていない「明治」そのものなのです。


※令和5年(2023)4月14日から5月31日まで、愛知県美術館にて企画展「近代日本の視覚開化 明治」が開催されます。当館が特別協力をさせていただき、当館所蔵品や寄託品が多数出品されます。もちろん義松をはじめ、五姓田派も多数出品されます。明治という時代の美術、またその周辺を知る上では絶好の展覧会といえます。国内でも屈指の規模を誇る美術館での展示で、明治の美術やその周辺を総合的に扱う展示としては前代未聞の規模と思います。ぜひ、愛知県美術館へも足をお運びください。


 さて、この場をお借りしまして、以下、小文を記させてください。
 平成14年(2002)4月から平成23年(2011)5月まで、当館館長をつとめられた西川杏太郎氏(画像)が、去る2月、お亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。そこで哀悼の意を表して、僭越ながら西川元館長について、私の思い出を記したく思います。

 私が当館へ奉職したのが、まさに西川館長時代でした。私にとって初めての博物館現場でした。そのためでしょう、私のなかで「館長」といえば、西川館長だと刷り込まれてしまっています。ですから、ここでは、西川館長と記させてください。
 西川館長は、文化財保護行政のスペシャリストでした。当館館長になる以前に、国立の博物館や研究所の長を歴任されました。そして、仏教彫刻研究の泰斗でもいらっしゃいました。そのような経歴をもつ方が、地方の博物館館長に就任されたことは、業界としても驚きだったようです。ご本人としては、培った知見を多くの現場で活用したい、若い世代へ伝えたいという思いだったと聞いたことがあります。
 私が西川館長と初めてお会いした日は、採用試験の面接でした。近代美術の新採用学芸員の面接に、西川館長自らが審査に臨まれていたのです。もちろん、異例だったと思います。面接室でお目にかかった時、雲の上の人と会話しなければならないという緊張で頭が真っ白になり、しどろもどろな回答ばかりでした。しかしながら、なにが幸いしたのか、奉職でき、その後、新米学芸員として折々に指導をうけることとなりました。ちなみに、館長は「君の声が、一番、聞き取りやすかった」とのことでした。
 西川館長と私の年齢差は、ちょうど半世紀です。ですから、西川館長からの言葉はすべて、常に重いものでした。含蓄深く、刺激が強く、ときに稚気もあって、未熟な私などはその内容の半分も理解できないことがしばしばでした。ただ、どのお話でも、館長がその生涯をかけて築かれた「文化財保護」にかける情熱や姿勢のエッセンスだということは、うっすらとでも感じ取ることができました。まさに昭和戦後、その第一線で活躍された方のすごみも肌で感じることができたことも幸いでした。
 毎週金曜日が西川館長の出勤日でした。その日は朝から、全館に緊張感が満ちていました。私だけではなく、おそらく当時の当館全職員が、館長の叱咤激励を、うれしく、時につらく受け止め、仕事へと結びつけていました。
 特に展覧会開幕前の前日が、最も緊張感の走る日でした。その日もたいてい金曜日でした。館長が出勤されると、真っ先に担当者と展示室へ向かうのです。そのときまでに出来上がった展示を見て、修正等の指示や意見があります。大幅な修正が必要となったこともありました。それほどに、館長自らが展覧会について、強い思い入れがあったのです。展覧会とは書物とは違う、モノで語ること。見やすく、楽しく、そして安全に展示すること。キャプションの字数は少なく、そのなかで来館者にわかりやく伝えること。展覧会図録は多少難しくともよいからきちんと新知見を示すこと―その長きにわたる経験の中で生まれたコツを、仕事を通して教えていただきました。
 幸い、館長が勤められていた時期は、当館の事業は全体的に活性化され、入館者数は毎年のように右肩上がりとなっていました。「入館者数はあまり気にしなくてよろしい」と常々おっしゃられていたのですが、やはり館長として気になったのでしょう、多くの来館者があった展覧会や、その報告があると素直に喜んでいた館長の笑顔が思い出されます。

 私にとって、そしてこの逸品でも記す五姓田義松にとって、西川館長は大恩人といえます。というのも、私が担当する近代美術の学芸員採用は、義松没後100年を見越したものだったと、直接うかがったことがあります。没後100年展を開催するために、事前にきちんと準備しなければならない、そのための専門の学芸員を採用しなければならない、だから自ら面接に臨んだのだ、と。とはいえ、近代美術史を学ぶ者にとって、義松はビッグネームです。当時、未熟だった私にはとても重荷でした。そこで、平成18年に義松を含めた五姓田派の展覧会を企画し、「五姓田のすべて」を開催することでステップアップにしようと思いました。ただ、そのようなステップアップだとしても若手学芸員が本当に開催できる能力があるのかと、館長は危惧されたようです。展覧会開催の前年、その企画内容の説明を求められました。館長と二人きりで、収蔵庫から実作品まで持ち出して、2時間、必死に説明しました。それが功を奏したのでしょう、その後は、出品交渉や予算のことなど、いくつもの難局で館長からの力添えがあり、無事、展覧会は開催できました。そして、平成27年の没後100年展へとつながっていきました。
 そのときは、もう当館を退職されていたのですが、同展でも陰ながら多くのご支援を頂戴していました。西川館長の後押しがなければ、義松はこれほどの知名度を獲得できなかったと思います。
 仏像研究を専門とする方が、なぜ、近代美術に興味があるのだろうか、応援してくれるのだろうか、今でも不思議に思っています。この疑問をご本人に直接うかがうことはできませんでしたが、きっとこういうことだろうと浮かぶ答えがあります。それは、文化財、という考え方です。西川館長は、長い間、その言葉の社会的な定着に努めてきたという話もうかがったことがあります。古今東西、有形や無形はあれども、様々なモノ、すなわち文化財を愛でるのがよい、それが心の栄養になるのだと、折々に話されていました。そして、ご本人自身が、様々なモノや文化を、分け隔てなく、ひろく自由に楽しむ心をお持ちでした。そして、それらを発信する場としての博物館が大好きでした。ですから、当館が大切にしてきた五姓田義松にも興味関心を示し、質の高い作品を残し、この国の風土や人を描いた作品を尊ばれたのだと思います。有名無名問わず、きちんとそのモノの本質を見抜き、大切にする館長の姿勢は、自身の学問分野に限らずに、ひろく大きい博物館人としての正しいありかたから生まれたと、私は思います。

 館長のことを考えると、私はいまだに緊張して、自然と背筋が伸びます。背筋を正して、学芸員として、博物館人として仕事に向き合う厳しさと楽しさを教えていただいたことに感謝しかありません。文化財を護り、伝え、ともに楽しむ、その現場としての博物館-この日本の社会でそのような種をまき、育ててきた方が西川館長でした。当館もそのひとつです。これからも、その教えを大切にして、よりよい博物館活動を続けることを誓い、故人への追悼とさせていただきます。

(角田 拓朗・当館主任学芸員)

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