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戦国時代の動乱に巻き込まれた円覚寺と戦国大名北条氏の危機対応

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2023年6月の逸品

戦国時代の動乱に巻き込まれた円覚寺と戦国大名北条氏の危機対応

戦国時代の動乱に巻き込まれた円覚寺と戦国大名北条氏の危機対応

資料名:北条家朱印状
文書群名:帰源院文書
作成年月日:(永禄4年・1561)2月28日付
形態:折紙
寸法:34.2㎝×50.4㎝
差出:虎の印判(北条氏政)
宛所:円覚寺
展示期間:2023年6月3日(土)~7月2日(日)予定
展示場所:常設展3階テーマ2展示室

はじめに
 今回は、当館所蔵の「北条家朱印状」(釈文)(帰源院文書)をとおして、戦国時代の動乱に巻き込まれた円覚寺(えんがくじ・鎌倉市)と戦国大名北条氏(後北条氏)の危機対応の様子をご紹介します。北条氏と鎌倉のつながりについては、二代氏綱による鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の修造がよく知られており、氏綱はその功績により「(関東)八か国」の「大将軍」にふさわしい存在とみなされ、以後、関東における正当な支配者としての地位を確立していったと考えられています。その北条氏は鎌倉を襲った危機に際してどのように対応したのでしょうか。
 さて、本状は円覚寺の塔頭(たっちゅう)帰源院(きげんいん)に伝わった文書です。年紀はありませんが記載内容から永禄四年(1561)二月二十八日に北条家の四代当主氏政が円覚寺に宛てたもので、当主専用の朱印(虎の印判)が押されていることから、「北条家朱印状」と称されています。
 円覚寺は鎌倉時代に八代執権北条時宗によって建立された臨済宗の古刹で、室町時代においても鎌倉五山第二位の格式を誇る大寺院でした。戦国大名北条氏は円覚寺に対して所領を寄進し、寺内での訴訟を仲裁するなどのさまざまな支援を行っています。他方、北条氏と戦っていた岩付太田氏との和議を円覚寺派の僧が取り成すなど、北条氏と円覚寺は相互協力関係にあったとみられます。
 そのような円覚寺も戦国時代の動乱とは無縁ではいられませんでした。今回取り上げる文書からは、北条氏のライバル長尾景虎(ながおかげとら、のちの上杉謙信・うえすぎけんしん)の関東侵攻よる混乱状況をうかがい知ることができます。

長尾景虎の関東侵攻
 まず、本状が作成される契機となった永禄三年(1560)から翌年にかけての越後国(新潟県)の長尾景虎による関東侵攻についてみていきましょう。景虎は永禄三年、北条氏に追われた関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(のりまさ)を奉じて関東に出陣します。ここにおよそ二十年続く北条氏と景虎による関東の支配権をめぐる争いの火ぶたが切って落とされました。景虎は九月に三国峠(新潟県・群馬県)を越えるとそれまで北条氏の傘下にあった勢力を糾合し、翌年上野国(群馬県)から小田原を目指して進軍を開始しました。北から迫りくる景虎を中心とした上杉軍に対し、その圧力に押された北条氏は守勢に回り、小田原城をはじめ拠点となる城に軍勢を集めて抗戦を続けます。
 上杉軍は永禄四年二月に柚木(ゆぎ)(東京都八王子市)等で北条軍と衝突、三月には当麻(たいま)(神奈川県相模原市)に着陣しました。同月二十二日頃には酒匂川(さかわがわ)西岸に到達し、小田原城の攻撃に移ったものとみられます。遠征軍を率いる景虎は七日ほど戦いを続けますが、北条氏と同盟関係にあった甲斐国(山梨県)の武田信玄や駿河国(静岡県)の今川氏真の動きや、小田原城の堅い守りに接して、小田原から軍勢を引きあげ、その足で鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝しました。その際、上杉憲政から関東管領職と上杉家の家督の地位を譲られ、景虎は上杉政虎(まさとら)を名乗るようになります。

鎌倉での混乱
 上杉政虎はこれ以降、冬は関東に侵攻し、年があけた春から夏の初めごろにかけて越後国に帰るということを繰り返します。これは冬の間雪に閉ざされる日本海側を離れ、関東において食糧そのほかを調達するためでしたが、その調達方法は略奪という暴力的な手段によることもありました。永禄三年から四年にわたる侵攻においても、軍勢による略奪があったことから、各地は混乱に陥りました。それは鎌倉周辺の地域も例外ではなかったようです。
 円覚寺では、南下してくる上杉軍から逃れるため、鎌倉周辺の人々が寺内に押し寄せ、末寺の大慶寺(だいけいじ・鎌倉市)からも本尊が難を逃れるため移されました。円覚寺は周辺の人々の避難所としての役割を果たしていたといえるのですが、反面寺内では、円覚寺僧の履歴書である「床暦」(しょうれき)が紛失する事件が発生するなど混乱をきたしました。

北条氏の対応
 このような状況下、円覚寺は北条氏に対し、寺内における不法行為の取り締まりを求めました。それを受けて作成されたのが、今回ご紹介する「北条家朱印状」です。本状が作成された二月二十八日は、上杉軍が相模国へ到達した頃でした。すでに鎌倉周辺は緊迫した状況(「忩劇(そうげき)」)であったと考えられますが、本状において北条家四代当主氏政は、寺内に狼藉者(「横合非分(よこあいひぶん)の儀申し懸ける者」)がいた場合は玉縄城(鎌倉市)を守備する善九郎(北条康成・ほうじょうやすしげ)へその者の名を記し通報する(「交名(きょうみょう)を註し」、「申し断る」)よう述べ、対応がおざなりだった場合は、氏政が直接対応する(「当府へ承る」)ことを約束しています。
 さて、ここで円覚寺への対応を任された北条康成は、のちに玉縄城の四代目城主となる人物です。この時の城主は父綱成(つなしげ)でしたが、城主が不在であったため、康成がその留守役を務めていました。この時康成は、円覚寺への対応を任されただけではなく、江の島(えのしま・藤沢市)や鶴岡八幡宮に対して狼藉等の禁止を保証する文書を発行しています。このように玉縄城では上杉軍の襲来に備えながら、鎌倉周辺の寺社へ目配りしていたことが分かります。
 そして、三月末ごろ、すでに述べたように小田原から引き揚げた上杉軍が鶴岡八幡宮参拝のため、鎌倉にやってきました。その時おそらく鎌倉周辺はその軍勢であふれていたと思われますが、円覚寺をはじめとした鎌倉の寺社で大きな被害があったという話は伝わっていません。詳細は不明ながらも、本状にみえる北条康成がいたおかげでしょうか、円覚寺や鎌倉の寺社はこの難局を乗り越えることができたようです。

おわりに
 今回ご紹介した文書には、上杉軍の侵攻から逃れるため大勢の人々が円覚寺に避難していたという状況に対し、北条氏が狼藉者の処罰を約束するとともに、玉縄城にいた北条康成にその対処を任せることが記されています。康成は、上杉軍の侵攻に備えるとともに、円覚寺をはじめ鎌倉の寺社における混乱状況を鎮めるため、周囲の状況に目を光らせており、本状からもそうした緊迫した状況が伝わってきます。
 本状作成の背景には、上杉軍の侵攻という危機に際し、円覚寺が正当な支配者としてみなす北条氏を頼りとし、支配者としての義務を果たすことを求めていたことが挙げられます。そして、北条氏はその危機への対応として円覚寺の求めにより本状を作成したと捉えることができるでしょう。

(梯 弘人・当館学芸員)

【主な参考文献】
黒田基樹『戦国関東の覇権戦争』(洋泉社、2011年)
佐藤博信「玉縄北条氏の研究―『玉縄北条氏文書集』補遺―」(同『中世東国 足利・北条氏の研究』岩田書院、2006年、初出1975年)
玉村竹二・井上禅定『円覚寺史』(春秋社、1964年)
藤木久志『城と隠物の戦国誌』(筑摩書房、2021年、初出2009年)
峰岸純夫『中世災害・戦乱の社会史』(吉川弘文館、2001年)
山口博『北条氏康と東国の戦国社会』(夢工房、2004年)
山口博『北条五代と小田原城』(吉川弘文館、2018年)
簗瀬大輔『小田原北条氏と越後上杉氏』(吉川弘文館、2022年)

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