展示

阿部家資料「咬𠺕吧都督職筆記和解・甲必丹差出候封書和解(かるぱととくしょくのひっきわげ・かぴたんさしだしそうろうふうしょわげ)」石川和助写ヵ、江戸時代末期、1冊

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2023年7月の逸品

阿部家資料「咬𠺕吧都督職筆記和解・甲必丹差出候封書和解(かるぱととくしょくのひっきわげ・かぴたんさしだしそうろうふうしょわげ)」石川和助写ヵ、江戸時代末期、1冊

阿部家資料「咬𠺕吧都督職筆記和解・甲必丹差出候封書和解(かるぱととくしょくのひっきわげ・かぴたんさしだしそうろうふうしょわげ)」石川和助写ヵ、江戸時代末期、1冊

展示期間:2023年7月5日(水)~9月頃までを予定
展示場所:常設展2階 テーマ4 近代

 日本との通商条約締結を目的としたアメリカのペリー艦隊が来航する1年ほど前の嘉永5年(1852)6月、当時「鎖国」政策をとっていた幕府の対外政策に影響を与えかねない重要な情報が、オランダ船によって長崎へもたらされました。それは、アヘン戦争を機にオランダ政府から日本政府へ提出されるようになった「オランダ別段風説書」という海外情報書で、そこにはアメリカ政府が日本との通商、アメリカ人漂流民の保護、石炭貯蔵場所の設置を要求するために、ペリー使節を派遣したことなどが克明に予告されていました。今回は、その「別段風説書」とともに長崎にもたらされた、ペリー来航予告に係る「咬𠺕吧都督職筆記和解・甲必丹差出候封書和解(かるぱととくしょくのひっきわげ・かぴたんさしだしそうろうふうしょわげ)」について詳しく紹介します。
 本資料は、ペリー来航当時老中首座であった阿部正弘の家に伝わったもので、筆跡から正弘の側御用を務めた石川和助(関藤藤陰)によって写されたものと考えられています。アメリカが日本との通商を目的として使節を派遣したことを知ったオランダは、幕府へその事実を知らせるとともに、オランダ自らが日本との通商条約締結へ向け動き出します。その一環として幕府へ提出されたのがこの資料です。「咬𠺕吧都督職筆記和解(かるぱととくしょくのひっきわげ)」、すなわちカルパ=バタビア(現在のジャカルタ)長官文書の日本語訳と「甲必丹差出候封書和解(かぴたんさしだしそうろうふうしょわげ)」、すなわちオランダ商館長が提出した書簡の日本語訳の2種類の文書が1冊にまとめて写されています。
 さてその内容ですが、前半の「咬𠺕吧都督職筆記和解」は「別段風説書」で報じられたペリー来航予告の補足説明が詳細に行われています。そして、後半の「甲必丹差出候封書和解」は、バタビア長官からの命を受け、以下の書面を江戸へ奉呈するとして、通商条約草案が記されています。これは、オランダ国王より日本が「御安全」でいられるよう配慮して作成されたものとしています。
 当時、アメリカをはじめ日本との通商を望んだ国々が想定した貿易形態は、官による制限がない、民間人である商人の意思にもとづいて行われる自由貿易でした。しかし、この草案は、「鎖国」を始める関係以前に幕府がおこなっていた糸割符制度を彷彿とさせるような内容となっています【図1図2釈文】。この記載は資料の「第四、第六」ケ条を確認してみてください。実はこの草案の原文は、日本に滞在した経験があり、日本研究の第一人者として知られていたフランツ・フォン・シーボルトが起草したものでした。それを、商館長・クルティウスが修正を加え、草案としたのです。したがって、日本の法律に背かないことを前提としているのです。
 ペリーとの通商条約締結交渉では、幕府が通商拒否の姿勢を強めたことから、具体的な貿易形態が話題になることはありませんでした。つまり、この時点においては幕府が想定する「通商」とペリーが想定する「通商」は一致していなかったということになります。「自由貿易」という貿易形態については、初代駐日総領事として来日したタウンセンド・ハリスとの間で白熱した議論が戦わされることになるのです。
 オランダからもたらされた通商条約草案により、幕府はオランダを通じて「条約」というものが何たるかを知っていました。幕府が不平等条約を結んだのは、国際法や条約というものがどういうものか知らなかったからであると考えた研究者がいましたが、この理解が適当ではないことが本資料からわかります。なお、その不平等条項の一つとされる「領事裁判」について、この草案の「第九」【図3釈文】で明示されています。しかし、筆者は幕府がこのことについて問題視したことを確認できる資料を見たことがありません。罪を犯した者が所属する国の法律で裁くということは当時の日本において何ら問題がなかったことをうかがわせるものです。
 今回紹介したこの資料は、日本開国史研究でまだ明らかにされていない点があることを示唆してくれているのです。

(嶋村 元宏・当館主任学芸員)

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