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弥生土器からのメッセージ

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2024年6月の逸品

弥生土器からのメッセージ

弥生土器からのメッセージ

弥生式土器
展示場所:常設展3階テーマ1古代
展示期間:~6月30日(日)

1 「弥生土器」を覚えていますか?
 歴史が苦手であっても「縄文土器」や「弥生土器」という言葉は覚えているという方は多いのではないでしょうか? 理由は様々あると思いますが、歴史の授業で最初の方に教わるということが大きいのではないかと考えます。新鮮な興味をもって学んだものはなかなか忘れないものです。しかし、改めて「縄文土器と弥生土器の違いは?」、「弥生土器の特徴は?」と問われると答えに窮するのではないでしょうか?
 縄文土器は縄目の文様(縄文)が施された厚手の土器と教科書では説明されます。立体的な装飾をもつものが多く、造形物として見栄えがあります。芸術家の岡本太郎が注目したことで美術品としても有名になりました。博物館だけでなく美術館で展示されることも珍しくありません。さらに、最近は「縄文ブーム」と称されるサブカルチャー的流行も手伝って、土偶と共に注目も集めています。
 一方で、弥生土器が同じように注目されることは残念ながらほとんどありません。皆さんは弥生土器をじっくりと観察したことはあるでしょうか?教科書では薄手で簡素な装飾が施され、壺や甕(かめ)などの種類が増えたと説明されます。確かに縄文土器ほど豪華な装飾があるわけではありません。シンプルで何となく「地味」な印象があるかもしれません。しかし、実際は、その形態や文様は実に多様であり、機能的な造形美を有しています。そういう意味で、弥生土器は縄文土器にも引けを取らない魅力があると私は思います。今月はその一端をご紹介いたします。

2 文様からわかること
 さて、今回ご紹介する弥生土器は「宮ノ台式土器」と呼ばれる土器です。今からおよそ2000年前(弥生時代中期後葉)の南関東地方で使用されたものです。「宮ノ台」という名前は千葉県茂原市の宮ノ台遺跡からとられたものですが、神奈川県内でも広く出土することが知られています。この時期の南関東では、東海地方より伝わった稲作農耕文化が定着して農耕社会が本格的に成立しました。南関東の弥生文化が花開いた時期とも言えます。この壺形土器(以下「壺」とする)にはその様子が端的に表れています。
 土器には観るところがたくさんありますが、今回は頸(くび)から肩の部分に施された文様に注目します。この壺(図1)は、髪をとかす櫛(くし)のような工具で並行する複数の線が引かれています。このような文様は「櫛描文(くしがきもん)」と呼ばれ、西日本で一般的に見られる装飾です。稲作とともに東海から伝わってきたものと考えられます。その一方で、宮ノ台式土器には薄手で弥生土器のかたちながら縄文が施されているものも存在します(図2)。こちらの壺には端に結び目(結節)をつけた縄を転がし、まるで波線を引いたかのような文様が施されています。このような文様は「端末結節縄文(たんまつけっせつじょうもん)」と呼ばれ、縄文文化の伝統を引く装飾技法です。これら2つの壺は形や文様、製作方法などに違いが見られますが、どちらも宮ノ台式という同じ土器のグループに分類されます。同時期の壺に西日本から来た新しい要素と縄文文化からの伝統的な要素の両方が見られます。
 「弥生土器に「縄文」が施される」と聞くと不思議な気がしますが、実は東日本の弥生土器には頻繁に縄文が施されます。この土器の場合、おそらく本来は櫛描文を施すべき部分に南関東の人がアレンジをして縄文を取り入れたのだと考えられます。「頸から肩の部分に装飾する」というルールは守りながらも、自分たちの伝統的な要素を巧みに取り入れている様子が伺えます。弥生文化が来たからといって縄文文化の全てがなくなるわけではないのです。この2つの壺からは、南関東の弥生文化が縄文文化の一部を受け継いで発展したことがよくわかります。きっと、受け継いだのはこれだけではないはずです。
 昨今、「変化の激しい社会」や「先行きが見えない時代」という言葉をよく見聞きします。今まで培ってきたことが無駄になってしまうような話題がメディアで報じられると、不安な気持ちになってしまうことも少なくありません。しかし、この土器を見ると新しいものの中にも古いものは生きているということがよくわかります。「学んだことは無駄にはならないよ」と弥生時代の人々からメッセージをもらっていると勝手に解釈して、元気づけられてみるのもいかがでしょうか。

(佐藤 兼理・当館学芸員)

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