展示

青磁貼花牡丹文花瓶(せいじちょうかぼたんもんかびん)

ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。

2024年8月の逸品

青磁貼花牡丹文花瓶(せいじちょうかぼたんもんかびん)

青磁貼花牡丹文花瓶(せいじちょうかぼたんもんかびん)

南宋~元時代 龍泉窯
高さ26.3㎝ 胴径12.8㎝
展示場所:常設展3階テーマ2中世
展示期間:7月24日(水)~8月31日(土)(予定)

 8月の逸品は、夏の暑い時期に涼しさを感じさせる色合いの、青磁の花瓶をご紹介します。
 本作は中国浙江省(せっこうしょう)の龍泉窯(りゅうせんよう)で、南宋から元時代(13世紀頃)に作られ、日本にもたらされたものと考えられます。

1 鎌倉の貿易と中国青磁
 中世鎌倉の遺跡からは青磁のほか白磁、青白磁といった中国陶磁の陶片が大量に出土します。「唐物(からもの)」と呼ばれ珍重された中国からの舶来品は、当時の日本では作ることのできない、あこがれの高級品でした。それらを所有すること自体がある種のステータスであり、寺院や武士の権威を示すものでもありました。ではこれらは、どのようにして日本にもたらされたのでしょうか。
 鎌倉時代前半までは鎌倉幕府直営の貿易船が存在し、14世紀にはいってからは寺社が中国船をチャーターした、寺社の再建資金をまかなうための造営料船(ぞうえいりょうせん)が派遣され、銅銭や陶磁器など多くの中国製品がもたらされました。船は博多を起点に派遣され、鎌倉へは幕府の統治機関の鎮西探題から瀬戸内海をへて、三か月以上かかって移送されたといいます。
 このような貿易船が沈没すると、積荷がまとまって残るため、これらが海から引き上げられて研究することで、当時日本へどんなものが、どれくらい運ばれていたかを知ることができます。そのなかでもよく知られるのは、新安沈船(しんあんちんせん)の資料です。新安沈船は韓国全羅南道新安沖の海底で発見され、遺物中の木簡から元享3年(1323)に元を出港した京都東福寺などの造営料船であったことがわかっています。主に陶磁、銅銭、金属器などの遺物が含まれ、多器種にわたる龍泉窯青磁の中には本作のような器形の青磁も含まれています。
 中国には多くの窯がありますが、鎌倉に多くもたらされたのは景徳鎮窯(けいとくちんよう)と龍泉窯の製品です。本作が作られたとされる龍泉窯は、元時代には日本をはじめアジア各地に大量に青磁を輸出しており、遠くはエジプトまで運ばれました。日本国内で青磁が作られるようになるのは、江戸時代前期(17世紀)になってからのことです。再現はできなかったものの、中世の瀬戸(現在の愛知県瀬戸周辺の窯)においては、中国陶磁の器形や色調をまねた陶器が作られており、その需要の高さが伺えます。
 遺跡から出土するもののほか、寺院などで受け継がれて現代まで伝えられた、伝世品もあります。建長寺や鶴岡八幡宮には、本作と類似する器形で高さが70㎝程度の大きな青磁花瓶が伝わっています。
 こうした背景から本作は、中国から運ばれ、寺院で用いられていた花瓶と同様の器形のうちの小さなもので、寺院あるいは武士の邸宅を飾ったものの一種ではないかとみることができます。

2 浮牡丹の文様と青磁釉
 では次に、花瓶の細部をじっくりと観察していきましょう。
 まず、形と文様をみていきます。すっと長くのびた首に朝顔形に開いた口がつき(図1)、首から胴にかけては輪を重ねたように段が付けられています(図2)。膨らんだ胴部には牡丹唐草(ぼたんからくさ)の文様が一周巡らされています(図3)。底にかけてすぼまった裾の部分には、鎬連弁文(しのぎれんべん)という剣先が並んだような文様(図4)が器面を彫って表されています。
 胴部の文様をより詳しく見ていくと、花と葉の部分は型で抜いて形をつくり、それを貼付けています(図5)。このような技法を「貼花(ちょうか)」といい、日本において本作のような文様を「浮牡丹(うきぼたん)」とも呼びます。文様をヘラで一つ一つ彫るのに比べて手間がかからず、立体的な装飾の効果が得られる技法です。牡丹の花びらは、厚い青磁釉で輪郭がぼやけていますが、多くの細かな線であらわされており、やわらかな印象を受けます。ゆるやかな曲線を描く茎は、素地を細く絞り出して盛り上がった線を描く「イッチン描き」(筒描き)で表されています(図6)。牡丹は中国で富貴の吉祥文とされ、日本でも多くの工芸品の装飾に用いられています。
 次に、青磁の色に注目します。青磁は釉(ゆう/うわぐすり)という、陶磁器の表面を覆うガラス質の膜に含まれるわずかな鉄分が、還元炎焼成という酸素の少ない焼き方によって発色します。よく間違えられるように、青色の顔料を混ぜているわけではありません。
 文様の周囲や彫りこまれた部分には釉が厚く溜まり、その輝きがいっそうよく見えます。文様をすべて彫った場合と比べて、貼花文では浮き上がった部分の色が薄くなるため、全体に明るいグラデーションであることが魅力的です。青磁の色には様々なものがありますが、本作は日本において好まれた「砧(きぬた)」と呼ばれるような明るい青緑色の発色で、南宋から元時代にかけて作られたと考えられます。
 底をみると、高台の内にまで釉が掛かっています(図7)。畳付(たたみつき)とよばれる接地面には、釉が窯にくっつかないように削った跡があり、少しざらざらとした素地の土が見えます。

3 制作陶工のおもかげ
 では最後に、もう一度本作の底を見てみましょう。実は、高台の側面に、釉を掛けた時の陶工の指跡が残っています(図8)。写真に写っているのは親指の跡で、反対側にも非常に見えにくいのですが、三本の指跡が確認できます。このことから、液体の釉薬の中へ浸す、あるいは掛ける際に、花瓶を逆さにして底を片手でつかんでいたことがわかります。
 やきものに残る陶工の指跡は、志野や瀬戸黒の茶碗、初期の伊万里焼などに見られ、釉薬を掛ける際に偶然残る場合が多いですが、高麗茶碗の紅葉呉器(もみじごき)など、表面のおもしろさとして故意に残す場合もあります。しかし、青磁は人工の宝石ともいわれる、完成された美しさが求められるため、茶陶などと違って指跡に注目することは少ないと思います。それでも、名もなき陶工の存在、人間味が感じられる、景色として楽しむのも良いのではないかと思います。
 かつてこの花瓶を作った人物、そして海を渡ってきた歴史を感じつつ、目で涼を楽しんでみてはいかがでしょうか。

(小川 咲良・当館非常勤学芸員)

参考文献

『鎌倉歴史文化交流館企画展 中国陶磁―青磁・白磁へのあこがれ』鎌倉歴史文化交流館、2020
『特別展千声万声と龍泉窯の青磁』和泉市久保惣記念美術館、1996
『青磁の美』鎌倉国宝館、1987
矢部良明『角川日本陶磁大辞典』角川書店、2002

ページトップに戻る