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三浦市初声町三戸(はつせまち みと)のセイトッコの活動とオミヒメサマ

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2025年1月の逸品

三浦市初声町三戸(はつせまち みと)のセイトッコの活動とオミヒメサマ

三浦市初声町三戸(はつせまち みと)のセイトッコの活動とオミヒメサマ

オミヒメサマ
左:三浦市初声町三戸 谷戸地区
右:三浦市初声町三戸 上地区

 新年明けましておめでとうございます。
 正月には1月1日から7日頃までの大正月(おおしょうがつ)と、1月15日前後から20日頃までの小正月(こしょうがつ)があります。神奈川県内には、現在も小正月に子どもたちが主体的に行う行事がいくつもあります。今回はその中の三浦市初声町(はつせまち)三戸(みと)の谷戸(やと)地区と上(かみ)地区におけるセイトッコの活動および、セイトッコがまつるオミヒメサマを紹介します。

 三浦市初声町三戸は、三浦半島西岸に位置し、生業は農業を中心とする集落です。南から海岸に沿って谷戸、上、北、神田の四つの地区があります。かつては交通の大変不便な場所で、昭和50(1975)年に京浜急行三崎口駅が開通するまでの交通手段は主に船に頼っていました〈註1〉。そのため当地は他所からの転入者が少なく、また生業の変化も少なかったため、今日でも昔ながらの習俗や地縁的な結びつきが保たれている地域です。

●セイトッコ
 セイトッコとは、いわゆる子ども組のことで、ワカイシュウ(若い衆)という若者組に入る前の年齢集団です。現在は小学校1年生から中学校3年生までの男子で構成されています。セイトッコのリーダーはタイショウまたはオヤカタと呼ばれる年長者が務めます。セイトッコが主体的に活動する行事は、正月、盆、月見(十五夜・十三夜)です。
 セイトッコに加入している家は、飲食や寝泊まりの準備、集めた賽銭や供物の分配をするために個人の家をヤド(宿)として提供し、ヤドの役は1年交代で務めていました。ヤドは必ずしもタイショウの家が務めるのではなく、かつては籤引きや話し合いで決められていました。ヤドでは雑魚寝をしながら皆で夜遅くまでメンコ、双六、籤引きなどしたり、持ち寄ったお菓子を食べたりするなど、セイトッコにとってヤドに泊まることは楽しいひと時でした。
 セイトッコのヤドでの寝泊まりは、昭和45・46(1970・1971)年頃まで行われていました。それ以降は地区内に新たにつくられた集会所を利用するようになり、それに伴って個人宅をヤドとしていた頃に行っていた寝泊まりはなくなって、今では22時頃には散会しています。
 このように、現在ではヤドの場所は個人宅から集会所に変わり、ヤドを務める順番も年長者からとなりましたが、今でも飲食の準備等は当年のヤドと次年度のヤドであるシタバン(下番)が行っています。

・正月
 1月4日、セイトッコはリヤカーを曳いて地区内の正月飾りを集め、オンベをつくるために浜へ運びます。オンベとは正月飾りを円錐形に高く組み上げたものです。7日の早朝、セイトッコは「オンベ、コシテ、ケーヤッセ(オンベをこしらえてください)」と言いながら地区内をまわります。
 以前のオンベづくりはセイトッコが中心でしたが、現在はヤドの男親が中心となって1時間ほどかけて完成させます。オンベが完成すると、セイトッコのタイショウが点火してオンベ焼きをします(図1)。

・盆
 8月13日から16日が盆で、盆に迎えた先祖の霊を送るオショロ流し(平成23[2011]年に国指定重要無形民俗文化財に指定)が行われます。
 16日の早朝、セイトッコは地区内の寺の墓に供えられた供物を集めて浜に運びます。浜に到着するとセイトッコとその男親は藁と竹で5mほどのオショロブネ(お精霊舟)をつくり、セイトッコはヤドとする集会所で自作した花紙や紙テープで飾り付けをします。オショロブネが完成すると、船首に10mくらいの縄をつけ、縄の先端に板片を結びつけます。この板片はセイトッコが掴まるビート版のようなもので、これを頼りにオショロブネを沖合まで泳いで曳きます(図2図3)。
 オショロブネが沖に曳かれていくときは、僧侶が読経し念仏講の女性たちがご詠歌を唱えます。以前はオショロブネを実際に海上へ流していましたが、現在では浜に再度曳き揚げて焼却するようになりました。

・月見
 十五夜や十三夜に、セイトッコは地区内の各戸をまわって縁側に供えられた菓子やサトイモなどを貰い歩きます。それが終わると集会所に帰り、ヤドと下番の母親たちがサトイモとその他の野菜を煮込んだ醤油味のごった煮を料理してくれます。また、多く集まったサトイモは、「カッテケーヤッセ(買ってください)」と言いながら地区内の欲しい家に売り歩きます。

●オミヒメサマ
 さて、谷戸地区と上地区には、子どもの守り神といわれているオミヒメサマ(オミシメサマ/オミシマサマ)という木像があり、セイトッコによってまつられています。谷戸地区のオミヒメサマ(21.0cm)は、頭部に冠のようなものを被っているようにもみえます(図4)。また、上地区のオミヒメサマ(30.0cm)の頭部は、伸ばした髪を結った総髪(そうはつ)のようにもみえます(図5)。両像は檜(ひのき)材で彫られた素朴な立像で、両手を胸の前で合わせ、着物を着せられています〈註2〉。
 普段、オミヒメサマはヤドを務める個人宅にあります。谷戸地区では厨子に納められ、上地区では神棚にまつられています(図6)。セイトッコがオミヒメサマを実際に手に取ってまつるのは、前述の1月7日のオンベ焼きと8月の盆のオショロ流しの後です。タイショウはヤドを務める家に行き、そこでまつられているオミヒメサマをその家の風呂に入れ、新調の着物に着せ替えます(図7図8)。以前はオミヒメサマが入ったお風呂に入ると病気にならないとか丈夫になるなどと言われており、セイトッコは後の湯に入っていました。
 新調する着物はヤドの主婦が正月毎に縫うことになっているため、「オミヒメサマは衣装持ち」と言われますが、大人や女性はオミヒメサマを直接見たり触れたりすることはできません。筆者が平成30(2018)年にお伺いしたヤドを務めるセイトッコの祖母は、「私はここに嫁いできて何十年にもなるけれど、一度もオミヒメサマは見たことがないのよ」と話していました〈註3〉。
 現在では正月と盆にオミヒメサマの入浴が行われていますが、これは元々は小正月の行事であったとされています〈註4〉。入浴が済むとセイトッコはオミヒメサマと幣束(へいそく)を持ち、「ユワッテケーヤッセ(祝ってください)」といって各戸をまわって賽銭をもらい歩きました(図9)。谷戸地区の男児が生まれた家では賽銭を多く出し、上地区では丈夫に育つようにと小児の額をオミヒメサマで擦ったり、子どもが欲しい嫁はセイトッコに頼んで特別にオミヒメサマを抱かせてもらったりしました。
 集めた賽銭は集会所のヤドへ持ち帰り、タイショウの差配でそれを分け、残りはセイトッコが管理しました。現在では区費が出るため賽銭集めは行われなくなりました。集会所で饗応が行われた後は、オミヒメサマは次のヤドを務める個人宅へ移されます。
 当地のセイトッコやオミヒメサマをまつる習俗は、子ども組としての活動が今日でもよく残っている好例です。もしかしたらあなたの地域にも、小正月などに子どもたちが主体的に行う行事があるかもしれません。今年はそれを探し歩いてみてはいかがでしょうか。

(新井 裕美・主任学芸員)

参考文献

永田衡吉『神奈川県民俗芸能誌』(増補改訂版),54~55頁,錦正社,1987年
鈴木通大「新収蔵資料紹介 三戸のオミヒメサマ」『神奈川県立博物館だより』通巻129号,5頁,1993年
三浦市教育委員会『三戸民俗誌―子供組と若者組―』2,2002年

註1
京急歴史館 https://www.keikyu.co.jp/history/chronology05.html(2024年12月25日アクセス)
註2
図4・図5は平成3(1991)年に三戸の方々のご協力を得て作成した複製資料である。
註3
筆者はオミヒメサマを直接見ることはできないので、代わりに同行の男性が撮影した。
註4
和田正洲『日本の民俗 神奈川』,255頁,第一法規,1974年
図1
平成3(1991)年1月7日撮影
図2,3,6-8
平成30(2018)年8月16日撮影
図9
平成6(1994)年1月7日撮影

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