展示
相模国津久井県与瀬村名主・問屋役坂本家文書 与瀬宿絵図
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2025年8月の逸品
相模国津久井県与瀬村名主・問屋役坂本家文書 与瀬宿絵図(さがみのくにつくいけんよせむらなぬし・といややくさかもとけもんじょ よせしゅくえず)
神奈川県域を通貫する江戸時代の主要街道を皆さんはご存知でしょうか。きっと多くの方は東海道を想起なさるでしょう。もしくは少し内陸の方、大山詣を目的とした人々が通行した矢倉沢往還(おうかん)などを思い浮かべる方もいるかもしれません。今回は、もう少し北の方に目を移してみましょう。
山間の隘路(あいろ)
神奈川県域には、江戸時代の主要街道である五街道のうち東海道が通るほか、県域北部を甲州道中がかすめています。甲州道中は内藤新宿から八王子を通過し、甲府柳町宿を経て信州下諏訪宿において中山道と合流する街道です。武蔵・相模の国境である小仏峠や、甲府盆地への入り口にある笹子峠などの難所も多く、甲州道中を使用し参勤交代する大名は三家のみでした。しかし、天明3(1783)年の浅間山大噴火などにより東海道・中山道に不都合が生じた際には交通量が増加しました。
神奈川県域には、甲州道中の宿場として小原(おばら)、与瀬、吉野、関野(いずれも相模原市緑区)の四宿が存在しています(図1)。宿場間の距離は狭く、小原・与瀬宿間はおよそ十九町程(約2㎞)しか離れていません。この二つの宿場は与瀬村という一つの村の中に存在し、甲府方面から小仏峠越えに備える人馬の負担(継立業務)を与瀬宿が担い、江戸方面から小仏峠を越えて西に向かう人馬への対応を小原宿が担っていました。
与瀬宿絵図
8月の逸品としてご紹介するのは、相模国津久井県与瀬村の名主・問屋役であった坂本家に残された元禄5(1692)年「与瀬宿絵図」(図2)です。
この絵図には宿場の範囲、水路の位置などが描かれるほか、宿場の道に面する敷地の表間口、年貢賦課(ふか)の有無、伝馬役(てんまやく)負担、所有者名及び役職名が描かれています。
絵図(図2)は南西を上にすると、左側が小原宿方面、右側が吉野宿へ続く方角になり、北を上とした昭和4(1929)年の地図(図3、国土地理院地図、昭和4年測図「与瀬(1-25000)」・部分)と比べると上下がほぼ逆になります。絵図の右端(北西方面)には「慈眼寺」の文字が見えます(図4、資料部分図)。現在も金峰山慈眼寺は同地に位置し、慈眼寺から国道20号を高架橋で横断すると旧甲州道中・与瀬宿の西端にたどり着くことができます(写真)。絵図中では慈眼寺から用水堀を渡ると突き当りに宿場の高札場が見え、左側に延びる幅五間(約9m)の道の初めの「庄屋 内蔵助(くらすのけ)」と書かれたひときわ大きな家が、この絵図が残された坂本家です。坂本家は与瀬村の名主家であると同時に、後に与瀬宿の宿場を取りまとめる問屋役も担った家でした。
伝馬役と年貢負担
絵図のうち茶色に塗られた区画を持つ家は、田畑の耕作物を基準とした年貢ではなく、宿場に面した屋敷地を基準に年貢が課された家と考えられます(図5、資料部分図)。宿場には幕府役人らの通行に備え、公的な荷物や文書を運搬する人足・馬を常備することが求められており、宿場内の屋敷年貢地を有する家々は人足役・馬役を分担して担当していました。絵図の記述によれば(図6、資料部分図)、与瀬宿百三軒のうち、三十九軒が馬役、五十軒が人足役を務めていることがわかります。「当分無役」と記された「庄屋」(名主)の二家を含む十四軒と、土地を他者から借りて経営を行っている「店借り」十人は伝馬役負担から除かれました。
後年村内で伝馬役負担について話し合われた文書をみると、馬役が人足役より負担が大きいことを考慮して、人足役を「一つ分」、馬役を「二つ分」として計上し、村役人である年寄も含めて分担し、身体が衰えた人などの事情がある場合は負担から除くことが決められています(宝暦10(1760)年7月「書付を以奉願上候(かきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう、伝馬宿役ニ付小百姓、名主・年寄を訴訟)」坂本家文書232)。この取り決めがなされた背景には、伝馬役の負担の大きさや個々の事情が汲み取られずに、村役人である年寄役が特権として負担しないことが常態化していたことがあったようです。
通行量の多い東海道は一宿で人足百人、馬百匹を常時用意することができるように求められていましたが、そのかわり屋敷にかかる年貢(地子・じし)が一部免除されていました。甲州道中は一宿で人足二十五人、馬二十五匹を確保することが求められており、小原宿・与瀬宿も一部の屋敷地が免除の対象となっていました。絵図中に「屋敷地子」と記される場所が地子免除の対象となった屋敷地と考えられます(図7、資料部分図)。慶長9(1604)年の御水帳(検地帳)には地子免除地が記されていたとされますが(文政2(1819)年6月「我等名主役中都而取計書送(われらなぬしやくちゅうすべてとりはかりかきおくり)」坂本家文書428)、地子免除は甲州道中の宿場においては特殊であり、甲州道中四十五宿のうち甲府柳町、信州・高島藩(諏訪藩)内を除き伝馬屋敷地子が免除されたのは小原・与瀬を含む四宿のみでした。
この絵図が作成された理由はまだ不明ですが、隣接する小原宿にも同時期に作成されたと考えられる「小原宿絵図」(相模原市立博物館所蔵・清水家文書)が残されています。また、絵図が作成される二年前の元禄3(1690)年から伝馬役賦課の対価として年貢のうち大豆・荏(えごま)の現物納が免除されていることもあり(宝暦2(1752)年「沓藁銭柿渋代等引方覚(くつわらせんかきしぶだいなどひきかたおぼえ)」明治大学刑事博物館所蔵・千木良村文書)年貢負担や伝馬役負担の分担について整理するために作成された絵図であると考えられます。
与瀬宿を出て
ここまで絵図から与瀬宿についてみてきましたが、最後に与瀬宿を出発して甲府方面に向かってみましょう。与瀬宿から吉野宿に向かうには甲州道中以外にも「二瀬越え(ふたせごえ)」と呼ばれる船路の近道がありました。与瀬村から相模川を挟んで対岸に位置する勝瀬の集落を通過し、再度川を越えて吉野宿に至るルートで、『五海道中細見記』(図8、安政5(1858)年、大城屋良助版)という資料にも「あくはよせ(悪は止せ)、ぜんは吉野(善は良し)の二タせごへ、是ぞおしへ(教え)のちか道としれ」の歌と共に紹介されています。天保12(1841)年にこの道を通って甲府に向かった浮世絵師初代歌川広重も二瀬越えの近道を通り「(与瀬宿の)角屋という茶屋の脇から道をそれて近道をゆく。この道は本道より二十町(約2.2km)程も近いという。少し難所がある。相模川が緩やかに流れている。舟渡しがあり、船頭に川の名を聞くとさくら川という。川を二度渡って程なく吉野の宿である。この川は富士の裾から流れでており、富士の雪解けが川の水を増している。雪花が桜に似ているので、相模川を別名桜川とも呼ぶと里の人が言う。」(安藤広重『広重甲州道中記』(『甲斐志料集成 1』昭和7年所収、現代語訳は筆者による)と日記に記しています。広重が通過した近道は、今は昭和22(1947)年に完成したダムの貯水池である相模湖の湖底に沈んでしまっていますが、国道20号沿いや宿場周辺には小原宿本陣(神奈川県重要文化財)をはじめとし当時の面影を偲ぶことができる場所が多く残されています。
(当館学芸員・寺西 明子)
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