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一遍上人像(いっぺんしょうにんぞう)

学芸員のおすすめ収蔵資料の魅力を詳しい解説でお伝えする「今月の逸品」。休館中はウェブサイトのみでのご紹介になります。

2025年9月の逸品

一遍上人像(いっぺんしょうにんぞう)

一遍上人像(いっぺんしょうにんぞう)

一遍上人像
南北朝時代(14世紀)
紙本着色
62.5×31.0㎝

 細身で長身な身体を少し前屈みにして質素な衣をまとい、合掌をして裸足で歩を進めるのは、一遍上人として知られる一遍智真(いっぺんちしん)(1239~89)です。鎌倉時代の新しい仏教である時宗(じしゅう)を開いた人物です。9月の「今月の逸品」では、一遍上人の画像を紹介します。

念仏聖(ねんぶつひじり)・一遍
 一遍の生涯については、その生前に記された資料はありません。そこで参考にされるのが「一遍聖絵」(神奈川・清浄光寺、東京国立博物館)や、「遊行上人縁起絵」といった資料です。「一遍聖絵」の詞(ことば)は、一遍の没後10年目に、高弟で異母弟とも甥ともされる、一遍に近い存在であった聖戒(しょうかい)が起草しました。そこでは一遍の生涯の出来事が時に奇跡で彩られながら語られています。それによると、一遍は延応元(1239)年、伊予(いよ)国(現在の愛媛県)に生まれ、幼くして仏門に入ります。そののち日本各地の寺社や聖地、都市を訪れて念仏を勧める旅にでます。行く先では「南無阿弥陀仏 決定往生/六十万人」(/は改行)と、摺られた小さな紙の札を配る賦算(ふさん)や、鉦(しょう)をたたき一心に踊りながら念仏をとなえる踊念仏によって、阿弥陀如来の念仏信仰を広めました。ときに念仏の勧めで妻が出家したことに怒った武士と備前(びぜん)国(現在の岡山県)・福岡の市で対面したり、布教活動の行く末を懸けた鎌倉入りを拒まれたりという苦難を乗り越え、京(京都)では多くの群衆たちに熱狂的に迎えられ、都での布教を成功させたのです。その後ほどなくして病を得ますが、それでもあちらこちらに念仏を勧め、兵庫の観音堂(現、兵庫・真光寺)に至り、正応2(1289)年8月23日、朝の礼讃のさなか静かに亡くなったといいます。

一遍の肖像
 ここに紹介する当館所蔵の一遍上人像は、南北朝時代に制作されたとみられる貴重な作例です。画面上部には「佛こそ いのちと身との あるしなれ 我ふるまいも わがこころかは  南無阿弥陀仏」という歌が記されています。これは京都で詠んだ「仏こそ 命と身とのあるじなれ わが我ならぬ こゝろ振舞」と同工異曲とみなされています。
 本作は細部にまで行き届いた丁寧な描写によって、生き生きとした一遍を表出しており、その出来栄えから優品と言ってもよいでしょう。
 表現についてはあとにまわし、まずは一遍がどのような姿形で描かれているのか観察します。(図1
 尖った頭頂と後頭部、日に焼けた面長な顔で、こけた頬と長い眉が目を引きます。細身の身体には黒色の衣をまとい、柿渋色の上着を重ね、黒い腰の紐には白い布をくくりつけ、膝丈の裾からは薄い黄色の肌着がのぞきます。合掌する左手には赤色と黒色の数珠(じゅず)を懸け、両手で賦算の紙束を挟んでいます。開いた口元から歯をのぞかせ右脚を踏み出すようすは、「阿弥陀如来」の名をとなえ、賦算しながら念仏を勧める旅に生涯を費やした一遍の在りし日の姿です。
 ところで「一遍聖絵」の最後には、終焉の地となった兵庫の観音堂の境内に一遍のお墓の塔と、一遍上人の彫像を祀(まつ)るお堂が描かれます。この一遍彫像は、前屈みで裾の短い黒色の衣をまとい、数珠を懸けた手を合掌する立ち姿ですから、生前の一遍の姿を表したものだったのでしょう。この描かれた一遍上人像そのものと目されるのが、兵庫の観音堂の後身である真光寺御影堂にかつてあった一遍の彫像です。惜しむらくも昭和20(1945)年の神戸大空襲で御影堂とともに失われましたが、戦前に撮影された写真には面長で頬の削げたお顔で、脛(すね)ほどの丈の衣を身に着け、合掌して遊行する姿が記録されています。現在残る最も古い一遍の肖像彫刻は、神奈川県・無量光寺の一遍上人像で、同様な姿に表されています。かつての真光寺御影堂や無量光寺の彫像は数珠や賦算の小札は持っていませんが、一遍の肖像には一遍その人の特徴を示す約束された姿形、つまり面長で頬の削げた顔、脛丈の衣、合掌して遊行する姿―があったことがうかがえます。当館の一遍上人像にもその特徴がよくとどめられています。衣は着飾らず質素な、もっと言ってしまえばボロ着を、食べ物は贅沢(ぜいたく)をせずあるに任せ、一所に住まうことなく各地を歩きまわる。衣食住を捨て人々に念仏を勧めながら、信仰に生きた「貴い捨て聖(すてひじり)」(一遍聖絵)のたたずまいが表されているのです。

筆づかい、色
 次にその表現を観察してみましょう。
 一遍の姿は淡い彩色と墨の柔らかな線で形づくられています。頭部(図2)は太さの変化を抑えた細く淡い墨線で輪郭や顔を描きます。頭の頂から後頭部、首後ろまで、息の長い線で特徴的な形の輪郭を描き起こすようすは見事で、顎(あご)先や左顎の骨ばった様子も柔らかい曲線でよく表されています。額には下向きの弧線を四本、瞼(まぶた)や目尻にも波打つような曲線を重ねてしわを描き、歳を重ねた一遍の顔を自然に描きだすことに成功しています。上瞼や瞳、鼻先、右頬(ほお)には濃い墨線を加えます。眉毛は短い直線的な濃い墨線を密集させ、瞳や視線とともに一遍の信念とその力強さを感じさせます。肌の色は面部に対し、頭部を少し濃く彩色し、さらに頭部の輪郭線に近いところや顎先、左顎には薄く墨を刷いたような暗い色彩が見られ、微妙な色の使い分けの意図を感じます。同様の表現は衣からのぞく両腕や両手先にも認められます。衣は着慣れて柔らかくなったようすに描かれます。太い・細いと変化のある曲線を用い、痩せて筋張った一遍の身体になじむ衣の質感が伝わってきます。また重ねた衣のそれぞれの裾は、短い曲線と縦線を組み合わせ、一遍の歩みに合わせて揺れるさまをよくとらえているといえるでしょう。
 生前のおもかげをとどめる一遍上人の姿は、こうした繊細な描写によって支えられているのです。

 さてわたくしは生前の一遍のありようを生き生きと描き出した本作を懸けるとき、長身で少し背を丸め、真剣なまなざしを前へ向けるその姿に、自らの師が重なり、背筋が伸びる思いをしたことをここに白状しておきます。

(樋口 美咲・当館任期付学芸員)

参考文献

展覧会図録『時衆の美術と文芸―遊行聖の世界―』時衆の美術と文芸展実行委員会、東京美術、1995年11月
展覧会図録『国宝 一遍聖絵』、遊行寺宝物館ほか、2015年10月
津田徹英〈研究ノート〉「神奈川県立歴史博物館蔵一遍上人像の画讃をめぐって」『パラゴーネ』第6号 青山学院大学比較芸術学会、2019年3月

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