展示
大型化した裁許絵図(さいきょえず)
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2025年10月の逸品
大型化した裁許絵図(さいきょえず)
資料名:相州鎌倉郡津村腰越村与同国同郡片瀬村魚猟場出入裁許之事
そうしゅうかまくらぐんつむらこしごえむらとどうこくどうぐんかたせむらぎょりょうばでいりさいきょのこと
年代:安永2(1773)年5月13日
寸法:268.5cm×346.5cm
上:相州鎌倉郡津村腰越村与同国同郡片瀬村魚猟場出入裁許之事(絵図全体)
下:相州鎌倉郡津村腰越村与同国同郡片瀬村魚猟場出入裁許之事(裁許文)
特別な古文書
古文書の整理をしていると、一連の文書群とは違い、特別な取り扱いをされた文書に出会うことがあります。図1(相州鎌倉郡津村腰越村与同国同郡片瀬村魚猟場出入裁許之事(箱))の文書もその一つで、多くの文書が一括して箱に収まるのに対し、その文書のために作られた木の箱に入れて別置され、明らかに特別扱いです。箱を開けてみると、厚く硬い料紙に大きく美しい文字が書き連ねられた、大変大きな紙が入れてあります。この大きな紙は裁許絵図(さいきょえず)という、江戸幕府の権威の象徴のような文書です。
江戸時代、村の境界など土地の所有権や、山林や原野、秣場(まぐさば 共有の草刈り場のこと)の利用、河川・用水路などの水利権などをめぐり、村落VS村落、村落VS寺社などの争いが度々おこりました。現在の神奈川県域には幕府・旗本(徳川将軍家直属の家臣)・寺社・藩の領地などがあり、同じ領主の村同士の争いはその領主により裁かれますが、幕府の領地と寺社の領地など領主の違う村同士の争いは、評定所(ひょうじょうしょ 現在でいう最高裁判所)へ持ち込まれました。
評定所に持ち込まれた争論は、評定所一座と呼ばれる勘定奉行・町奉行・寺社奉行の三奉行(場合によっては老中も加わる)によって評議され、裁許(判決)が下されますが、その裁許の証拠として、絵図と裁許文を表裏に記した「裁許絵図」が作成されました。裁許により決まった土地利用、境界線などを丁寧に描かれた絵図で示し、裏面には裁許文と評議に参加した評定所一座の名が書かれ、捺印されました。この裁許絵図は三部作られ、評定所・訴訟方(原告)・相手方(被告)の三者がそれぞれに大切に保管することとされ、村々は幕府評定所から下された証拠書類として、特別な扱いをしていたのです。この裁許絵図は、後年、同様の争いが起こった際にも裁許の証拠資料となり、現在の市町村の境界などにも影響を及ぼす絵図であるといえます。
とにかく大きい裁許絵図
さて、今月の逸品としてご紹介する本資料ですが、とにかくその大きさに驚かされます。寸法が268.5㎝×346.5㎝とおよそ6畳間(江戸間261.0㎝×352.0cm)程の大きさです。広げる場所に困るほどの大きさの料紙に論所周辺だけでなく、論所に接する龍口寺、隣村を隔てる周囲の山々などが描かれ(図2)、裏面には1509文字からなる裁許文がびっしりと記されています(図3)。裁許絵図はおよそ1630年頃より作られ始め、1720年代頃から数が減っていきますが、時代が下るごとに大型化する傾向にあり(注1)、裁許絵図の中でもかなり遅い時期である安永2(1773)年成立の本資料の大きさは県内最大級(注2)、裁許文の文字数も最大級です。幕府の権威を示すために大型の絵図が作られたとも言われますが、時代が下ると過去にあった関連争論の内容を記したり、訴訟方・相手方双方の言い分を詳しく記すようになったことにより、裁許文が増大したことも影響しているのではないかと考えられます。
では次に、何を示すためにこのような長い文面が必要だったのか、内容を確認してみましょう。この裁許文の釈文は(資料1)のとおりです。争点となったのは片瀬村(現藤沢市)と津村腰越村(現鎌倉市)の村境です。海辺の村々には漂着物は流れ着いた村のものとなるという慣習があり、明和5(1768)年3月、難破船の船板を片瀬村が取揚げたことを契機に、その船板が流れ着いた場所がどちらの村に属するのか、村境の認識が違うことが判明し、境界争論となりました。片瀬村(西側)と津村腰越村(東側)の間には龍口寺という日蓮ゆかりの古刹があり(図4)、これより前の享保12(1727)年、津村腰越村と龍口寺輪番八箇寺(注3)との間で境内地をめぐる争論が起こり、評定所の裁許が下り裁許絵図が作られていました(資料2(注4))。津村腰越村はこの享保12年の裁許絵図を利用し村境を示しますが、主張は認められず、一方で片瀬村が主張した「古境」も方角が合わず不採用とされ、新規に境界線が定められました。絵図には双方の主張する村境が水色の線で引かれており(図5・相州鎌倉郡津村腰越村与同国同郡片瀬村魚猟場出入裁許之事(論所部分))、(図6・図5のトレース図)、新たな境界線は太い墨色で示され、その上には評定所一座による捺印が行われています。
龍口寺はどちらの村か
本来なら、この境界線を引いたところで決着となるはずですが、この裁許では、村境以上に龍口寺および龍口明神の帰属が問題視されたようで、本資料の裁許文の大部分は、龍口寺の境内地範囲とその帰属問題について記されています。今回の裁許により、これまで曖昧であった龍口寺と龍口明神社地の帰属は、片瀬村とすることが決められました。
龍口寺境内地は形が複雑で、裁許文では「龍口寺境内ハ…龍口寺境内と心得」(資料1水色マーカー部分参照)のように長々と記しますが、絵図を見ればこの複雑な境界が一目瞭然です(図7・相州鎌倉郡津村腰越村与同国同郡片瀬村魚猟場出入裁許之事(龍口寺部分))、(図8・図7のトレース図)。桃色の線で龍口寺の境内地の範囲を示し、龍口明神社地もこげ茶色の線で示し、境内地内に居住する龍口寺門前百姓13軒の家も黄色で塗るなど、争論の要素について分かりやすく示しています。本裁許絵図は、太く墨引きした境界線だけでなく龍口寺境内の境界、さらには片瀬村・津村腰越村周辺の村々まで広域に描くことで、片瀬村・津村腰越村・龍口寺の三者の位置関係が分かるように作られているのです。
四枚目の裁許絵図
裁許絵図は幕府評定所・訴訟方・相手方の三者で保管すると先に述べましたが、今回の争論に関しては、龍口寺に対しても裁許絵図が下されました。さらに、同日付け、同じ評定所一座による裁許文の要約のような文書(資料3)も下されています。冗長であった裁許絵図の裁許文と比べ大変簡潔にこの裁許の内容を示しており、龍口寺の境内範囲については触れず、龍口寺・龍口寺門前百姓・龍口門前社地ともに片瀬村分とすること、片瀬村は地引網、津村腰越村は沖猟をすること、共同で使う際には仕来りを守ることなどが記されています。評定所と龍口寺にとっては龍口寺境内の境は問題ではなく、その帰属が重要であったのでしょう。
最後に、この裁許絵図裏に記された裁許文の表題は「相州鎌倉郡津村腰越村与同国同郡片瀬村魚猟場出入裁許之事」ですが、当初より片瀬村は地引網猟、津村腰越村は沖猟とあり、漁猟場は同一ですが、その漁法が完全に分けられているため、魚猟場について争われてはいません。そして、この裁許絵図をここまで大型化せしめた理由でもあり、本来重要と思われる龍口寺の名が表題に全く記されていません。そもそも、片瀬村と津村腰越村はこの時どちらも下野烏山藩の領地であり、龍口寺が関わらなければ評定所の案件でもありませんので、龍口寺の名を記すことは重要と考えます。もし内容に則した表題をつけるとすれば、「相州鎌倉郡龍口寺幷津村腰越村与片瀬村境論出入裁許之事」(そうしゅうかまくらぐんりゅうこうじならびにつむらこしごえむらとかたせむらさかいろんでいりさいきょのこと)と付けたいと思います。
(根本 佐智子・当館非常勤学芸員)
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